「小説家になろう」からデビューし、様々な人気作品を手がける著者・雨咲はなさんによる『暁からすの嫁さがし』。妖魔がはびこる明治東京を舞台に、しっかり者の令嬢・奈緒と、不思議な一族の血を引く青年・当真が、帝都を脅かす「妖魔」がらみの事件に挑みます。
シリーズ第2巻の発売を記念して、第1巻のプロローグ~第1章を無料公開!
奈緒と当真、二人の出会いと最初の事件が描かれます。
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──耳を澄ませよ人の子よ、この声聞こえる者あらば、あやしの森へと来るがいい。
「奈緒さん、どうかして?」
問いかけられた声にはっとして、深山奈緒は上空に向けていた視線を、自分のすぐ隣へと戻した。
友人の実川雪乃が首を傾げ、こちらを覗き込んでいる。
その切れ長の目には、急に黙り込んで空を見上げた友人に対する、純粋な心配が浮かんでいた。それを素早く見て取って、奈緒は努めて明るい微笑を浮かべた。
「あ、ごめんなさい。少しぼうっとしちゃって」
「お疲れなのではない? 転居していらして、まだそう日が経っていないのだもの」
雪乃がおっとりと微笑みながら気遣うように言った。矢絣の着物に袴という服装は同じだが、人から「しゃんとしている」と評されることの多い奈緒と違い、彼女の言動にはいかにも良家の子女らしい淑やかさと慎ましさがある。
雪乃は奈緒が東京に越してきてから、最初にできた友人だ。
大きな病院の娘ということだが、雪乃自身はまるで驕ったところのない、控えめで優しい性格をしていた。
「いえ、そんなことはないのよ。新しい女学校はどんなところかとちょっぴり不安もあったけど、雪乃さんが何かと教えてくれるから、とても心強いわ」
奈緒は生まれも育ちも横浜で、東京のことはとんと勝手が判らない。その奈緒のために、なにくれとなく世話を焼いてくれたのが、こちらで新たに通うことになった女学校の同級生である雪乃だった。
自宅が近いからと、こうして毎朝女学校への道のりを二人で歩くのもその一環で、雪乃とお喋りしているうちに、奈緒はすっかりこの周辺に詳しくなることができた。
「ううん、わたしも奈緒さんのようなしっかりした方とお友達になれて嬉しいの。それに本当のことを言うと、奈緒さんと一緒でわたしのほうが心強いのよ。なにしろこのあたりは静かすぎて、今まで怖い思いをしていたんだもの」
雪乃の言うとおり、今歩いているところはほとんど人通りがなく、しんと静まり返っている。通学路とはいえ、若い娘が一人で行き来するのは物騒でもあるだろう。
なにしろ、道の片側はのどかな田畑だが、もう片側には、鬱蒼とした森が延々と続いているのだ。
その深い森は人の手がほぼ入っていないようで、林立した木々はどれも枝が野放図に伸び、そこからもっさりと葉が生い茂っていた。それらが上から降り注ぐ陽射しを遮り、内部に薄い闇をもたらしている。
暗く、静けさに満ち、何もかもを呑み込んでなお沈黙を保つような、神秘と恐ろしさをたたえた場所のように思えた。
──このあたりの人々は、ここを「あやしの森」と呼ぶらしい。
「ずっと昔からある森なのですって。近頃はどんどん山林が切り開かれているけれど、ここはまったく変わらないのだそうよ。不気味な噂がいくつもあるから、祟りを怖れて誰も手が出せないという話を聞いたわ」
「……不気味な噂、というと」
奈緒が怯えていると思ったのか、雪乃はやや慌てたように「噂といっても、言い伝えやおとぎ話のようなものよ」という前置きをした。
「恐ろしい魔物が棲みついていて森に入った者を食べてしまうとか、迂闊に迷い込むともう出てこられないとか、実は森の奥深くに大きなお屋敷があって、そこに辿り着けた者はいないとか─ふふ、こうして並べると荒唐無稽すぎて可笑しいわね」
一つずつ数え上げるように指を折って語る雪乃の表情を見るに、彼女が本当にそれらをただの「言い伝えやおとぎ話」の類としか考えていないのは明白だった。
「お屋敷……そこに住んでいるのは、どんな人なのかしらね」
「いやね、奈緒さん。住んでいるもなにも、そんなお屋敷が実在しているはずないじゃないの」
雪乃がコロコロと笑う。奈緒もわずかに微笑んだ。
「その噂の中には、カラスにまつわるものはない?」
「カラス?」
唐突な奈緒の問いに、雪乃はきょとんとしてから、「ああ」と納得したように頭上を見上げた。
「そうね、さっきからうるさいわよね。わたし、カラスも、この鳴き声も好きではないわ。真っ黒な姿は気味が悪いし、ギャアギャアという声も耳障りなんですもの」
「ギャアギャア……」
眉をひそめる雪乃の言葉を反芻するように呟いて、奈緒も再び視線を上に向けた。
青い空には先刻からずっと、ひときわ目立つ黒い鳥が旋回するように飛んでいる。森の上空を舞い、まるで何かを訴えるがごとく鳴き続けていた。
ギャア。
──耳を澄ませよ人の子よ。
ギャア。
──この声聞こえる者あらば。
ギャア。
──あやしの森へと来るがいい。
「嫌だわ……」
思わず口からこぼれ落ちてしまったその独り言を、雪乃は「気味が悪い」という感想への同意だと思ったらしく「そうよね、イヤよねえ」と頷いた。
本当に嫌だ。
……雪乃にはギャアギャアという鳴き声にしか聞こえないものが、どういうわけか、奈緒には「人の言葉」として聞こえるなんて。
気のせいだ。そうとしか思いようがない。きっと一時的に耳がどうかしてしまったのだろう。だったら雪乃に心配させないよう、ここは全力で何事もない顔を保たねば。
あれはただのカラスで、おかしな言葉など聞こえない。
「噂はともかく、森の中は暗くて危ないから、子どもたちも親からここへは入らないよう言われているの。奈緒さんも気をつけてね」
雪乃の忠告に、奈緒は朗らかに笑って「ええ」と返事をした。
「入ったりしないわ、絶対に」
空ではカラスがまだしつこく鳴いていたが、きっぱりと無視した。
第一話 烏に反哺の孝あり
元号が明治になってから、三十年以上が経つ。
この間、文明開化の波とともに、時代はめまぐるしく変化した。政治、経済、社会、文化のあらゆる面において西洋化と近代化の洗礼を受け、人々は否応なくこれまでの価値観や生活を新しいものに馴染ませざるを得なくなった。
それに伴い女子教育の必要性も見直され、各地に女学校が設立された。裕福な家庭の子女は、そこで高等教育を受けられる。「女に学問など要らない」と言われていた頃に比べれば、大きな変革だ。
とはいえ、国を閉じていた時よりも飛躍的に女性の地位が向上し、立場も強くなったかといえば、それはまた別の話である。
「……そういう意味では、横浜も東京もそう変わりないわ」
ぼそりと呟いた言葉は幸い雪乃には聞こえなかったようで、「え、何か言った?」と訊ねられた。
「いえ、なんでもないの。さ、帰りましょうか」
