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『だれも知らない小さな国』の〈こぼしさま〉は何者なのか? 話題作『よむよむかたる』より、核心の第2章を特別公開!

ジャンル : #小説

よむよむかたる

朝倉かすみ

よむよむかたる

朝倉かすみ

くわしく
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近著が直木賞にノミネートされるなど、いま最も注目を集める作家の一人、朝倉かすみさん。待望の最新長編『よむよむかたる』が2024年9月19日に発売となりました。

北海道・小樽の『喫茶店シトロン』では月に1回、平均年齢85歳の超高齢読書サークル「坂の途中で本を読む会」が開かれる。
元アナウンサーで会のリーダー「会長」、小柄でトコトコ歩く「シルバニア」、ふくよかで彫りの深い「マンマ」、緑色のネクタイが似合う「蝶ネクタイ」、夫婦で参加する「まちゃえさん」と「シンちゃん」。
雇われ店長になった主人公・安田こと「やっくん」は、パワフルなメンバーに驚きながらも読書会に魅入られていく――。

▼第1章はこちら


2 いつかの手紙

 スッ。会長が腕時計へと視線を下げた。それで場が静まった。なぜなら、スッ。会員たちが一斉に構えに入ったからだった。これすなわち読書会の構えとでもいうもので、まずみんなの背筋がちょっぴり伸びた。それからテーブルに置いたおのおのの課題本に手が乗った。シミが浮き出て、皺ばんだ皮がつまめるほど余る手の甲が並ぶ。その手で表紙を撫でたりさすったり、またはページをめくったり閉じたりするうち、つぼめた唇がモグモグと動き出す。音読の練習か、あるいは、これだけは言わなくっちゃと心づもりしていることを頭の中で復習っているに違いない。

「ハイ、ではそろそろ」

 会長が声を発した。会員たちと目を合わせていく。まちゃえさん、シンちゃん、蝶ネクタイ。ひとりずつ見交わし、しっかりとうなずき合ってから反対側に視線を振る。シルバニア、マンマときて、最後は安田だ。うなずこうか、それとも軽い会釈でいこうか――。直前まで安田は迷っていたのだが、気づくとコックリうなずいていた。会員一同の、いかにも微笑ましげな視線が集まり、「いやー」となんとなく頭を搔いた。会長が話している。今日もいい声だ。すごくよく通る。からだの深いところから押し出され、真っ直ぐ進む感じである。元アナウンサーだけあって呼吸法からして一般人とは違うようだ。

「エット、今日はですネ、三時までは通常のアレで、そのあと、例のですネ、エットー、わが坂の途中で本を読む会のネ、二十周年事業について、まーだいたい四時まで話し合う、ト、このようなタイムスケジュールでやっていきたいと思います」

 きりりと表情を引き締めた会員たちの「ハイ」が響く。どの「ハイ」も低声で、ひじょうに真面目だった。先月よりだいぶ落ち着いた雰囲気だった。耳の聞こえも悪くないようだし、そんなにはしゃいでもいない。

 四月第一金曜午後一時。坂の途中で本を読む会の例会が始まった。安田が来てから二回目の読む会だった。会長が眼鏡を小鼻までずり下げ、裸眼でもって用意してきたペーパーを読み上げる。

「エー読む本は今月から『だれも知らない小さな国』です。作者は佐藤さとるさん。昭和三年生まれだそうですから、まちゃえさんのみっつ上ですか」

「アレェ、じゃー、佐藤さんは辰だねぇ」

 あたしがホレ未だからさぁ、とまちゃえさんがメーメー鳴いてみせた。ふくよかな肩、胸、腹がたっぷりと揺れる。まちゃえさんはグレーのニットを着ていた。北海道の四月は、まだそんなにちