――ねえ、助け合ってみない? 僕たち。
死んだ理由が分からないまま彷徨っている小説家の幽霊と、謎めいた美形の古物商。
曰くつきの青年2人が織りなすホラー短編集『幽霊作家と古物商 黄昏に浮かんだ謎』が、7月9日に文春文庫より発売されます。
著者は、2014年に第1回新潮ミステリー大賞を受賞し、今年デビュー10周年を迎える彩藤アザミさん。
発売を記念して、冒頭の短編「血文字」を公開します。
古道具屋「美蔵堂」が買い取った、ある文豪が愛用していたという万年筆。その万年筆には呪いがあるようで――。
「響さん。『物』は大事にしても『執着』は持たないほうがいいよ――」
薄暗い屋根裏で革張りのソファにかけたルイ――御蔵坂類はそう言った。
これはいつのことだったろう?
「あまり昏い感情を込めるとね、自分自身がその想いをすっかり忘れたあとも、物にこびりついた念みたいなものが消えずに残る。それは時を経ると、原因も経緯も忘れて、純粋な感情の塊になる。まぁ……僕はそういう物は嫌いじゃあないけどね」
――愛用のパソコンのキーを叩きながら、ふと思い出した一幕だった。
このパソコンが壊れたら俺はどうなってしまうのだろう?
俺の思念が残る、このデスクトップ。
目をつむると、ちりちりとファンの音がした。
「クリーンナップしておくか……」
小説のデータを保存し、スタートメニューを立ち上げた。昔なら、このあいだにコーヒーでも淹れて一息つくところだが……もうケトルに触ることすらできない。
すうっと肺に空気を溜める。息を止めて脱力すると、沼へ落ちるみたいに躰が椅子を、床を、貫いていった。木造の暗い隙間を抜け、階下の部屋へたどり着く。
頭の半分を天井にめり込ませたまま、その場に滞空した。
下の階に住む中年男性は、ローテーブルの前に座ってカップ麺を啜っていた。俺には当然、気づかない。
なにも、なにも面白いことはなかった。
しいて言うならば、テレビボードの裏に五百円玉が落ちているのだが、この男はいつ気づくだろう、そしてそのときはどんなリアクションを見せるだろう……というくらいか。とてもネタにはなりそうにない。
「……にしても、世の中ここまで本のない部屋ばかりだとは思わなかったな」
口を開くと、呼吸をしているあいだ躰はゆっくりと沈む。
俺は再び息を止め、ふうっと浮き上がり、自分の部屋へ戻った。
名枯荘・二〇三号室。表札は「墓森」。
三日ほどパソコンに向かっていたので、どうにも運動不足な気がして大の字で部屋中をスカスカと飛び回ってみた。しかし調子に乗っていたら冷蔵庫のなかへ顔を突っ込んでしまい、低く呻いた。なかはとっくの昔に腐海のようになっている。濡れも汚れもしないのだが、気分のいいものではない。
俺の姿は生前からずっと変わらない。
外出時に一番よく着ていたグレーのローゲージニットと、黒いパンツ。くるぶしソックスにノーブランドの紐なしスニーカー、そして眼鏡……という格好だ。一応、脱ぐこともできるが、気づけばまた身に着けている……というか、出現しているのだ。
類が言うには「一番強いセルフイメージが霊体としての姿になったのだろう」とのことだった。切る暇がなくて眼鏡にかかっていた癖のある黒髪が、これ以上伸びないのはありがたかった。
もしも死んだときの姿で固定されていたのなら、きっとずぶ濡れだったはずだ。
俺はどうやら、この町の北にある断崖絶壁の海で死んだらしいのだから。
「…………」
起き上がり、壁一面にある本棚に目をやった。
どの名作も、もう手に取ることはできない。隅には自分の著作も、文庫化したものを含めて五作、並んでいる。
筆名は「長月響」。
下の名前は本名と同じだ。陰気な名字だけ、変えた。