その日の授業を終え、女学生たちが晴れ晴れとした顔つきで学び舎から出ていく。風呂敷包みを抱える彼女らの足取りは軽い。みな同じ袴姿だが、髪型がそれぞれ違うのがほんのわずかな自己主張ということだろう。
ちなみに雪乃は長い髪を上から一つに編んで白いリボンをあしらい、奈緒は三つ編みをくるりと輪にして後頭部で纏め、いわゆる「英吉利結び」という形にしている。
奈緒が雪乃とともに外に出ると、同じく帰る途中の下級生から声をかけられた。
「おねえさまがた、さようなら」
「え? あ、はい、さようなら」
目を瞬いてから挨拶を返すと、少女はぱっと顔に喜色を浮かべた。そばにいた友人らしき女の子と視線を交わし、頬を赤らめながら笑い合って去っていく。
そういえばこれは横浜とは違うわ、と奈緒は考えを改めた。
「東京の女学校では、上級生を『おねえさま』と呼ぶのねえ」
少し背中がムズムズするが、それがこちらの流儀だというのなら受け入れねばなるまい。困惑と感心を混ぜ込んだ表情で奈緒がそう言うと、雪乃が噴き出した。
「東京の女学校でもそんな呼び方は一般的じゃないわ。あの子たちが『おねえさま』なんて呼ぶのは奈緒さんだけよ。今の場合、わたしは単なる付け足しね」
「えっ、そうなの? どうして? わたしが他の人たちより一歳上だから?」
奈緒の父、深山英介は横浜で貿易商を営んでいるのだが、これからさらに商売の幅を広げるため、本格的に東京へ進出することにしたらしい。
その足掛かりとしてこちらに新しく住居を建てた父は、それが完成すると同時に、生活の場を横浜から東京へ移すよう娘に命じた。
しかしその時期が中途半端だったため、奈緒はあちらで通っていた女学校を卒業前にやめる羽目になり、仕方なくこちらの女学校で最終学年を年度初めからやり直すことにしたのである。
だから現在十七歳の奈緒は、雪乃ら他の同級生よりも一つ齢が上だ。
ただ、そういうことは別に珍しくないので、奈緒も特に気にしていなかった。それなのに他の子たちからは「おねえさま」と線を引かれていたわけか。今になって知った事実に、驚きとともに妙な疎外感を覚える。
もしかして皮肉を込めた呼び方なのかしらと考えていたら、雪乃は笑って手を振った。
「違うわよ。年齢というより、奈緒さんの雰囲気が『おねえさま』という感じなの」
「……よく判らないのだけど」
「奈緒さんて、いつも落ち着いた態度で凜としているもの。自分の意見をはっきり言うし、何事もてきぱきして頼りになるし、下級生が困っていると手を貸してあげたりするでしょう? だから憧れている子が多いのよ」
つまり「生意気で出しゃばりで気が強い」ということね、と奈緒は思った。少々自虐的なのは、昔から兄にさんざんそう言われてきたからだ。
「あの子たちを悪く思わないでちょうだいね。いろいろと夢を見て楽しめるのは今のうちだけなんだもの。浮かれているだけで、これっぽっちも悪気はないのよ」
「悪く思ったりしないわ、もちろん」
少々複雑な気分ではあるが、屈託なく笑いさざめく下級生の少女たちの姿を見れば、雪乃が言うように他意はないのだと思える。彼女たちも、親の目がある場ではあのように明るく声を出して笑ったりはしゃいだりできないのだろうから、「浮かれている」というのも間違いではないのだろう。
「夢を見て楽しめるのは今のうちだけ……か」
厳しい言葉だが、否定することはできなかった。女学校を卒業してしまえば、そこにはもう夢はなく、ただの「現実」が待っているだけなのだ。
「そういえば、雪乃さんは卒業後はどうするのか決まっているの?」
ふと思いついて訊ねると、雪乃は淡く微笑んだ。
「結婚するわ。もうお相手も決まっているの」
「そう」
その答えに驚きはなかった。この女学校に通っているのは、親が軍人だったり実業家だったりと家柄が確かな娘ばかりで、卒業後は雪乃のように「お嫁入りする」というのが多数を占める。
在学中に縁談がまとまることもよくあって、卒業を待たずに退学して結婚する者も珍しくはなかった。
雪乃は町内で最も大きな病院の一人娘だ。院長をしている父親は、この土地ではかなり名の知れた名士なのだという。おそらく嫁ぎ先もさぞ立派な名家なのだろうが、学業も茶華道の嗜み事も一通り身につけ、料理や裁縫にかけては奈緒よりもずっと優れた腕を持つ雪乃であれば、どんなところでも喜んで迎え入れるに違いない。
「雪乃さんなら、きっといいお嫁さんになれるわね」
その言葉に、雪乃は返事をしなかった。一瞬何かを言いかけたが、ふらりと視線を彷徨わせて口を噤む。
それからまた唇を微笑の形にした。
「そう言う奈緒さんは?」
「わたし……わたしは、まだ何も決まっていないの」
奈緒の未来は未だ白紙の状態だ。
──憂鬱なのは、そのまっさらな紙に絵を描き込むのは決して奈緒自身ではない、ということなのだった。
東京に新しく建てられた自宅は洋館である。
父がアメリカ人建築家に設計を頼んだというこの家は、ところどころ和風の趣があるものの、大部分は外国文化を取り入れたモダンな造りになっている。
日本にはないデザインに感嘆はするが、奈緒は正直、この洋館があまり好きではなかった。天井が高く、どこもかしこも開放的な西洋建築はなんとなく落ち着かないし、通気性があまり良くなくて高温多湿な日本にそぐわないとも思うからだ。
「おかえりなさいませ、お嬢さま」
玄関扉を開けると、奥から出てきた老女が奈緒を迎えた。
昔から深山家に仕え、幼い頃に母を亡くした奈緒と兄を育ててくれた女性なので、他にも女中はいるが彼女だけは別格扱いをされている。
「ただいま、ばあや」
挨拶を返し、持っていた風呂敷包みを渡す。人の好いばあやはニコニコしながらそれを受け取った。
「どうですか、東京の女学校にはもう慣れましたか」
「ええ、もうすっかりね。同級生のみなさんも良い方ばかりよ」
下級生からおねえさまと呼ばれているのは黙っていよう。なんだか変な心配をされてしまいそうだ。
「お父さまは、まだしばらくこちらには来られないのよね?」
「そうですねえ、横浜でのお仕事がなかなか片付かないようで。せっかく新しいお家を建てたのに、まだ一度も寝起きしていらっしゃらないなんてお気の毒な話ですよ。お嬢さまもお寂しいでしょう」
昔から商品の買い付けなどで頻繁に外国へ行って、滅多に顔を合わすこともなかった父親である。今さらそんなことを言ってもしょうがない。
奈緒は少し微笑むだけに留めておいた。
「お兄さまは?」
その問いには、ばあやは少し困った顔になった。
「なんでもお友だちのところに泊まるということで、二、三日帰られないと」
「またなの」
奈緒は呆れたように言って、ため息を押し殺した。
兄の慎一郎は、せっかく入れてもらった大学もろくに通わず、毎日のようにフラフラと遊び歩いている。父が東京に家を建てたのは、商売上の理由とはまた別に、素行不良気味の兄を一つの場所に落ち着かせて、監視下に置くという理由もあるのだろう。
