音楽、絵画、小説、映画など芸術的諸ジャンルを横断して「センスとは何か」を考える、哲学者の千葉雅也さんによる『センスの哲学』。「見ること」「作ること」を分析した芸術入門の一冊でもあり、『勉強の哲学』『現代思想入門』に続く哲学三部作を締めくくる本書は、2024年4月の発売以来、累計55000部のベストセラーに。
最新刊『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』(KADOKAWA)が話題の臨床心理士・東畑開人さんとの対談が実現。「文藝春秋」(2024年9月号)の対談を前後篇に分けてお届けします。#前篇
生きることと芸術は深くつながっている
東畑 千葉さんが4月に出された『センスの哲学』、非常に面白かったです。どのような動機でこの本を書かれたのですか?
千葉 一つ目の大きな狙いは、絵画、音楽、映画など様々な芸術のジャンルを横断する「全芸術論」を書くことでした。あらゆる芸術は要素の反復とそこからの逸脱で構成されていて、そこから芸術の面白さが生まれている。そう捉えれば、すべての芸術を論じることができる。まずそのことを説明したかったんです。
その上で、では人間はなぜ反復と逸脱がバランス良く配置されていること、あるいはそのバランスが崩れていることに惹きつけられるのか? それを解き明かしたかった。その問いに答えるために精神分析を援用しました。人はなぜ生理的な必要性を超えて何かをしたくなるのか、という「欲望」を説明できる学問的体系は、現状では精神分析しか存在しないと考えているからです。
東畑 なるほど。『センスの哲学』ではまず、あらゆる芸術を「意味」の手前で、「リズム」として捉えてみよう、という提案がなされます。たとえば、絵画なら、何が描かれているかではなくて、どう描かれているか、色や形がどう配置されているかに注目し、作品「それ自体」を体験し、味わってみよう、と。
でも、たいてい私たちは芸術作品を見ると、まずはこの作品は何が言いたいんだろう? この作品のメッセージは何なんだろう? と「意味」の次元で捉えようとしてしまいます。日常生活でも、建物を見れば、「これは一軒家だな」と思い、赤い果物を見れば、「これはリンゴだ」と認識します。
「意味」にとらわれずにリンゴを「それ自体」として体験するとしたら、まずは赤い丸みを帯びた物体として現れてくるでしょう。表面は滑らかだけれども、少し固そうだ、上部には細い棒のようなものが飛び出ている。よく見ると、青みがかった部分もある……。
「意味」とは何か?
東畑 そんな体験になるのでしょうが、「意味」から離れて、目の前にあるものを「それ自体」として感じることはなかなかに難しい。そう考えていくと、人間を縛っているこの「意味」とは何なのだろう? という疑問が湧いてきました。千葉さんは、どう考えていますか?
千葉 東畑さんは臨床心理の専門家としてどう考えていますか?
