比類無き一冊、と呼ぶべき本がある。
文字通り他に類を見ない独特の概念に貫かれて創られた一冊で、いうならばその作者の発明品のような書籍である。
一例を挙げるならば、安野光雅『起笑転結』、泡坂妻夫『生者と死者 酩探偵ヨギガンジーの透視術』、ドゥーガル・ディクソン『アフターマン』、Shaun Tan『The Arrival』……などと、こうして書いている合間にも、思わず背表紙の並ぶ「聖別」された場所に目が惹きつけられる。こうした本のためには本棚にも特別な場所を設けたくなるもので、ここには、ジャンル、版型、新旧を問わず、その作者にしか創れない、過去にも未来にも他に類例を見ないであろう〈比類無き一冊〉だけを並べてある。
特別な時間を過ごしたい時に、こうした格別な本を「玩読」するのだけれども、そのなかでも、未だに手に取るたびにぞくぞくとし、一篇を読む度に至福の高揚を味わえるのが、入江敦彦『怖いこわい京都、教えます』──ほかでもない本書(の底本)である。本書は、まさに驚くべき、比類無き一冊なのだ。
なによりも、恐怖を扱った書であることが、私のような〈恐怖の道楽者〉にとっては、うれしい。本書は、恐怖の探求者としての入江敦彦を見せてくれる。いや、入江敦彦自身の言葉を借りれば、氏が本書で探究したのは〈京怖〉──京都の恐怖ということになる。
本書はその表層だけを見るならば、巻頭の「怖い場所」リストと市街図が象徴するように、「京都の恐怖スポット案内」風の、怪奇体験を切望する読者向けのガイドブックにも見えるし、しかも京都の名所旧跡案内をも兼ねている。もっとも……京都の観光情報を含めた京都怪談案内、京都魔界紀行といった類の書であれば、今時、さほど珍しい趣向ではない。民俗学者、宗教学者、オカルト研究家、怪談蒐集家などによる京都探訪を読むにも事欠かない。だが、しかし──優れた名著をも含めたこうした著作物を、生粋の京都人たちは眺めやり、
「偉い先生がそんなふうにお書きになってはるんやから、きっとそうなんやろねえ」
と微笑むであろうことを、入江敦彦の読者であれば、すでに御存じの筈なのである。
そして、その微笑みの意味するところについてをも。
そう、この〈微笑み〉は、本書のまえがきでも言及されているのである。
他ならぬ〈京都の恐怖〉そのものの微笑みとして。
入江敦彦は名著『京都人だけが知っている』以来、生粋の京都人の視座から、京都の法則、京都の秘密、京都の深層、さらには、京都という「ある種、異形」の魅力の本質を探究し、発信し続けてきた。外部に向けて、誠実に、懇切丁寧に。それは、京都を愛するが故である。
その入江敦彦が、
「私の京都への愛情は、怖いものへの愛情とほぼ相似形といってもいい」
と述懐し、筆をとった〈京怖〉への随想。これこそが、本書のスピリットなのだ。
それは、〈京怖〉を象徴する「怖い場所」に纏わる物語風の随想(底本では八十八の〈京怖〉だったが、うれしいことに文庫版では九十九の〈京怖〉に殖えている。まさに百物語。しかも、地図に記された百物語でもある)として呈示されているのだが、そのそれぞれが、〈異形〉〈伝説〉〈寺院〉〈神社〉〈奇妙〉〈人間〉〈風景〉〈幽霊〉〈妖怪〉とさらにカテゴリー別に分類されているのも、本書の性格を語っている。「怖い場所」での実体験(まさに体感)を記述しながらも、入江敦彦は、恐怖を分析しているのである。愛する京都を分析したように、恐怖と怪異の本質に迫ろうとしている。実に愉しげに。実に怖ろしげに。あるものは文化論、認識論、史論、美学論にまで発展する。あるものは、機知に富んだショートショートのごとく極上の陥穽に突き落とす。そして、あるものは背筋に冷たい唇を押し当てる……。
ここで、入江敦彦との出会いについて書いておきたい。
話は、少し迂回するが……私が、恐怖小説のオリジナル・アンソロジー《異形コレクション》を作り始めて、早くも、十三年が経とうとしている。小説書きの「余技」にしては、いささか深入りし過ぎたのかもしれないが、私にとってこの仕事は、〈怪奇と幻想〉という極上の嗜好に思う存分耽ることのできる至福の機会であり、この分野の卓越した才能と親交を得ることのできる刺激的な出会いの場でもある。
入江敦彦という驚くべき才能との出会いも、この仕事──いや、この「道楽」が、私に与えてくれた実に得難い幸運だったのだ。
少しだけ説明を加えておくと……。さまざまな著者の短篇小説を集めたアンソロジーのなかでも、「オリジナル・アンソロジー」というのは、年刊傑作選や、世に埋もれた傑作を集めて編纂する再収録のアンソロジーとは、作り方がまったく異なる。