だが今のところ、その目論見はまったく首尾よくいっていない。
一体何が不満なのか。顔を合わせればこちらを睨みつけ、「女は呑気でいい」といちいち毒を吐いてくる兄の考えが、奈緒にはさっぱり理解できなかった。
「お茶をお淹れしましょうか」
「ううん、今日中に浴衣を一枚縫い上げないといけないの。急がないと間に合わないわ。夕飯の時間になったら呼んでくれる?」
「まあ、また宿題ですか」
女学校というところは、外国語や数学も教えてはくれるが、裁縫や家事や手芸を教わる時間も、同じくらい割り当てられているのである。その外国語や数学にしたって、同年齢の男子が学ぶよりもよほど平易な内容だ。
要するに女子教育とは年頃の娘が「良妻賢母になること」を目標としていて、男子と同等、またはそれを超えるような学問は必要ない、という前提のもと成り立っているものなのだった。
女というのは、結婚するまでは親に従い、結婚してからは夫に従うのが当たり前。明治という新しい時代を迎えたとて、そこは昔からずっと変わりないまま続いている。
女学校に入ってからそれに気づいて、奈緒はひどく落胆した。横浜からこの東京に移っても何も変わりはないことを知って、さらに失望した。
「はあー……」
自室のベッドに身を投げ出して、大きな息を吐き出す。
浴衣を縫わないといけないのに、やけに億劫だ。やっぱり環境が変わったことで、疲れているのだろうか。
カラスの鳴き声が人の言葉に聞こえたのも、疲労からくる幻聴なのかもしれない。
──もしもあれが幻聴でなかったとして。
あやしの森に入ってみたらどうなるのだろう。何かが起きるのだろうか。
ひょっとしたら、人生を大きく変えるような何かが。
そんなことをふと考えて、すぐに苦笑した。バカバカしい。
奈緒はまだ十代だが、それでも常識から外れたことを自ら進んでやるほど愚かな娘ではなかった。母を亡くし、父は多忙でいつも不在、兄も不安定なこの状況で、奈緒までが道を違えたら、深山家は完全に崩壊してしまう。
人が奈緒に求めるものが「しっかりしている、頼りになる」という姿なら、そのように振る舞っていればいい。どうせ自分の未来さえ、自分で決められはしないのだから。
敷かれた鉄道を走る列車と同じだ。すでに存在している目的地に向けて進むしかない。線路から外れて好きな場所へ進むことなど、できはしないのだ。
奈緒はそう思っていた。
数日後、雪乃が行方不明になるまでは。
その日、雪乃は女学校に来なかった。
朝、いつも待ち合わせをしている場所に姿を見せなかったので、珍しく遅れてくるのかと思って奈緒は先に学校へと向かったのだが、結局帰りの時刻まで雪乃が現れることはなかった。
しかしその時は、あまり深く考えていなかった。人間なのだから具合が悪くなることはあるだろうし、それでなくとも、女子が学問を修めることを重要視しない大半の家では、女学校へ通うよりも家の用事のほうが優先される。
もしも明日もお休みなら、雪乃の家にお見舞いに行ってみようか──などと呑気なことを考えていた夕方頃、事態が一変した。
突然、奈緒の家に雪乃の両親が訪れ、「雪乃が行きそうな場所に心当たりはないか」と憔悴した顔つきで訊ねてきたのである。
聞けば、雪乃は昨日の夜からふっつりと姿を消して、それっきり家に帰ってきていないのだという。
奈緒は驚愕した。
当然、警察には行ったのか、人を使って捜索しているのかと急き込んで問いただしたが、雪乃の父も母もそれには曖昧に言葉を濁すばかりだ。二人とも「事を大っぴらにしたくない、できるだけ秘密裏に見つけたい」と考えているらしいのが伝わってきた。
「いなくなったと言いますと、それは雪乃さんが自発的にどこかへ行ったということなのでしょうか。あるいは、何かの犯罪に巻き込まれたということは?」
煮え切らない彼らの態度に苛々してきて、奈緒がそう問いかけると、二人はさっと顔色を青くしたものの、力なく首を横に振った。
「犯罪など、とんでもない。その、実は昨日、私が娘を叱りつけてね。それでつい衝動的に家を飛び出してしまったようだ。おそらく今頃は反省して、しかし帰るに帰れず、どこかに身を隠しているのだと思う」
雪乃の父は恰幅の良い口髭のある男性で、普段患者を前にしている時は堂々として威厳のある態度をするのだろうけれど、今は何かに怯えつつ虚勢を張る中年男性にしか見えなかった。
雪乃に似て線の細い母親のほうは、さっきから目元にハンカチを当てながら、「こんなことになるなんて、どうしたら」「聞き分けのいい子だと思っていたのに」とぐずぐず愚痴めいたことを呟くばかりだ。
あの雪乃が親に叱られるようなことをするというのも意外だが、それだけで衝動的に飛び出すなんて行動をとるのも、にわかには信じがたい。彼らの表情と態度からは、他にも何か口にできない事情があるらしいことがほの見えたが、それを女学生である奈緒には絶対に言わないであろうということも判った。
それに、あちらはあちらで、奈緒が雪乃のことについて何か隠しているのではないかと疑っているようだ。
「君はあの子と仲の良い友人だと聞いたが」
「はい。雪乃さんには非常に良くしていただいて」
「その……では、あの子に何か聞いていなかったかね。不平や不満をこぼしたりしていなかったか」
どうやら雪乃には、不平や不満を言いたいような何かがあったらしい。猜疑心を乗せてこちらを窺う視線は正直不愉快だったが、それよりも、何も気づいてあげられなかった自分の不甲斐なさに落ち込みそうだった。
「いえ、特に……雪乃さんはあまりそのようなことをおっしゃらない人でしたから」
その返事に、二人は明らかにホッとした表情になった。もしかして、ここに来たのはそれを確認するつもりだったのではないかと、つい穿った考え方をしてしまう。
「あの、雪乃さんを捜すのに人手が足りないということでしたら、女学校の友人たちにも声をかけましょうか」
奈緒がそう提案すると、今度は夫婦二人してぎょっとしたように目を剥いた。
「冗談じゃない、そんな世間体の悪い……いや、それには及ばないとも。うちの娘の不始末は、我が家で片付ける」
雪乃がいなくなったのを「不始末」と決めつけて、彼女の父は憤然と息を吐いた。
掛けていた椅子から立ち上がる。
「……手間を取らせて申し訳なかった。奈緒さん、といったか。雪乃は必ずこちらで見つけ出すから、この件は他言無用でお願いする。なんといっても、雪乃はもうじき結婚を控えた身だ。変な噂でも立ったら、困るのはあの子なのだからね」
まるで脅すような目つきで釘を刺された。内心でムッとしたが、それは表には出さず、「お力になれず、残念です」と自分も立ち上がる。
