- 2024.07.19
- インタビュー・対談
伝説の「山の神」柏原竜二が唸る『俺たちの箱根駅伝』取材を「される側」から「する側」になって
池井戸潤最新長編『俺たちの箱根駅伝』書評インタビュー・後編
ジャンル :
#小説
圧倒的な走りで「2代目・山の神」と呼ばれ、東洋大学を3度の総合優勝へ導き、 “黄金時代”を築き上げた柏原竜二さん。卒業後は富士通に進み、現在は「箱根駅伝」を解説する立場となった。
「箱根駅伝」を内と外から見続ける柏原さんは、池井戸潤氏最新長編『俺たちの箱根駅伝』をどう読んだか。また、今春からの大学院への進学を発表した彼が、「新たな挑戦」を続ける理由とは――。
ロングインタビュー後編です。
池井戸さんはどこで心理学を学んだんだろう?
――『俺箱』の主人公・青葉隼斗くんが「いい仕事をしている」というコメントもいただきました。
僕が最後まで読んで、泣きそうになったのが隼斗くんのシーン。彼がチームのために果たしている役割は大きくて、いくら甲斐監督が土台を作っても、実際にチームを作り上げる選手たちが乗ってこないと活かされない。隼斗くんは、「キャプテン」という立場から、このチームの「心理的安全性」を作り上げた。その功績は大きいと思います。
隼斗くんは、見ようによってはチームのために働きすぎ、もっと自分個人にフォーカスしてもいいのに、っていうキャプテンで、自己犠牲を払える性格。僕たちのチームで言うと川上(遼平)みたいなタイプ(笑)。でも池井戸さんが彼の働きを意識していて、最後に解放するような筋書きだったのはさすがだな、と思いました。
甲斐監督が議論のための「土台」を作りあげたことや、主務・矢野計図くんが「下の名前で呼び合いませんか?」と提案するところを見ると、このチームは「心理的安全性」を担保させようとしたチームだなと思います。心理学用語で、“オープンなコミュニケーション、失敗への寛容、サポートと尊重、多様性を受け入れている”という4つのことが共有された状態を指します。会社など、組織の中でいかに「心理的安全性」を高めるかということが日夜議論されているわけですが、本書で描かれているチームは、これが非常にうまくいっている。池井戸さんはどこで心理学を学んだんだろう? と不思議に思っています(笑)。
「取材する側」になったからこそ
――本作は「一度は敗れた者」たちの戦いでもあります。柏原さんが現役時代に見ていた風景とは異なる箱根駅伝だったのではないでしょうか?
僕は現在の「取材をする側」という立場になったからこそ、一層面白く読めたんじゃないかと思います。2019年から文化放送の「箱根駅伝への道」のパーソナリティを務め、また1月2日、3日は「文化放送 箱根駅伝実況中継」の解説も担当しています。そのために毎年多くの選手を取材する中で、それぞれの背景が見えてきたんです。だから、取材する側としては、作中で「箱根駅伝」中継のメインアナを務めた辛島文三アナウンサーの働きに痺れました。
辛島さんの声も、雰囲気も知らないはずなのに、読んでいると頭のなかで実況中継が聞こえてくるんです。不思議な感覚でした。きっと、本選が始まるまでに辛島という人間の造形について布石が打ってあったから、実況の段になって辛島さんの声が聞こえてきたんでしょうね。
本作ではテレビ中継を担う「大日テレビ」の面々の戦いが活写されますが、実際に「箱根」を取材していると、日本テレビの中継班の働きには驚かされることが多々あります。この選手を伝えるこの一文は、他のメディアでは誰も引き出せていなかった、という光る一行が絶対にある。取材する側のリアリティがあるし、今まで誰も描いてこなかった「伝える」人たちの話があるからこそ、本作は面白いと思います。
――取材を「される」側から、「する」側になって、箱根そのものへの見方は変化しましたか?
引退するまではそもそも「見方」なんてなかったですね。ただ「走りたい」というだけだった。自分以外のことに興味がないというか……。いまは選手たちに失礼のないように下調べをしますが、現役時代のほうが他の選手のことを知らないです。唯一、大迫傑くんが出てきたときは意識しましたけど、やっぱり意識した時点で「ダメ」になりました。
もともと出身高校が陸上の名門校ではなかったこともあって、知り合いもほとんどゼロ。陸上を引退して、取材を「する」側になって、選手たちが何を考えているんだろう、ということに興味が湧いてきたんです。
大学院進学を決めたわけ
大学院への進学を決めた理由もそこにあります。「箱根駅伝への道」を担当して5年目だった去年が、自分の中で一番成長できていないように思ったんです。
僕らにとっては1年は短くて、「もう誕生日?」って感じだけど、選手にとっての1年は本当に長いし、いろいろなことがあるはず。なのに彼らに対して、僕は取材者としていい働きが出来たか?と問われると、やり切ったと言えなかったんです。
そこで酒井(俊幸)監督に相談しに行きました。そしたら「死ぬまで勉強だと思えばいいんだよ」って。それで大学院へ行ってみよう、心理学を勉強してみようと決意しました。
――富士通に在籍されながら院進を決めたというニュースを見て、何があったのかな?と思っていました。
伝える側にも成長はあると思うんです。院進が利益につながるかと問われたら、直結はしません。でも、確実に自分の人生が豊かになっていると断言できる。
これまで、選手たちにインタビューをする中で相談を受けても、自信をもって何か言うことが出来なかったんです。「あまり肩ひじ張らないほうがいいんじゃないか」と思っても、それを補強するような理論も、データもなかった。
でも、いまの僕だったら、去年よりもいい助言ができるかもしれない。どんどん競技がロジカルに、科学的になっている今に即した取材を、助言をできるようになりたい。そのためには学び続けないといけません。
毎年必ずやってくる現実の「箱根駅伝」という物語が、いまから楽しみです。