高校生のころから小説を書き始め、十年近くかけてようやく出せたデビュー作はスマッシュヒットを飛ばした。まだまだ新人だが上々な滑り出しだったと思う。
幸い……と言っていいのかわからないが、今も依頼は途切れていない。
パソコンから通知音が鳴った。
クリーンナップが終了したようだ。再起動をかけて、返信し忘れていた担当編集へのメールを出してから、電子書籍の新刊をチェックし、電源を落とした。
この机と椅子、デスクトップと付属品一式は、デビュー作の印税で買った物だった。
俺はこれからたくさんの小説を書くのだと、数十万円ほどかけていい物を揃えたのだ。当時の自分にしては目の飛び出るような値段だったが、いい買い物をしたと思っている。
その思い入れが、この世との唯一の繋がりになったらしい。
だが、パソコンという物は十年もしないで古くなる。
いつかは必ず壊れてしまう。
小説が、書けなくなってしまう。
静寂が耳を痛くした。
「類のところに、行くか……」
俺は窓硝子をすり抜けて、雨上がりの空へ舞い上がった。
石畳の道をゆく人々の頭を見下ろしながら、文字通りまっすぐ飛んでいくと、年季の入った町屋の連なる通りへ出る。
土産もの屋、食事処、漆や陶器といった伝統工芸品を扱う店、内装を今ふうにアレンジした喫茶店など……平日の昼間なので、店を覗くのは年配の観光客ばかりだ。
日本海に面したこの城下町は、令和の今もなお歴史ある佇まいを残している。しっとりと並び建つ暗色の木造は、雨の日も雪の日も賑やかな人々の声に耳をそばだてているかのようだった。
そんな趣のある通りから、少し奥まった場所に類の店はある。
目印は「美蔵堂」という柳のような細い筆文字の扁額。
引き戸をすり抜けてなかへ入ると、暗さに慣れるまで数秒を要した。
彼は目を凝らした先にある、どっしりとしたマホガニーのカウンターに座っていた。
「やぁ、響さん」
「あぁ」
栗皮色の前髪の下に覗く、碧い双眸が細められた。
「君が来ると、やっぱり潮の香りがする」
香り……自分ではわからないが、彼が言うならそうなのだろう。
美蔵堂は彼が祖父から受け継いだという、小さな古道具屋だった。
入口からところ狭しと並べられた古道具を分け入って進むと、カウンターと椅子が設えられており、店主の類はいつもそこに座って道具の手入れをしている。客が来たときは、ここで会計や買取り、取り置き、エトセトラの相談をするのだ。
御蔵坂類は、一見してわかる通り純日本人ではない。母親が英国人なのだという。「ルイ」という名前も、どちらの国でも通じるようにとつけられたらしい。遠目でも色素の薄さが目立つ彼が、この北陸で小さな古道具屋をやっているというのは、なかなかにユニークな絵面だと思う。
「響さん、ちょっとこれを見てくれよ」
頬杖をついた彼はなんの前置きもなく、手に持っていた細長いものを差し出してきた。一本の万年筆だった。黒い漆の地に、金箔で細かな細工が施されている。
「これは?」
「呪いの万年筆」
らしいよ、と彼はわざとらしく棒読みをした。
類は一人分の紅茶を淹れてくると、改まった口調で、ある有名な名を口にした。
「――っていう、昔の作家を知っているかい? 『その人の使っていたものだ』と持ち込まれた品なんだ」
この町には「四文豪」と呼ばれるゆかりの作家がいる。類が挙げたのはそのなかの一人だった。四人のなかなら俺は鏡花が一番好きだったが、その文豪の作品もまあまあ読んでいた。
どこで美蔵堂を知ったのかは不明だが、ある日いきなり高齢の男性が「供養してほしい」と万年筆を持って来たらしい。詳しいことはなにも語ってくれなかったという。
「見た感じ旧くはないから偽物じゃないかと思うけれど……『呪いの』と言われちゃあね。直感だけれど、そっちは本物な気がしたんだ。それで、文学に詳しい君にもぜひ意見を訊いてみたくてね」
「また『霊つき』か……」
俺がつばを飲み込むと、類はくるくると万年筆を回してみせた。
「もう、いつも人がバタバタ死ぬ話ばかり書いているくせに。響さんもおばけなんだから大丈夫だよ。それに約束したろう? 『相互扶助』をしようって」
それは俺と類が出会って間もないころに交わした口約束だった。
類はキャップを開けて、手近にあったメモ用紙へペン先を滑らせた。が、紙には細い跡が残るのみ。次に彼はペン軸をひねって、さっと分解する。
「この通り、インクは入っていない。なのにこの万年筆、目を離すと落書きをするらしいんだ」
「落書き?」
「ああ、紙があれば紙に、なければその辺の壁や床に……血のような赤でね」
背筋にすっと緊張が走る。俺は類が元に戻した万年筆を見つめた。彼の言った通り、旧くは見えないが、細かな傷や擦れからよく使い込まれた物のような気がした。
「そういえば、その文豪は万年筆を握っている白黒写真が有名だな」
「そうなのかい?」
「ネットで検索すれば出てくる」
彼は「どこに置いたかな」と一瞬迷うようなそぶりを見せたあと、事務用品の隙間に置いてあったスマホを引っ張り出した。類はデジタル機器は人並みに扱えるが、さほど必要としていないのか触っているところはあまり見たことがない。俺は宙に浮かんで斜め後ろから画面を覗く。
「あぁ、この写真だね。うーん、似てはいるけど……ん?」
類が顔を上げる。カウンターの上の万年筆のキャップが外れていた。
傍らのメモ用紙には、鮮やかな赤い文字。
《ゆ び》
角ばった右上がりの不気味な文字だった。
類はメモ用紙を掴んで卓上のランプにかざす。見ているあいだに、インクが乾いて照りを失っていった。
「指……?」
俺が呟き、類がそのメモ用紙を何気なく左手で捲ったそのとき、彼は「いっ!」と小さく声を漏らした。
「――切った……」
彼の指先にできた一筋の傷は、薄灯りのなかで細い線を描いていた。
類は「壁や商品に落書きされると困るから」と、万年筆をメモ用紙と一緒にカウンターの上に置いておくことにした。
ちなみにこの店では、筆記具は鉛筆しか使ってはいけないという決まりがある。美術館と一緒だ。数は少ないが絵画や掛け軸も置いているので、消しゴムで消せない汚れをつける可能性のあるものは、原則使用禁止なのだ。
類はこの万年筆をしばらく観察したいという。売るときに客に説明できるように……。
翌日。昨日のことが気になって早い時間から美蔵堂へ行くと、店に類はいなかった。
なんとなくいやな予感がしてカウンターの上を見ると、メモ用紙に赤い文字が躍っていた。
《か い だ ん》
この町屋の二階と屋根裏は、類の住居になっている。二階はLDKと水回り、屋根裏はベッドルームだ。
「……類?」
店の奥にある階段を見上げ、呼んでみた。
と、暗がりから、ばたんとなにかが落ちてきた。
俺は咄嗟に受け止めようと両手を伸ばしたが、落ちてきた彼は俺の躰をすり抜けていった。霊なのだから当然こうなる。風圧が躰のなかを走り、背後で痛々しい音が響いた。
一階の床に転がった類は、おでこを押さえて躰を起こした。
「大丈夫か?」
「たた……。おかしいな……急に足を踏み外した」
「呪い……か?」と思わずつぶやく。
「呪い?」
俺はメモ用紙を彼に見せようと手を伸ばしたが、カウンターを見て硬直する。
天板の真ん中には、大きな血文字が直接書かれていた。
《し》
先ほどは絶対になかった……のに。
さすがに頬が引き攣った。
だが類は「なるほど」と静かにそれを見下ろすのみだった。
観光名所として名高い、池のある広い公園を漂いながら一人考えていた。
ゆび。かいだん。し。
思い出しているうちに、確かめたいことに気がつく。