東畑 正面からの答えにならないかもしれないんですが、「意味」とは何なのか? という問いにあらためてぶつかったのは、「マインドフルネス」と「メンタライゼーション」が臨床心理学の最先端になっているからです。
といっても何のことやらだと思いますので説明しますと、「マインドフルネス」は、仏教の瞑想から宗教性を取り除いて、「今ここ」で自分に起きていることに気づいていこうとする技法で、「メンタライゼーション」は自分や他人の心の状態に気づいていくための技法です。
前者は認知行動療法の、後者は精神分析の最新潮流ですが、どちらも心の中身を理解していくというよりも、心の次元そのものを可能にしようとするのが目的になっています。つまり、「意味」ではなく、心を体験することそのものを目指しているということですね。この二つが臨床心理の最先端になっているのが興味深いと思ったんです。
僕らは「意味」の次元に囚われるときに心を失ってしまい、殺到する「意味」を一度置いておくことを必要としているのだろうか、みたいなことを考えていて、改めて「意味」とは何かと思ったんです。
人間を規定する言語というもの
千葉 『センスの哲学』やマインドフルネスで、いったん「外しましょう」と言っているのは、基本的には社会規範でしょうね。
僕は、前提として、人間というのは複雑なことをするサルの一種だと捉えています。その前提に立つと、人間が作り上げてきた制度や儀礼、性規範などは、かなり迂回され、婉曲化された本能的行動だと考えられます。この迂回を精神分析では「倒錯」と言います。
人間の基本的な行動原理は、他の動物と同様、栄養摂取や危険回避、生殖などによって構成されています。加えて人間は社会的動物で群れを形成して、そのなかで生きていますから、群れの秩序を維持するための権力関係にまつわる行動原理がインストールされている。
それらの行動原理が迂回され、倒錯化されることで、制度や規範、儀礼などが形成されていく。なぜ制度が今あるようなかたちになるのかは、説明しきれませんが、言語がその過程で大きな役割を果たしていることは間違いありません。人間は言語によって直接的な体験を間接化し、バーチャルな世界を作れるようになった。そのため自分たちを取り囲む制度や規範、儀礼などを形成できた。しかし、もっぱらそれらを通じて世界を体験しているので、それらが与えてくる「意味」に常に縛られている。
ですから、映画を見たときも、「こんな恐ろしい事件が起きないようにわれわれはがんばらなければならない」とか「ここで描かれたような人助けは素晴らしいから、世界はもっと愛に満ちるべきだ」といった「意味」やメッセージを受け取ってしまう。それは人間が常に群れで生きていくときに制度や規範はどうあるべきか、また、それをどう運用するべきかを考えているからでしょう。ほとんどの人がそういう次元で日々を生きている。人間同士の諍(いさか)いもほとんどそこに端を発しているのではないでしょうか。
東畑 すると「意味」の根っこには、やはり言語があり、人間はそれにやられちゃっている。
千葉 そうだと思います。『勉強の哲学』(小社刊)『現代思想入門』(講談社現代新書)『センスの哲学』の3部作は、そのような認識に立ったうえで、その「意味」の呪縛を一回外して、より自由な欲望の可能性を開いていくにはどうすればいいのかを実践的に書いた本です。
コスパ、タイパは芸術の対極
東畑 『センスの哲学』で、芸術の存在意義を解明していくくだりで、「芸術に関わるとは、そもそも無駄なものである時間を味わうことである。あるいは、芸術作品とは、いわば「時間の結晶」である」と書かれているのを読んで、ハッとさせられました。
千葉 先ほども言ったように人間はたいてい社会規範、共同体の秩序、そして資本主義と強く結びついた有用性などをベースにして、自分の周りで起きていることの「意味」を理解しようとします。でも、その「意味」から離れて、何か別の時間軸で時間を取ることが芸術体験の持っている豊かさであることを示したかった。
コスパやタイパという言葉が最近よく使われていて、無駄なことをしたくない人が増えてきたようですが、芸術に関わることは、それとは正反対に無駄そのもののような時間を過ごすことです。
東畑 そのような時間をすでに味わっている人には、「ああ、あのことだな」とだいたいわかるのかもしれないのですが、僕自身コスパやタイパに振り回されている日常なので、どうしてもそういう時間の感覚を見失ってしまいますし、その価値を忘れてしまいますね。
千葉 『センスの哲学』は、まさにそのような人たちに向けて書いた本なんです。また美や快楽は、死や苦痛などのネガティブなものと常につながっていることをはっきりと示すことも、重要なテーマの一つでした。
人間は他の動物に比べてあり余る認知能力を持っているので、これをやると役に立つとか目的が達成できるといった道筋から外れると、結局何をしたらいいのかわからないという不安に陥ってしまう。その不安をどうしたら快楽に変えていけるのか。そのための技術や方法を実例とともにたくさん示しました。
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特別企画【センスにまつわる質問箱】
『センスの哲学』に関連して質問を募集することになりました。「センス」や「芸術」、あるいは「芸術と生活」について、千葉雅也さんに聞いてみたいことはありませんか? こちらのフォームから質問をお寄せください。
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募集期間は9月23日まで!
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