応接間を出ていきながら、雪乃の母が涙声で「あなた、西藤さまにはなんと言えば……」と小さく囁く声を耳で拾った。父親のほうがそれに対して「バカめ、あちらには何も言わんでいい。雪乃を見つければ問題ないんだ」と怒ったように返す声もだ。
パタン、と扉が閉じられると、ずっと部屋の隅で控えていたばあやが、呆れたようなため息をついた。
「まあ、なんでしょうねえ。娘さんがいなくなったというのに、ご自分たちの体面ばかりを気にしているようでしたよ」
本当ね、と返事をして、奈緒は今自分が着ている着物を見下ろした。こんなことなら動きやすい袴姿のままでいればよかった、と考える。
だが、着替える時間がもったいない。
「じゃあ、ばあや、行ってくるわね」
当然のように声をかけると、ばあやは「は!?」と目を見開いた。
「行くって、まさか、お嬢さま」
「もちろん雪乃さんを捜しにいくのよ。あのご両親に任せておいたら、見当違いの場所を延々と廻りかねないもの」
「んまあ、何をおっしゃってるんですか! もう夕方で、これから暗くなるんですよ! お嬢さまこそ危ない目に遭ったらどうするんです!」
「まだ夕方、でしょ。夜になるまでには戻るわ。それでも見つからないようなら、その時にまた対応を考えないと。場合によっては、ご両親が反対しても警察に駆け込むことになるかもしれないから、ばあやも心の準備をしておいてね」
それだけ言うと、奈緒はさっさと扉を開けて部屋を出た。
後ろから、「お嬢さま! ちょっと!」という悲鳴じみた声が追いかけてきたが、玄関から出てしまえばそれも聞こえなくなった。
外はそろそろ陽が傾きつつあった。
この分では、すっかり周囲が闇に覆われるまで、あと二時間もないだろう。あの両親がもっと早くに来てくれれば、とは思うが、できるだけのことはしようと心に決めた。
自発的に家を出たのであれ、何かに巻き込まれたのであれ、雪乃がどんなに心細く、恐ろしい思いをしているだろうと思うと、気が急くばかりだ。近頃はずいぶんと瓦斯灯が普及してきたとはいえ、このあたりはまだ夜になると真っ暗になる。
奈緒はまず、女学校へ通じる道筋を丹念に辿ることにした。
衝動的に飛び出して、特に目的地がないのなら、まずは毎日のように歩いて慣れ親しんだ道を無意識に選んでしまう、というのはありそうなことだと思ったからだ。雪乃のような娘が、いきなり知らない場所へ闇雲に走っていくというのも考えにくい。
何か手がかりはないかと、下を向きながらゆっくりと歩く。見つかってほしいような、見つかってほしくないような、複雑な心境だ。いっそこうしている間に、親戚の家で寛いでいる雪乃が発見された、ということにならないだろうかと祈るように思う。
そうしたら奈緒は怒って、叱って、ちょっと泣いてから、笑って許すのに。
視線を地面に固定したまま真剣な顔をして歩く奈緒に、たまに行き交う人々が「落とし物かい?」と声をかけてくる。彼らに雪乃の特徴を話した上で、見かけなかったかと訊ねてみたが、何も収穫はなかった。
いつしかそれらの声がすっかり聞こえなくなり、ふと気づけば奈緒は「あやしの森」のところにまで来ていた。周りには自分以外、人の姿はない。薄く茜色に染まりかけた上空にはカラスさえ飛んでいなかった。
しんとした静寂だけがある。
この場所に一人きりであることを自覚した途端、急に、ひやりと冷たいものが背中を這い上がった。
疲労とはまた別の理由で、鼓動が速くなる。どくんどくんと心臓が胸の内側を叩いているようだ。さっきからうなじのあたりがちりちりと逆立つような気がしている。なぜだろう、ひどく落ち着かない。
考えてみれば、今は黄昏時にさしかかった頃合いだ。人が支配する昼から、魔物が支配する夜へと移り変わる、中途半端な時刻。そこにいる人に「誰そ彼」と問いかけることで、あの世に連れていかれることを防いだという。
暗がりの中、自分の前に立っているその相手は、果たして人なのか、あるいは魔性のものなのか判らないから──
それが黄昏、逢魔が時。
「だめだめ、そんなこと考えちゃ」
奈緒は慌てて頭を振った。きっと、雪乃から聞いた森についての噂を思い出してしまったためだろう。この新時代に、魑魅魍魎なんて馬鹿げている。
つい早足になってしまったが、それでも森の前を歩く奈緒の視線は地面に向いていた。こんなところに何もあるわけない。あるはずがない。お願いだから、何も見つかりませんように。
しかしその足が、ぴたりと止まった。
「ああ……」
唇から呻くような声が出た。眉が下がり、顔が歪む。
震える手で、落ちているものを拾い上げた。
白いリボン。間違いない、いつも雪乃が自分の髪を結わえていたものだ。
そのリボンは、森の入り口に立つ木の根元に落ちていた。おそらく張り出した小枝に引っかかったのだろう。
まるで、持ち主がそこに入ったことを教えるように。
躊躇したのは数分だ。奈緒は意を決して顔を上げ、唇を強く引き結ぶと、あやしの森に踏み入った。
森の中はさらに暗かった。夕日の黄金色の輝きも、この場所では半分が葉によって遮られてしまう。それらの間から漏れてくる光を頼りに、奈緒はおそるおそるといった調子で進んでいった。
自生しているのは大半がブナの木のようだが、それらの中にはずいぶん樹齢が古そうなものもあった。ずっと昔から、形を損なわず続いてきた森なのだろう。道などというものはないので、縦横無尽に生えている下草を踏み、ぼこぼこと露出している太い根を避けながら、少しずつそろそろと歩いていくしかない。伸びた枝に着物の袖が引っかかって、余計に難儀した。
祟りを怖れて誰も手が出せない──という雪乃の言葉を思い出し、ぶるりと身を震わせる。
奈緒だって本当は、怖くて怖くてたまらない。人を食べるという魔物の話もそうだが、もっと現実的な問題として、獣や虫に襲われたらどうしようという切実な恐怖もある。いくらしっかりしていようと、奈緒とて年頃の娘、ミミズもムカデも蛇も、見かけたら大音量の悲鳴を上げてしまうくらい大の苦手だ。
さっきから暑くもないのに汗が止まらなかった。顔からはすっかり血の気が引いて、ばくばくという心臓の音が頭にまで響いている。ガサッとどこかでかすかな音が鳴ると、そのたび過剰に反応して飛び上がった。
奈緒の足が止まらないのは、ひとえに、手に握っている白いリボンのためだ。
考えたくはないが、親に叱られとぼとぼと夜道を歩いていた雪乃が、何者かの手によって無理やりこの森の中に引きずり込まれたのではないかという恐ろしい想像が、頭から離れない。
悲しいことに、そのような事件は枚挙にいとまがないほど数多く起きている。奈緒の妄想で終わればどんなにいいかと思うのだが、リボンを見た瞬間に膨れ上がった嫌な予感は、消えるどころか身体の内部を圧迫し、苦しいほどだった。
「ゆ、雪乃さん、奈緒よ……雪乃さん、いるの?」
声を上げても、返ってくるものは何もない。
ただ静寂だけが支配しているその場所で、奈緒は奇妙なことに気がついた。
