藤崎彩織さんの長編小説『ふたご』の中に、忘れられないシーンがある。
物語の中盤、主人公・夏子の大切な相手である月島は精神の病気を抱え、高い頻度で夏子に電話をかけるようになる。薬で眠りすぎることの怖さ、思うように生活を営めない歯がゆさ。そんな自身の体の不調を話し続ける月島に対して、夏子は初め「辛いね、大変だね」と返せていたが、その電話が半年に及ぶと、次第に「大丈夫?」と気づかうことさえ難しくなってくる。夏子自身も不眠症を患い、疲弊しながら日常生活を送っている。よくしゃべる割りに変わる様子を見せない月島に、夏子は苛立ちを感じ、とうとう彼を突き放してしまう。
一人で立てなくなった他者を支えるのは、どんな人にとっても難しい。夏子の限界に、共感する読者は多いだろう。私もその一人だった。
月島は少し黙ってから、「もう話すことない」と言って電話を切る。「あ、ごめん」という夏子の声は、月島には届かない。
このまま二人の関係性は途切れてしまうのか。
似たような状況に陥ったら、途切れてしまう二人組の方が多いのではないかと正直思う。だってこれは本当にどちらも大変だ。病に追い詰められている側はもちろん、それを支える側にも余裕なんてない。少しでも自己正当化や自己欺瞞が頭をよぎれば(そしてこれらももちろん、人間の心を守るための大切な防御反応だ)、つながりが絶えたのを相手のせいにして、手を放してしまうだろう。
しかし電話を切られた夏子は深呼吸をし、以前月島と交わした会話を思い出す。うつ病の人に頑張れと言ってはいけないのはどうしてだと思うか。そんな夏子の問いかけに、月島が(病気の渦中では)「頑張るっていうことが何なのか全く思い出せなくなるんだと思う。頑張れって言われれば言われる程(中略)孤独になっていく」と答えたこと。さらに遡った、以前の会話も。
「でもさ、俺は思うんだよ。努力出来る充実した人生と、ゴロゴロしながら今日も頑張れなかったって思う人生と、どっちか選びなさいって聞いたら、みんな充実した人生を選ぶでしょう」
「そうだね」
(中略)
「今話したことは、甘えてるっていう言葉を使っている人たちへの非難じゃないんだ。俺にだってその気持ちは分かるし。ただ、思ったんだよ」
「何を?」
「頑張れた方がいいに決まってるじゃないかって」 (『ふたご』文春文庫刊)
頑張れた方がいいに決まってるじゃないか。それは日々、ピアノの練習に苦戦する夏子にとっても実感のある言葉だった。
大切な言葉に辿り着いた夏子は、「気持ちを整理してから」電話をかけ直し、月島に謝る。月島はその謝罪を受け入れる。
この「気持ちを整理してから」という一節を読んだとき、とても非凡な輝きに、きらりと目を射られた気持ちになった。
夏子は自分の発言を悔い、反射的にかけ直して謝ったのではない。月島への恋心に突き動かされて謝ったわけでもない。大切な相手だから是が非でも繋ぎとめなければ、と議論を脇に置いたわけでも、もちろんない。
気持ちを整理し、人間が幸福に生きている状態とは何かを考え、自分は彼に謝るべきだと判断し、謝ったのだ。しかも彼女の挙動にそれほど焦りは感じられない。深呼吸し、必要なだけ思考を巡らせ、自分にとって適切なタイミングで電話をかけた。
強靱だ、とまず思う。他者に対して、公正であろうと努めている。そして彼女の公正さは、自分へも向けられる。月島へ謝罪しつつ、「……でも私も、実は結構大変なんだよ」と窮状をきちんと伝える。「分かってる」という月島の返事に、夏子はまた一つ大切な理解を得る。二人はやっと、それぞれの言葉のナイフを置く場所を見つける。
『ねじねじ録』を読みながら、日射しを受けた水晶のような夏子の輝きが、繰り返しまぶたに蘇った。
本作はミュージシャンであり作家の藤崎彩織さんが仕事や育児、周囲の人とのやりとりなど、日常の様々なできごとについて綴ったエッセイ集だ。このタイトルとなったのは、藤崎さんが“Saori”として所属するバンド、SEKAI NO OWARIのボーカルのFukaseさんから「サオリちゃんって、いつもねじねじ悩んでるよね」と言われたことがきっかけだったらしい。
たしかに、本作の中で藤崎さんはたくさん、ねじねじと考え続けている。子育てという営みが、まるで親ならば全員その資質を持っているかのように扱われていること。時に自然なものよりも、作り上げた偽物の方がしっかりと物事を伝える力を持つこと。子供に摘んでもいい草と摘んではいけない草、殺すべき虫と殺したくない虫の違いを伝える難しさと、そこから湧き上がる矛盾について。
子供が生まれたらみんな母性や父性が湧くからなんとかなる、だとか、アーティストは自然体が一番かっこいい、だとか、そりゃあカブトムシとゴキブリは違うよ、だとか、そんな胡乱で曖昧な思い込みをねじねじと選り分け、やがて藤崎さんはこれらの問いかけに対する一つの解を作り出す。藤崎さんにしか作れない、明瞭な解を。
この解となる一節が、いつもぱっと輝くように美しい。安易な思い込みを手放し、代わりにもっと自由な人間の姿を模索しようとする、勇敢な一節だ。
本物よりも美しかった偽物の夕焼け。
(中略)
あの映像が教えてくれたのは、誰かに届け、と想うことへの覚悟だったのかもしれない。
誰かに教えてもらって理解するのではなく、根気よく考え続け、自分のなかで納得できる像を結び、自分の言葉で理解する。それをまるで当然のように行っているのが、このエッセイのすごいところだ。自分で答えを出し、自分のタイミングで電話をかけ直した『ふたご』の夏子と同じ強靱さを感じ、胸が何度も痺れた。
逆に、この理解がとんでもない方向に行ったパターンを紹介する「ストップ妄想」という一編には笑ってしまった。思考力が高いからこそ、やけに説得力のある妄想が作れてしまうのだろう。
時に妄想しつつも、様々な思い込みによってねじれ、そこにいる人間を不自由にする窮屈なルールを、藤崎さんのねじねじは真っ直ぐに伸ばし、場の風通しを良くしていく。
ねじねじ、という言葉について、本作では「大小さまざまな歯車が絡み合っているような様子」と記されていたが、私が読みながら連想したのは、こまかな螺旋を描いて空をめざすネジバナだった。藤崎さんがねじねじしながら作り出した理解の花を追ううちに、やがて目線は空へと向かう。まだこの社会に訪れていない、より柔軟で力強い人間関係や、広々とした仕事や育児との向き合い方を、『ねじねじ録』は見せてくれる。
ねじねじしているけれど前向きで、よりよい未来を勇敢に模索し続けている。だからこそ藤崎さんの文章は、多くの人に届くのだと思う。
藤崎さんと一緒に、未来について悩み続けたい。本を閉じる頃には、そんな勇気をもらっていた。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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