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夜更けにふと、用もなく人に電話をできますか? 電話のアポを事前にとる昨今の風潮に想う、時代とコロナが私たちから奪ったもの

夜更けにふと、用もなく人に電話をできますか? 電話のアポを事前にとる昨今の風潮に想う、時代とコロナが私たちから奪ったもの

西川 美和

『ハコウマに乗って』収録「もしもしわたし」より #2

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #随筆・エッセイ

「ナイター中継を最後まで流すこと」主演の沢田研二が『太陽を盗んだ男』で突きつけた政府への要求に思い出す、テレビのスポーツ中継でしか観られないものとは?〉から続く

 かつての私たちは、思い立てば電話をかけていた。家庭でも、電話が鳴れば食事中でもテレビを見ていても、誰かも構わず受話器を取っていたものだ。そうして取った、用もない知人の長電話に付き合ってもいた。ある日、そんな“古き良き”電話をかけてみようと思い立った西川美和氏は……。

 ここでは、『ゆれる』『ディア・ドクター』『すばらしき世界』など、数々の話題作を手掛け、またエッセイ・小説の名手としても知られる映画監督の西川美和の最新エッセイ『ハコウマに乗って』(文藝春秋)の一部を公開中。アフター・コロナのコミュニケーションについての鋭い考察を紹介する(全3回の2回目/#1を読む。初出:2021/11/10)

西川美和さん ©文藝春秋

 夜更けにふと、用もなく人に電話をできますか。

 気がつけばそんな習慣を忘れていた。前触れもなく相手の時間に飛び入りすることに不躾さを抱くようになったのは、私だけではないと思う。「電話していい時間はありますか」と事前にアポを取る時代だ。まだ会社だろうか、子供を寝かしつけているだろうか、メールの返信に追われている頃だろうか。みんな互いの時間をひどく大切にしている。

 夏の間実家に帰っていたら、後期高齢者枠に入った父母はたびたび親類や友人と電話していることに気がついた。思い立てば相手の番号を押す。電話が鳴れば食事中でもテレビを見ていても、誰かも構わず取る。そして長々話に付き合い、自分も喋る。三十分、一時間、まだ喋ってるのかと思う。でも声を立てて笑っている。LINEのやりとりじゃこうはいくまい。

 オンライン飲み会ブームも去った。基本に立ち返るべく、私もある晩友人に電話してみることにした。テレワーク中心で、離婚して高二の娘と実家住まいの五十歳。年に一度会う程度で滅多に連絡もしないけど、まあ許してくれるだろう。

「もしもし? 西川さん、どうしたの?」

「いや用はないけど、電話してみたんだよ。やらなくなったじゃん、こういうの」

「わかるよ、いいね」

 互いの近況に始まり、娘の進学問題、ドラマや映画情報、五輪の感想、衆院選、と一通り喋り、ついに話題は韓国アイドル「BTS」に及ぶ。私の一番弱い分野。

自律神経に不調を来していた友人は、BTSにハマってから症状が安定しているという

「ごめん私、よく知らないのよ。七人組だってことも最近知った」

「そんなものよ。私も娘に言われて半信半疑で動画を見たのがきっかけだけど、ハマってさ。今、一番安定してるのよ」

 彼女は数年前に高熱が続いて精密検査や医者巡りを繰り返し、結果的には自律神経の不調や精神疾患と診断されて、仕事のペースダウンが定着していた。

「ばらつきがあるんだよね。昨日まで元気だったのにいきなりベッドから起きられなくなったり、言葉がつっかえて出なくなったり。人や物の名前も恐ろしいほど忘れるし、一種の認知症よね。それが病気のせいか、薬の作用なのかはわからない」

 薬の効果は、服用してみないとわからない。良くなったところと悪く出た症状とを報告し、長い時間かけてその人に合った種類と量を見定めていくそうだ。

「かと思うと、気づけばユニクロで同じTシャツを十枚買ったり、夜中三時にひたすら床を磨いたりしてるの。突然部屋にペンキを塗りたくって、娘との二段ベッドは今すごくファンシーな色よ。躁状態になると、やりたかったことを無我夢中でしちゃうらしい。でも医者にはあなたは地味で堅実だって言われるのよ。預金を空にして株を買っちゃう人もいるって」

 

 よく笑い、闊達でドライな性格だが、病は人をえり好みしないのだろう。奇異な行動や不調は仕事場で出ることもあり、周りに理解を得るまで苦労したはずだ。

「だんだんわかってくるの。『ああ来るな』って。さっきまで普通に仕事してた相手に電話して、『ごめんなさい、私たぶん明日爆発するから、休ませて』って」

 それがBTSですっかり安定してるのだという。フェニルエチルアミンなのかオキシトシンなのか、脳内に分泌される自前の愛情物質、幸福物質が、処方薬以上の効果を発揮してるのか?

「恋をしてる感覚?」

「お遊戯会で息子が出てくる感じかな。きゃああっ、頑張ってえ~! って。浮かれた気持ちとともに、育んで行く感覚よ。西川さんが好きなスポーツのチームを見てる感覚と近いんじゃないの」

「確かに二遊間を抜ける当たりをカープの菊池がさばいたときは……」

「たぶんそれ。恋愛感情とは違うでしょ」

「滅相もないよ」

「気がつけば口角が上がってるの。気持ち悪いのは自分でも承知してる。でも健康にいいんだよね」

「続けるべきだよ。これほど罪がなく、持続可能な健康法はない」

「私、計画ができたのよ。彼らが兵役を終えて再結集して、いつか日本にくる時が来たら、私は還暦くらいかもだけど、それまで元気に過ごして生でライブを見るぞとね。受験や就職の時さえ未来にプランを立てなかった私が、初めてよ」

「いいなあ、夢があって!」

 

職場では聞かせられない、タメにならない話をする夜

 私たちの雑談に科学的根拠はなく、長電話は彼女の時間を奪い、私の執筆の手は止まった。だけどいいもんですよ。一対一で相手の肉声に耳を傾けながら、職場では聞かせられない、ためにならない話をする夜は。それが時代とコロナが私たちから奪ったものだ。一人で解決できない問題じゃないから人に話さない。取るに足りないことだから黙っておく。そんな自制の折り重なりが人を内側に籠城させ、喜びも思いやりも冷凍焼けさせていく。彼女の回復の話を聞きながら、私の内側に滞っていた空気も入れ替わった。まるで心の換気。皆さん、迷惑承知で、今晩誰かにいきなり電話をしてみませんか?

単行本
ハコウマに乗って
西川美和

定価:1,980円(税込)発売日:2024年04月05日

電子書籍
ハコウマに乗って
西川美和

発売日:2024年04月05日

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