そういえば、やけに静かすぎないだろうか。ここは森の中なのだし、せめて鳥の囀る声や、羽ばたく音くらいは聞こえてもよさそうなものなのに。
小動物が足元を駆け抜けていくということもない。どこかに隠れているという様子もない。そもそも生き物の気配がしない。
──この森はなにかおかしい。
「おい」
「きゃあっ!」
いきなり後ろから声をかけられ、奈緒は悲鳴を上げた。
飛び出しかけた心臓を着物の上から押さえて、ぱっと振り返る。その場にへたり込まずに済んだのはただの幸運でしかなく、実のところ、腰が抜ける寸前だった。
「おまえ、こんなところで何してる?」
そこにいたのは青年だった。
十代後半か、二十代はじめといったところだろうか。
着物ではなく、白いシャツに黒いベストとズボンという洋装姿だ。無造作な着こなしだが、さっぱりしていて破落戸という感じはしない。
長めの前髪から覗く眼は非常に鋭く、形良く配置された鼻と口も合わせて全体的に整ってはいるものの、美形というよりは強靭そうな印象が先に立つ。
尖った顔立ちも引き締まった身体つきもどこか野性味を帯びているが、不思議と粗暴な雰囲気はなかった。
……しかし、明らかに普通でもなかった。
「あ、あなたこそ、何?」
問いかける奈緒の声には、警戒心よりも戸惑いのほうが強く出ている。
なにしろ、青年の左肩には、真っ黒なカラスが忠実な家来のごとく乗っているのだ。
不愛想な顔でじろじろと不躾に睨んでくる青年と違い、そちらは動きもせず、深い闇のような瞳でじっと奈緒を見つめている。
その喉元には、三日月のような形の赤い模様があった。
そしてそのカラスだけではなく、青年はその背中にも、物騒なものを携えていた。
日本刀である。
黒鞘の刀を、彼はまるで荷物でも背負うように平然と、紐で括りつけているのだった。
明治九年に廃刀令が布告され、武士という身分もなくなった今のこの日本で、二十そこそこの若者が堂々と刀を持っているなど、どう考えても異様だ。
「俺の質問に答えな。なんの目的でこの森に入った?」
青年は奈緒の混乱には頓着せず、それこそばっさりと切って捨てるような言い方で返答を要求した。拒むことも逃げることも許さないという、苛烈で不遜な、上からの態度だった。
ここでむくむくと、奈緒の内部に腹立ちが湧き上がってきた。
「あなたにそんなことを説明する義務はないと思うけど」
奈緒が真っ向から言い返してきたのが意外だったのか、青年は少し目を見開いた。
「勝手に入ってきたやつが何を偉そうに……ここは、おまえのようなお嬢さんが遊びにくるところじゃない。さっさと出ていけ」
「遊びでこんなところに来るわけないじゃないの」
「だから理由を言えと言ってるんだ。明らかに胡散臭いやつに誰何をすることの、何が問題だ?」
「刀を持って、カラスを肩に乗せている人よりは胡散臭くないわよ。誰が好きこのんでこんなところに来ようと思うもんですか。のっぴきならない事情があるに決まってるでしょう」
冷静な判断力があれば、日本刀を背負った相手にこんな強気に出るのはまずいのではないかという考えも浮かんだだろうが、そんなものはすでに奈緒の頭からすっかり吹き飛んでしまっていた。異常事態ばかりが続いて、少々やけくそ気味になっていたのかもしれない。
「その事情はなんだと訊いている」
「無関係の他人にぺらぺら話せるようなことじゃないわ」
そして青年は、苛立ったように眉を上げはするものの、刀に手をかけて脅すような素振りも、力にものを言わせてもいいんだぞという空気を発することもなかった。不愉快そうに口を曲げ、「……なんだこの跳ねっかえり」と呟いている。
その時、ふいにカラスが首を廻して青年のほうを向き、
「トーマよ、まあそうカリカリするな」
と、宥めるように言った。
奈緒は棒立ちになって固まった。声を上げることも、今度こそ腰が抜けることもなかったのは、もっけの幸いだ。人間というのは、あまりにも驚きすぎると、かえって反応ができなくなるものなのだろう。
「若いムスメゴに、そのような言い方は感心しないぞ。オマエはもう少し、女心を勉強せねばならんなあ」
カラスが人間の男に、女心を学ぶ必要性を説いている。
それは不思議な感覚だった。ギャアギャアというカラスの鳴き声はちゃんと聞こえるのに、その声と重なるようにして、「人の言葉」もまた耳に届くのだ。
これは幻聴なのか。幻聴であってほしい。カラスが今にもため息をつきそうに小首を傾げているのも、片脚でトントンと青年の肩を叩くその仕草がやけに分別臭く見えるのも、きっと自分の気のせいだ。
奈緒は必死にそう思い込むことで、狼狽を押し隠した。全身だけでなく表情も硬直しきっているが、まだあちらには気づかれていないらしい。ここが暗くてよかった。
なんだか……なんだか、ここで「カラスが人の言葉を」と騒ぐと、非常に厄介なことになる気がする。
青年はカラスから説教されて、わずかに唇を尖らせた。それまでの傲岸な態度が引っ込んで、なんとなく親に叱られてふてくされる子どものように見える。
「……こっちは急いでるんだ。何をしに森に入ったかだけを言え」
台詞は相変わらず不愛想な命令調だが、先程よりは剣呑さが和らいだ。奈緒に対する気遣いというより、カラスの手前しょうがなく、という感じだった。
「……あっ、えーと、その」
はっと我に返り、奈緒は急いで思考を巡らせた。
今すぐ、全力で、この場から立ち去りたい。聞こえてくるカラスの言葉が幻聴なのかそうでないのかも、もはやどうでもよかった。とにかく、青年にも、カラスにも、おかしなことばかりのこの状況にも、これ以上関わるべきではないと頭ががんがん警鐘を鳴らしている。
「ゆ、友人を捜していたの……でも、そうね、ちょっと無謀だったかもしれないわ」
こうなったら一旦森を出て、誰か大人の手を借りよう。雪乃の両親も、このリボンを見れば考えを改めて警察に任せる気になるはずだ。
じりじりと後退しながら殊勝なことを言うと、青年は納得するどころか、「友人だと?」と片眉を上げた。せっかく後ろに下がったのに、大股で一歩こちらに詰め寄ってくる。やめて、近づいてこないで。
「友人って、どんなやつだ」
「じょ、女学校の……」
「十代の娘か?」
「そ、そうよ」
「ほうら見ろ、ワシがさっき見かけたのは、コレとは別のムスメだと言っただろう」
「雪乃さんを見たの!?」
食ってかかるように叫んでから、あっと思って手で口を塞いだ。
青年とカラスがぴたりと口を閉じ、動きも止めて、まじまじとこちらを凝視する。どっと汗が噴き出した。
「おまえ、今……」
「ムスメ、今、ワシの言葉に返事をしたな!? この声が届いているのだな!? なんと! 見つけた! 見つけた! とうとう見つけたぞ!」
青年は信じられないという顔をしたが、カラスは大喜びではしゃぐように彼の肩の上でバサバサと大きく羽ばたいた。