公園からふうっと一息に飛び上がって、例の文豪の記念館へと向かった。チケット売り場を素通りし、展示ケースのなかにまで入っていく。
あった。手書きの生原稿。
「筆跡が違うんだよなぁ……」
横線は水平に、升目のノートなど使ったことのない昔の人らしい、伸びやかな字が並んでいた。展示資料の写真のなかの彼は、穏やかな顔をしている。
さらに、俺はお土産コーナーで見つけてしまったのだ。
その文豪が愛用していた、今はなき文具メーカーの万年筆を再現したレプリカがあったのだ。数万円もするそれは、滅多に売れないのだろう、棚の隅に二箱だけ飾られて、ひっそりと埃を被っていた。
類の見立ては当たっていたようだ。
「『呪いのほうは本物』……ね……」
溜め息が漏れた。俺だったらこんなオチは絶対に書かない。
店仕舞のころに美蔵堂へ行くと、類は二階の自室で万年筆をペン回ししていた。
「どうしたものかなぁ」
のんびりとした様子で、彼は独り言とも俺に言ったともつかない調子で呟いた。
「二束三文でさっさと売るとかできないのか? 手放せば、呪いも……」
「さすがに危険なものは人さまの手には渡せないよ」
彼ははっきりと言った。そこは矜持があるらしい。
「向こうに覚悟がない限りはね」
類はたっぷりと間を置いて、不服そうにつぶやいた。
「しかしもったいないなあ。せっかくの『霊つき』なのに……」
「でも、このままじゃお前が危ないんじゃ……。『し』って……『死』しかないだろう?」
「ううーーーん」
彼は鼻先に万年筆を掲げる。いい加減見飽きないのだろうか。
俺は記念館で見たものを彼に伝えた。すると彼は意外なところに食いついた。
「そのお値段でこれかぁ……いいじゃないか。作り手の気概を感じるね。これ、物は決して悪くないんだよ。あ、僕がもらっちゃおうかな」
「死にたいのかお前」
「やだな。ただ、もったいないなと思っただけさ」
類はやはり平然とした様子で、薄く笑った。
今日は帰らずに彼を見張ることにした。自分になにができるわけでもないが、知らないうちに死なれていては寝覚めが悪い。
しかし翌日、類は起きてすぐ出し抜けに言った。
「響さん、一つ頼まれてくれないかい?」
厳かな声だった。
「これの売り主の家に行って、様子を探ってきて欲しい」
「どうして、またそんな……」
「夢見が悪くってね。たぶん、これのせい。これの記憶」
類は頭を掻きながら、テーブルに置いておいた万年筆を手に取る。
なにを見たというのだろう。
類は地図を広げて、住所の書いてある付箋のついた箇所を指差した。
「別に、行ってもいいが……大した由来は、ないと思うぞ……」
類はじっと俺の顔を見て、また万年筆を見て、そしてまた俺を見た。
「なにか思い当たるふしでもあるのかい?」
「……」
不思議そうな顔をする彼に、偏った憶測を話すことはできなかった。
「僕のことなら心配いらないよ。しばらく祖父に来てもらうから。この店には強力なお守りだって置いてあるし。僕は元々霊感体質なんだ。そう簡単に殺されはしないさ。小旅行だと思って行って来てくれよ。君が飛んでいったほうが早いし、それ以上に、訊いても素直に教えてくれないかもしれないから、こっそり見てきたほうが早い」
類はそう言って窓を開け、俺を送り出した。
「仕方がないな……相互扶助だ」
幸い、次の原稿の〆切はまだ先だ。
無賃乗車と無断ヒッチハイク――以前、類が命名した――で乗り継いでいった住所の場所は、半島のほうにある一軒家だった。一般的なルートなら二、三時間かかるが、飛んでいくと確かに早かった。
平成初期に建てられた様子の、古すぎない、けれど建てられた当時の明るさはまるきり失われている、そんな家だった。なかは広いのに物が溜まっているせいで酷く窮屈に感じる。類の話によると、ここの家主である男性が売り主だという。