「オリジナル・アンソロジー」とは、幾人ものプロの小説家に、短篇小説を書き下ろして貰い、そのなかから一定の水準以上のものだけを収録する。すべて新作揃いの「オリジナル」というわけである。この種のものでは、アメリカのSFアンソロジーに有名なものがあるが、私の知る限り、発祥の地は英国である。それも、怪奇小説の分野だ。一九二六年の《The Ghost Book》。女性作家レディ・シンシア・アスキスが、自ら企画し、同業の作家たちから書き下ろし原稿を集めて編集した幽霊小説アンソロジーである。そのアスキスの没年に生まれた私が、今、その顰みに倣って幻想怪奇のオリジナル・アンソロジーを企画し編集している、などというと聊か因縁めいて聞こえるかもしれないが、私の作っている《異形コレクション》は《The Ghost Book》と異なって、各巻ごとにテーマを設け、それに従って、作品を競作して戴くことになっている。そのテーマとは、〈変身〉、〈水妖〉、〈獣人〉、〈夢魔〉など、いかにも怪奇小説特有のものから、〈時間怪談〉、〈未来妖怪〉などとマニアックなものまである。
毎回、このテーマを決めるのが愉しみでもあり、苦しみでもあるのだが、ある時、これまで考えてもみなかったテーマの着想が天啓のように降ってきた。──〈京都〉である。
直接のきっかけは赤江瀑の作品集を再読したことだった。立風書房版『赤江瀑京都小説集』全二巻──『風幻』と『夢跡』。それまで、読んでいた幻想短篇の巨匠の作品を〈京都小説集〉というくくりで読み直すと「視えてくる」ものがあった。この佇まいは何なのだろうか? この空気は? この美しい違和感は? それが〈京都〉というキーワードを触媒に一気に顕現したのだ。
こうなると、さらにその正体を知りたくなる。──そして、出会うべくして出会ったのが、入江敦彦の著書というわけだった。『怖いこわい京都』ではない。この時は、まだその底本すらも出版されてはいなかった。
〈京都〉テーマのアンソロジーを実現させるまで、私の覚悟も含めて、さらに幾年もの歳月を要した。しかし、その時から──決めていたことがある。赤江瀑には必ず参加してもらうこと。そして、入江敦彦にも参加してもらい、できれば怪奇幻想小説を書いてもらうこと。まだ、お二方とも何の面識もなかった。しかも─エッセイスト入江敦彦が小説を、それも「怖いこわい」怪奇幻想小説などを書く気になるか否かなど、編集部のみならず、私じしん、その時点ではなんの確証もないことだった。ただ─氏の随筆のあちこちに見られる言葉の選び方、読書歴、引用された作家などから、この人物は、もしかすると「こちら側」の人間ではないか……という幽かな予感はあった。もちろん、その教養やセンスの高さから、入江敦彦がただものではないことは疑いようもないことだったが。こうなると、小説家としての入江敦彦が欲しい。これは、この時は、妄想に近いものだった。《異形》の編集をしている時の自分は、いつも、幾分、信長的になっている。京への侵略を試みた信長。そういえば「鳴かぬなら~ホトトギス」と、信長、秀吉、家康が詠んだあの「鳴かぬホトトギス」とは「京都人のことではないのか」と鋭い仮説を立てたのも、入江敦彦なのだった。紆余曲折の後─赤江瀑と初めての会見を果たし、では来年、執筆を……と決まった二〇〇七年の夏、単行本版『怖いこわい京都、教えます』が出版されたのである。怖いほどうれしいシンクロニシティだった。
〈京都〉をテーマに据えた《異形コレクション》第41巻『京都宵』(光文社刊)は、その翌年、九月に刊行された。そこには、赤江瀑の新作とともに、入江敦彦の怪奇幻想小説が載っている。入江敦彦は「こちら側」の人間だったのだ。氏は学生時代、やはり生粋の京都人SF作家・藤田雅矢とともに創作活動に励んでいた。その藤田雅矢もまた『京都宵』に妖しく美しいファンタジーを寄稿してくれた。
この時、収録した入江敦彦作品の題名は「テ・鉄輪」。堺町通松原下ル鍛冶屋町の喫茶店を舞台に、〈鉄輪の井戸〉で珈琲を淹れ、縁切りの秘術を使う美女の物語……とくれば、お気づきの読者もおられるかもしれない。本書「伝説 一 丑の刻参り」の舞台を大胆にフィクションにした幻想短篇なのである。
収録の際、私はこの作品に次のような解説を寄せた。
「したがって、本作は入江敦彦が、プロとして初めて発表する小説なのだが、一読、感嘆されるであろう。京言葉も町家も古典も祭祀も怪異も、すべてが有機的に織りあげられた京都幻想の西陣織」
入江敦彦はその後も《異形コレクション》に精力的に作品を寄稿。〈京怖〉の物語には、いずれも本書収録の「怖い場所」が登場している(最新刊の第45巻『憑依』では、「寺院 一」の正伝寺と「神社 八」の安井金毘羅宮が怪異とともに描かれる)。
氏の小説も、一冊に纏まる日が来ることだろう。願わくば〈比類無き一冊〉として。
そして、その原点である、この本書。
これは、〈京怖〉に関する入門書というだけではない。すべての〈恐怖〉を考えるためのバイブルである。少なくとも、私は、そう考えている。
二〇一〇年四月
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『皇后は闘うことにした』林真理子・著
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