奈緒は慌てて首を横に振った。
「しっ、知らない! 何も聞こえてない!」
「今さら遅いわ! 逃がすと思うなよ、ムスメ! ようやく見つけたギョウゲツ家の嫁だ! 当主トーマの伴侶だ! めでたい! ワシの役目も果たせた! めでたい! 今日は祝いだ!」
「は、はあ?」
嫁とか伴侶とかの単語が聞こえて、奈緒はぎょっとして目を剥いた。
翼を広げてぴょんぴょんと飛び跳ね、文字どおり浮かれるカラスを横目に、青年は「おまえが……?」とあからさまにイヤそうな顔をしている。
「ムスメ、よく聞け! ここにいるトーマは、由緒あるギョウゲツ家の現当主である! ギョウゲツはその特殊な性質ゆえ、伴侶とする者には厳しい条件が課せられるのだ! すなわち、ワシの言葉を理解できるオナゴのみ! ついぞ見つからず、トーマが不憫でならんかったが、今ここにその条件を満たした者が現れた! トーマの嫁だ! めでたい!!」
は!? と今度はさっきよりも強い声が出た。
「よかったのう、トーマ!」
「何度も言うが、気乗りしない」
「じょっ……冗談じゃないわよ!」
怒り心頭で、奈緒は大きな声を出した。
よかったよかったと喜ぶカラスはもとより、顔をしかめる青年にも腹が立つ。なぜ奈緒の意志を無視して、不満げな表情をしているのか。そんなめちゃくちゃな話、気乗りしないどころではなく、断固としてお断りだ。
いくら自分で人生を決められないとはいえ、喋るカラスを肩に乗せた正体不明の青年の嫁になんて、そんなわけのわからない事態に巻き込まれてはたまらない。
「気の強い嫁だの、トーマ」
「勝手に決めないでったら! 嫁になんてなりません!」
「ウーム、先代当主夫婦が亡くなってから十年、あちこちを探しておったが、こうして嫁自らこちらに来てくれるとは。何度も呼びかけた甲斐があった。ワシの苦労も報われる。いや、これも運命というものか……」
「ちょっと、しみじみしないで! 大体、わたしがここに来たのは雪乃さんが──」
そこで、はたと口を噤んだ。今になって森に入ったそもそもの理由を思い出し、ぎゅっと眉を吊り上げる。
素早く手を伸ばすと、カラスの首根っこを引っ掴んだ。
「イテテ、イテテ、コラ何をする、嫁」
「嫁って呼ばないで。それより、さっき雪乃さんを見たって言ったわね? それはいつ? やっぱりこの森の中にいるのね? どのあたりにいるの?」
「よせ、赤月に乱暴な真似をするな」
カラスを締め上げて問いを重ねる奈緒を、青年がうんざりした様子で止めた。
ちらっとどこかに顔を向けてから、奈緒を見て眉を寄せる。何かを迷っているらしい彼に、カラスが「ギョウゲツ家の嫁になる人物なら話は別だ、トーマ」と耳打ちした。
青年は小さなため息をついてから、いかにも不本意といった顔と態度で、
「──ついてこい」
と短く言うと、くるっと背中を向けて駆け出した。
青年はまるで獣のような身のこなしで、木々の間を縫うようにして疾走した。
柔軟で力強く、おまけに軽やかだ。四方の障害物などものともせずに地面を蹴り、伸びた枝を飛び越えて、あっという間にぐんぐん先へと進んでいってしまう。
あまりにも速いので、奈緒は何度もその背中を見失い、木の根につまずいて転びそうになった。そのたびにカラスが「ホラ嫁、しっかりせい、こっちだ。そこに穴があるから気をつけろ」と励まして道案内をしてくれる。
さっさと先に行ってしまった青年よりも、カラスのほうがずっと親切だ。奈緒はぜいぜいと息を切らしながら、内心で毒づいた。ついてこいと言ったわりに、一度たりとも後ろを確認しないとは、どういう了見なのだろう。
ようやく足を止めた青年になんとか追いついた時も、彼はこちらを振り返ることなく、前方だけを向いて立っていた。
文句を言おうとしたら、その前に声が聞こえた。
「──止まれ。その先に進むな」
てっきり奈緒に対して言ったのかと思ったが、違う。青年の背中に隠れて見えないが、向こうに誰かがいるらしい。その誰かに対して、彼は厳しい声で警告を発しているのだ。
息も絶え絶えだった奈緒は、呼吸が整ってくると同時に、やっとまともな思考を取り戻した。そうだ、先程からの話の流れから考えて、そこにいる人物に該当するのは一人しかいないではないか。
慌てて足を踏み出し、青年を押しのけるようにして前に出る。彼に並んだところで横から伸びてきた腕に行く手を塞がれたが、その姿を視界に入れることはできた。
「ゆ、雪乃……さ、ん……?」
疑問形になったのは、そこにいる娘の姿が、奈緒の頭の中の像と重ならなかったためだ。
薄暗い森の中で、雪乃は上から降り注ぐ金色の光を浴びて、きらきらと輝いているように見えた。
全身の輪郭がぼんやりと浮き上がり、まるで彼女自身が淡く発光しているかのようだ。それは神秘的な眺めではあるけれど、神々しく美しいというよりは、どこか不気味で、禍々しく恐ろしいもののように感じられた。
どれだけ歩き回ったのか、彼女は草履も履いていない。白かっただろう足袋は真っ黒に汚れ、着物の裾も泥と草の汁に染まっている。枝に引っかけたらしく袖が破れ、いつもきちんと整えられていた三つ編みは見る影もなく解けて乱れていた。
そんな痛々しい恰好なのに、雪乃は微笑んでいる。いや……たぶん、微笑んでいる、のだろう。こちらを向く彼女の顔には影が落ちて、はっきりとは見えない。
葉の間から漏れる夕日の輝きを全身にまとわせていてもなお、なぜか雪乃の顔だけは黒く塗られているかのようだった。
ぞくりとした。
誰そ彼──逢魔が時に出会う、あれは誰?
そこにいるのは、果たして人か、あるいは魔性のものか。
「まあ、奈緒さん」
雪乃は奈緒を認めて、優しげな声を出した。
耳で聞くだけなら、いつもの彼女の声と口調そのものだ。しかし奈緒はその事実にかえって背筋が寒くなった。そんな声、そんな言い方は、普通この状況下では決して出されるはずのないものだ。
奈緒は両手を組み、ぐっと強く握り合わせた。
「ゆ……雪乃さん」
怯えるウサギに対する時のように、そろりと小さく呼びかける。強引に唇を笑みの形にして、可能な限り普段と同じ顔を保つよう努力した。
「捜していたのよ。さあ、こんなところは早く出て、お家に帰りましょう。ご両親も心配なさっていたわ」
どう見ても、雪乃の状態は正常とは言い難い。何があったのか……いや、何もなくとも、雪乃のような娘にとって、外で夜を明かすなんて耐えられないくらいの恐怖と苦痛があったのだろうと想像できる。
ゆっくり休めばまた元の彼女に戻れるはず──きっと。
「そうなの? ごめんなさい、奈緒さん。でもね、わたしもずっと探していたのよ」
柔らかく紡がれたその返事に、奈緒は戸惑った。
「探していた……? 出口を?」
「いやね奈緒さん、違うわよ。魔物を探していたの」
「え?」
聞き間違いだと思った。あるいは、似た言葉の何かだと。まもの……まものって?
魔物を探していた?
