――ねえ、助け合ってみない? 僕たち。
死んだ理由が分からないまま彷徨っている小説家の幽霊と、謎めいた美形の古物商。
曰くつきの青年2人が織りなすホラー短編集『幽霊作家と古物商 夜明けに見えた真相』が、10月9日に文春文庫より発売されます。
本作は、7月に刊行された『幽霊作家と古物商 黄昏に浮かんだ謎』の続編になります。
発売を記念して、収録短編「呻き匣」を公開します。
古道具屋「美蔵堂」に訪れた男性が持ち込んだ、装飾のついた匣(はこ)。どうやらその匣には、乱心した男の霊が取り憑いているようで――。
いつものように美蔵堂へ行くと、類は商談の真っ最中だった。
壁をすり抜けてきた俺の姿を見留めた彼は、さりげなく説明してくれた。
「──にしても、こんなに綺麗な匣から呻き声が聞こえるなんて、不思議ですねぇ」
へぇ、と俺はカウンターに腰かけた。類の向かいに座っていた中年の男性が頷く。
「にわかには信じられないでしょうが、私も聞いたことがあるんです。普段は大人しいのですがね、たまに聞こえてくるんですよ。もう、気味が悪くって……」
二人の間に置かれていたのは、角に金細工の装飾がついた、両手に乗るくらいの小匣だった。
「七宝ですね」と、類が素手で手にとる。
白手袋をしていた男は少しぎょっとしたように見えた。
「あぁ、気になりますか? ですが美術品を扱うのは素手が一番ですよ。手袋なんてしていたら滑るでしょう」
「そういうものなのですか」
「手からの汚れは脂か指紋くらいなものですが、拭けば取れますからね。洗い立てのなにも塗っていない手が一番です。わざわざ手袋なんかするのは、パフォーマンスでやっている場合がほとんどだ」
「なるほど」
「へぇ」と俺も声を漏らした。
類がくすりと鼻を鳴らす。男は納得したのか、匣の由来を話してくれた。
「この匣には乱心した男の霊が取り憑いているとのことです。私の曾祖父……にあたる人だそうですが。……怠け者で、横暴で、大変な人だったそうです。そのうえ晩年は気が違ってしまったそうで……」
彼は言い淀んでから、上目で類を見た。
「死んだあと、曾祖母の愛用品だったこの匣に取り憑いてしまったそうです」
「ほお、なぜ妻の物に?」
「逆恨みですかねぇ」
俺は好奇心に身を乗り出す。
そのとき、匣のなかから微かな音が聞こえた気がした。
「そのうち曾祖母も死んで二人の遺品は整理されたのですが、この小匣だけはなぜか売れなかったそうで、ずっと家にあったと」
匣からは、また音がした。しかし男はまるで気に留めない。類もだ。
どうもよくない気がして、匣から離れようと近くのソファに移動した。
──う。
俺は肩をぴくりと震わせる。
──うう、ううぅぅ……。
「……ん?」
呻き声は徐々に大きくなり、類も、次いで男もやっと匣に視線を落とした。霊感があると聞こえやすいのか……俺は霊そのものだから、一番よく聞こえたようだ。
「ずいぶんと恨みがましい声ですね」
類はゆっくりと首をかしげた。男は怯えて椅子から腰を浮かせていた。
「これ、開けたらどうなるんですか?」
「と、とんでもない! 開けたことなどありませんよ。金具も錆びているようですし」
彼が指差した匣の側面には、掛け金がついていた。硬そうに黒ずんでいる。
「開けた者は呪われる、と伝え聞いております」
「ふぅん。それで今まで誰も開けなかったのですね」
類が電卓をたたき買取金額を提示すると、男はそのまま匣を売って帰っていった。珍しい、あとから振り込むことにしたということは、けっこうな値をつけたのだろう。
「さて、どうやって綺麗にしようかな」
と、言いつつ今すぐ取りかかる気はないようで、類は二階の私室へ昼食をとりに上がっていってしまった。
──ううぅぅぅ、うぐうぅぅ……うっ、うっ……。
苦しげな声……耳を澄ますと、泣いているようにも聞こえた。
──い、……どい、……ひどい……。
ねっとりした口ぶりに背中がぞわつく。もはや俺の耳には微かな呻きではなく、はっきりとした言葉が聞こえていた。
──つき……。
「え?」
匣はぴたりと声を止める。顔を近づけてみた。錆びた鍵の周りには、透明に照る結露のような塊があった。
「これは……」
次の瞬間。
──う、う、うううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……!
呻き声が大きくなった。照明が明滅し、耳障りな声が入口の硝子をびりびりと震わせた。思わず身構える。
二階から類が駆け下りてきた。
「なにしたの?」
「類……この、なかの霊は……」
──嘘つき、嘘つき……。
俺は側面からそっと指を差し入れてみた。
声は密やかな嗚咽に変わる。
──…………。
「ほら、こっちの様子を窺ってるぞ」
彼はあくまで正気なのではないかと、思った。
「ああ」と類はこともなげに小首をかしげる。
「やっぱりか……響さん、掛け金の周りを見てよ。これ接着剤だよ」
「……! 『どうやって綺麗にしよう』ってこれのことか……?」
「そうそう」
無理に剥がしたり削ったりすると傷めてしまうだろう。
そうこうしているうちに、呻き声は萎んでいく。
何年、こうしていたのだろう。どうにも哀れで仕様がなくなってきた。
「なぁ……開けたら、成仏できるか?」
俺は類と、なかのものに尋ねた。匣からは息をひそめる気配がした。
後日、類があの男に連絡を取り事情を話すと、男は方々に話を聞きにいってくれたという。すると伝え聞いた話に、おかしなところが多いということがわかった。
「当時世話になった人たちのあいだでは『曽祖父は人格者だった』という声もあり……」
「気が違ったんじゃなく、気が違ったことにされたのかもしれませんね」
類はそう言ってのけた。
「それから、この匣は曽祖父の死後に買われたものだった……という話も」
──取り憑いたのではなく、閉じ込められている。
それが導き出された結論だった。
蓋の開いた匣のなかには、もうなにも入っていない。
青い天鵝絨張りの空間がぽっかり口を開けている。
乾いた布で、その匣を磨く類の背を見て、俺は呟いた。
「すまん。霊つきだったのに、ただの匣にしてしまった」
売り主の立会いのもと、接着剤を除去して匣を開けると、陽炎のようなものが立ち上がって、消えた。類と男にも確かに見えたらしかったが、それ以来、なにも起こらなくなったので、本当のところは確かめようがなかった。
だが、匣からは厭な感じがまるでしなくなった。
類は足を組み替え、背もたれに寄りかかる。
「いいよ別に。霊は消えたようだけれど。これはたぶん、ただの匣じゃない」
「え?」
「こんなに長いあいだ霊を閉じ込めていられたんだ。立派だよ」
「そうなのか?」
「うん、作り手の魂が籠っているんだ。大量生産の工業製品と違ってね、人の手が長い時間触れて作られた物には、作り手の生命力や想いなんかが乗り移るものなんだ」
「へぇ」
「そうじゃなきゃ閉じ込められたほうも、まともじゃいられなかったと思う。こう言ってはなんだけど、居心地は悪くなかったんだろうね。丁重な牢のように」
類は目を伏せて、薄く微笑んだ。
「残念ながらいいことには使われなかったようだけれど。次はいい使い方をされるといいね。物は、使う人次第だから」
了
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