リビングでは、七十代くらいの老夫婦とさらに老いた歯のない老婆が、テレビの音を浴びながら背中を丸めて夕餉をとっていた。歯抜けの老婆は、壁から出てきた俺をぼうっと見つめた。死期の近い人間には霊が視えるようになることがある。
隅の仏壇には、太った男性の真新しい遺影が飾ってあった。少し偏屈そうな、けれどそのぶん理知的な、鋭い目をしていた。
憶測……が当たっていそうな気配を感じる。
二階へ飛んでいくと、彼の部屋はすぐに見つかった。大量の本が床に積んである、カーテンの閉まった六畳だ。
学生が使うような勉強机には原稿用紙の束が突っ込まれていた。回転椅子のクッションは潰れている。
俺の実家の部屋に似ていた。
真ん中にある鍵つきの広い引き出しに顔を突っ込むと、ひときわ綺麗な原稿用紙がしまってあった。鉛筆の上から万年筆で清書されている。その下にはピンと角のとがった茶封筒が重ねてあった。
そうそう、投稿用の紙類を折らずに置いておくなら、ここなんだ……。
――ごん。
鈍い音がした。階下からだった。
壁をすり抜けて階段から一階を覗くと、ステップの一番下には、太った若い男性が頭から血を流してうつぶせに倒れていた。
「ああぁぁ、きよひこぉ、きよひこがぁぁ……!」
歯抜けの老婆が床に座り込んで指を差す。
老夫婦の妻が彼女を脇から支えた。
「はい、はい、ここで……亡くなってましたねぇ。可哀そうにねぇ。お義母さん、和室戻ろうか」
リビングから夫が顔を出して、二階を見上げて呟いた。
「やめてくれよ母さん……。もうあの子も成仏してるはずだよ。あぁ、次は本も片付けないとな……、いくら大事にしてたといっても、ずっとあのままじゃあな……」
寂しそうな声は、俺にしか聞こえなかっただろう。
若い男は首をもたげて、不自然な角度で俺を見上げた。血走った片目が、刺すように見上げてくる。
――し……。
幽けき声がした。
彼の右手の中指のペンだこから、鮮やかな色の血が滲んでいた。手書き派か。指も痛かっただろうに。自分はパソコン派だからそこは共感できないが……。
――し……。
「よかったよ」
俺は心から言った。
「君の、詩」
勉強机の引き出しに入っていた、清書済みの。
きっとどこかへ送るつもりだったであろう、詩。
「とてもよかった」
それ以上なにも言えずに目を伏せる。
気づけば男は消えていた。最後に見た顔は、少しだけ穏やかに見えた。
彼があの部屋で重ねていった齢は、孤独は、目指したことのある人間にしか偲ぶことのできない重みなのだと思う。
俺からの報告を聞いた類は、カウンターの椅子で足を組んで紅茶に口をつけた。
「おおかた、遺品の処分を進めるうちに、『文豪のレプリカ万年筆を使っていた』という話が『文豪の万年筆』に縮められてしまったんだろうね。朝になったら、万年筆は庭でお焚き上げすることにしよう」
「あぁ……」
「ありがとう、おかげですっきりしたよ。なにもわからないとやっぱりモヤモヤするからね。まぁ、ちょっと痛い目に遭わされたし、僕は見ず知らずの人のおばけに同情なんかできないけれど」
「そうか」
「物書きにだって共感できない」
カウンターに残ったままの「し」の血文字を見つめる。
ふと思いついて、俺は文字の上から人差し指を滑らせた。
横棒を、二本。
類はちょっと目を瞠って、赤いペンを取り、上からなぞってくれた。
《も》
「『喪』……? ははぁ、よく思いつくね。さすが作家だ」
「ただの言葉遊びだ」
だが、あの青年は笑ってくれるのではないかと思う。
類は両手を合わせて目をつむった。俺も黙祷を捧げる。
目を開けると、天板の赤い文字は綺麗に消えていた。
了
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