「あやしの森に棲みついているという魔物よ。奈緒さんにも話したじゃない、忘れたの? わたし、その魔物を探していたの。お願いごとをするために」
「お、お願いごと?」
奈緒の困惑は大きくなる一方だ。雪乃はさっきから一体何を言っているのだろう。
ふふふ、と雪乃が笑う。いや──唇の両端を吊り上げて三日月のような形にし、冷え冷えとした光を放つ瞳を細めているそれを、「笑う」とは言わない。
嗤っている。
「両親と婚約者を食べてくださいって」
夢見る少女のように軽やかに願いを口にする雪乃に、奈緒は慄然とした。
「な……何を言っているの、雪乃さん」
これはいつもの雪乃ではない。しかし、雪乃本人であることは間違いない。彼女を無理にでも引っ張っていけばいいのか、それともできるだけ刺激しないほうがいいのか、奈緒には判断できなかった。
「ねえ、どうやって食べてもらうのがいいと思う? ばりばりと頭から噛み砕く? それとも腕を引き千切る? ああ、いいえ、まずは足からよね、逃げられてしまわないように。どれだけ血が噴き出るかしら。あんな人たちでも、その血は赤いのかしら。肉は美味しいのかしらね? 婚約者は硬そうだし、お母さまは萎びているし、お父さまはブヨブヨで脂身が多そうだわ」
ぞっとするようなことを楽しげに話し、あははは! と笑い声を上げる。喉を仰け反らせ、大きく口を開けて。
その顔に、淑やかで大人しい娘の面影はなかった。
「ゆ、雪乃さん、落ち着いて。聞いたわ、お父さまと何か諍いがあったのですってね。お家に帰って、もう一度ゆっくり話し合いをすれば……」
真面目な性格なだけに、雪乃は親に叱られたことを重く捉えすぎているのかもしれない。だとしたら、まずはそれを少しでも軽くしてやるべきだ。
そう思って奈緒が出した言葉は、しかし、まったく彼女の心には響かなかった。
「話し合い?」
雪乃は口元からすっと笑いを消して、奈緒に冷たい一瞥をくれた。こんなにも怒りと軽蔑を孕んだ視線を向けられるのは、はじめてだった。
「バカね、奈緒さん。あの人たちと話し合いなんてできないわ。だってちっとも話が通じないんだもの。わたしの言葉は何一つ二人の耳には入らない。きっと、わたしとは別の生き物なのね。だから魔物に食べさせても大丈夫よ」
「雪乃さん──」
話が通じない、こちらの言葉が耳に入らないという点では、現在の雪乃も同じようなものだ。一体、どう説得すればいいのだろう。
思わずもう一歩前に出たところで、強い力でぐいっと後ろに引っ張られた。驚いて見ると、青年が何を考えているのか判らない無表情で奈緒の腕を掴んでいる。
「もういいだろ。何をしたところで無駄だ」
突き放すような言い方に、奈緒は眉を上げた。
「このまま放っておけって言うの? そんなこと、できるわけないでしょ! ちゃんと話をすれば、いずれ冷静になって」
「無駄だと言っている。それに放っておくことはしない」
青年がそう言いながら、雪乃に視線を据えたまま、右手を肩の上へと伸ばした。背中に括りつけていた日本刀の柄をぐっと握り、鞘から引き出す。
スラリと剥き出しになった白刃が、光を反射して妖しく煌めいた。
「な……」
「確認した。あの女はもうおまえが知っている友人じゃない。『妖魔憑き』だ」
青年が背中の刀を抜いたこと、そしてその刀がまごうことなく本物であることを目の当たりにして、奈緒は凍りついた。今さらのように、足元から震えがのぼる。
それに今、この男は何を言ったか。
──妖魔憑き?
「妖魔とは、闇から生まれ出づる異形のモノだ。闇のような漆黒で、人の影に潜み隠れ、人の心の闇に取り憑く、悪しき存在よ」
カラスの説明はちゃんと人の言葉として聞こえたが、奈緒にはその意味がまったく判らなかった。喋るカラスよりもさらに非現実的すぎて、頭が理解を拒んでいる。
「妖魔は、心の中に闇を抱え込んでいる人間を見つけると、いつの間にか忍び寄ってその影の中に入り込む。妖魔に憑かれると、その人間は思考を絡め取られ、感情を偏った方向に誘導され、怒りや恨みや憎しみを引き出される。そして操られているという自覚もないまま行動し、悪事に手を染めるんだ」
カラスに続けて青年が淡々と言ったが、奈緒はまだ茫然としていた。
はっとしたのは、青年が雪乃に向けて刀の先端を突きつけたところを目にしたためだ。
「まっ、待って! ちょっと、雪乃さんに何をするつもり!?」
「だからこいつは妖魔憑きだと言っている」
「妖魔に憑かれたら、速やかに手を打たねばならんでの。さもなくば、どんどん周囲に悪意をまき散らし、人に危害を加え、災いを起こすようになる。そうならぬよう、はるか昔より妖魔を封じる役目を代々担い続けてきたのがギョウゲツ家だ。トーマはそのギョウゲツ家の最後の生き残りなのだぞ」
妖魔を封じることを役目とするのがギョウゲツ家、その当主が今ここにいる青年だと、カラスが言う。いっぺんに情報を与えられて、奈緒は目が廻りそうだ。
「そ、その話がたとえ本当だとしても、今の雪乃さんに妖魔が憑いているとは」
「確認したと言っただろう。おまえが時間稼ぎをしていた間にな」
「さすがトーマの嫁になるムスメだ、これぞ内助の功だのう。ホッ、ホッ、ホッ」
嬉しそうなカラスの言葉は完全に無視して、青年が何かを示すように、雪乃に向けていた刀の切っ先を動かし、その下の地面へと移した。
そこに何があるというのか。奈緒はじっと目を凝らしてみたが、特に何も見つけられなかった。下草がみっしりと生い茂ったその場所には、上から差し込む幾筋もの線のような夕日の照射によって生じる影しかない。
木々と葉の影。そして立っている雪乃の影。青年が指しているのは、ちょうどその頭の部分だ。雪乃の解けた髪が風になびいて揺れ……
風なんて、まったく吹いていないのに?
奈緒は息を吞んだ。
それは確かにただの影に見える。しかし「本体」のほうの髪の毛は、まるで動いていない。にもかかわらず、頭の部分の影だけが、さわさわ、ざわざわとうねるように揺れ動いているのだ。蛇のように。触手のように。
闇の生き物のように。
奈緒の顔から血の気が引いた。気づいてみれば、これほど気味の悪い眺めはない。
「判ったか、こいつは間違いなく妖魔に憑かれている。だからここに入り込んだんだろう」
「愚かだのう。いくら人を操ったとて、アレを容易に見つけられると思うたか。哀れなのは、すり切れるまで一晩中森の中を彷徨わされたムスメの肉体だ」
青年とカラスの会話に、奈緒は引っかかりを覚えた。
その言い方だと、雪乃がこの「あやしの森」に入ったのは、妖魔のほうに何か目的があったためのように聞こえる。
見つけるって、何を? 魔物を?
それとも、この森の中には、他に何か隠されているものがあると?
青年は奈緒の訝しげな視線に気づくと、すっと目を逸らして再び刀を持ち上げ、雪乃に向けた。
「とにかくそういうわけだ。妖魔が憑いていると判った以上、さっさと封じるぞ」
「ふ……封じるって、どうやって」
「いちばん手っ取り早いのは、影の中にいる妖魔を、憑かれた人間ごと斬ってしまうことだな」
「は!?」
包んだ紙を中身ごと切ってしまえばいい、というような調子で出された答えに、奈緒は心底ぎょっとした。
「なに言ってるの!? だめよ、そんなこと!」
「殺しはしないから安心しろ。死体が出ると後が面倒だ」
「この人でなし! だめ、雪乃さんを傷つけないで!」
「じゃあどうするんだ。このまま、あの娘が身も心も妖魔に侵食されていくのを、指をくわえて見ているつもりか?」
ぐ、と言葉に詰まる。もちろんこのままにしておくわけにはいかない。しかしどうすればいいのかなんて、奈緒にはさっぱり判らない。
「と、とにかく、ちょっと待って。もう少し雪乃さんと話をさせて」
また「無駄だ」と突っぱねられるかと思ったが、青年は口を結んだまま何も言わない。了承を得たと勝手に解釈して、奈緒は雪乃に一歩近づいた。
「……雪乃さん」
雪乃はもう奈緒のことを見てもいなかった。虚ろな瞳を何もない空中に据えて、唇を動かしぶつぶつと独り言を呟いている。
「雪乃さんは、親に決められた婚約者のことが好きではないのね?」
雪乃の唇が止まった。無感情な眼差しがゆっくりとこちらに向けられる。青白い顔にはぞっとするほど生気がない。
「……好きになれると思う? 二十も年上の、これまで二度も妻を離縁したような人よ。どちらの奥さんも、夫の暴力に耐えきれずに逃げ出したと聞いたわ」
奈緒は思わず絶句した。雪乃の両親は、そんな男を彼女の婚約者に決めたのか。
十六歳の娘に、その現実は惨すぎる。
「お金と権力だけはたっぷりあるの。お父さまはご自分の病院の後ろ盾が、喉から手が出るほど欲しかった。だから娘を売ったのよ。お母さまは、『何事も大人しく従っていれば大丈夫』と言うばかり。自分もそうだったから、娘の私もそうするのが当然なのですって。わたしは黙ってそこに嫁ぎ、病院の跡取りとなる男の子を産んで、お父さまとお母さまに引き渡す……ただそれだけでいいのだそうよ」
雪乃が乾いた笑い声を立てる。
が、すぐに笑いを引っ込めて、すうっと目を眇めた。
「──今までだって、親の言うことにはすべて従ってきたわ。一度も逆らったことなんてない。だって、そうしなければいけないと教わったんですもの。親には背くな、抗うなと。それ以外にどうすればいいかなんて、誰も教えてくれなかった。だからいつの間にか、お父さまもお母さまも、わたしのことを、ただ首を縦に振るだけの人形だと思うようになったのね。心なんてないのだから、どう扱ってもいいと考えている」
奈緒は唇を嚙みしめた。
親の言うことは絶対で、逆らうことは許されない。そういう考え方、価値観が、この国にはまだしっかりと根付いている。雪乃も今まで懸命に自分を殺して、何も言わず、反抗せず、従順に過ごしてきたのだろう。
しかし、一人一人の娘にも、ちゃんと「心」はあるのだ。
「婚約者だって、わたしのことをお金で買った玩具としか見ていない。これから十年、二十年、いえ一生、たとえ殴られても、他に妾を囲われても、わたしは何も言わずあの男に頭を垂れ、従わなくてはいけない」
自分をその男に差し出したのは両親なのだから、逃げたとしても帰る場所はない。雪乃の絶望はいかばかりであったことか。
奈緒は、そんな雪乃に対して「きっといいお嫁さんになれる」と言ってしまったのだ。
軽率で無神経なその言葉に、雪乃は何を思っただろう。
今になって、激しい後悔に襲われた。
本当は、奈緒だってずっと鬱屈した思いを抱いていたのに。奈緒もまた、いろいろなものを胸の奥底に押し込めて、「しっかりした良い子」であり続けてきたのに。
自分こそが、彼女の理解者になるべきだった。
「雪乃さん!」
怒鳴るような声量で呼びかけて、奈緒はずかずかと雪乃に近づいていった。後ろで青年とカラスが「待て」と制止したような気がするが、構うものか。
がしっと両手で力強く雪乃の手を取って握りしめる。びくっと動いた細い身体が逃げるように後ろへと下がったが、奈緒は掴んだ手を離さなかった。
「ごめんなさい!」
正面からその顔を見つめると、雪乃はぽかんとした表情で見つめ返してきた。
「ちゃんと話を聞いてあげられなくて。気づいてあげられなくて。ひどいことを言って。ごめんなさい、何度でも謝るわ。──でも!」
奈緒は一瞬も雪乃から目を逸らさず、声を張り上げた。
「でも雪乃さん、まだ何も終わっていないじゃないの! 始まってもいない! ねえ、これから道を変えることだってできるはずよ! わたし、今度こそあなたの力になる! ご両親のところに一緒に行って、きっぱり言い返してやりましょう! 婚約者は、殴られる前にこちらから殴ってやりましょう! 魔物に食べさせるよりも、きっとそのほうがスッキリするわ! やり返してやるのよ、二人で!」
その言葉に、カラスが「おっかない嫁だのう……」と羽をすぼめた。
雪乃は目を丸くして動きを止めている。驚きからか、表情から毒気が抜けていた。
──さっきまで空虚だったその瞳に、やがて、ぽつんとした明かりが灯った。
感情の失せた顔が、徐々に歪み始めていく。
頬が震え、眉が下がり、曲がった唇からは引き攣ったような呻き声が漏れた。
ひっ、と息を吸い込むとともに、みるみるうちにその目が透明な水膜に覆われる。
「……っ、なっ、奈緒、さん」
「ええ」
「わ──わたし、ほんとは、本当はね……他に、す、好きな人がいるの……」
「まあ、素敵。だったらなおさら、こんなところにいる場合じゃないわ。森を出て、すぐにでも会いに行かないと」
「お、親の言うことを、聞かなくても、いいのかしら。いっ、嫌だと、言ってもいい? わたしのこと、身勝手で恩知らずな、ひどい娘だと思う……?」
「誰だって、自ら進んで不幸になりたくないのは当然よ。ひどい娘だなんて思わない。この道は間違いだと思うなら、自分の意志で別の方向へ行けばいいのよ」
雪乃の目から、大粒の涙がこぼれて落ちる。
ぎゅうっと手を握りしめると、痛いほどの力で握り返された。
「わたし、わたしね、ずっと、誰かに話を聞いてほしかった……味方になってほしかった……て、手を取って、一人じゃないって、言ってほしかったの……!」
その時だ。
足元の雪乃の影から、にゅるんと飛び出すように別の黒い影が長く伸びた。
「分離した」
青年が短く言って、手にしていた刀を素早くその影に向かって振り下ろす。
ひゅ、と鋭く空気を切る音がした。
滑るように地面を這ってどこかへ逃げようとしていた影は、刀が自身に食い込んだ瞬間、縫いつけられたようにぴたっと動きを止めた。
ざわりと一度、不気味に揺れたのは最後の抵抗か。
闇色がすうっと薄まり、端のほうから少しずつ消えていく。まるで、床に撒いた墨汁を綺麗に拭い取るかのようだった。
それが完全になくなった後で、青年が刀を引き抜いて持ち上げる。
輝く白刃は、はっきりと黒く染まっていた。
それと同時に、がくっと雪乃の全身から力が抜けた。慌てて支えたが、どうやら気を失ったらしい。
「ど……どうなったの?」
呆気にとられて奈緒が問いかけた時には、青年はもうすでに黒くなった刀身を鞘に収めてしまっていた。静寂の戻ったその場に、チン、という音が響く。
「ようやった、嫁! いや、ナオだな! ナオの呼びかけで、あのムスメの心が自力で妖魔を追い出したのだ! 妖魔はトーマの刀に吸収された! もう大丈夫だ!」
「吸収……」
理解はできないが、カラスのその言葉に安心して、奈緒は雪乃を抱えたままその場にしゃがみ込んだ。今になって緊張が解け、一気に疲労感が押し寄せる。
雪乃が無事なら、妖魔が吸収されようが、封じられようが、どうだっていい。
「ウム、さすがトーマの伴侶たるオナゴだの! ワシはアカツキだ、これからもよろしく頼むぞ、ナオ!」
ちっともよろしくしたくないので奈緒はそれに返事をしなかったが、上機嫌のカラスはせっつくように青年の肩を嘴で突っついた。
眉を寄せた青年がカラスを見てから奈緒に目をやり、仕方ない、というようにため息をつく。
「……暁月当真」
いかにも渋々という感じで素っ気なく名乗った。
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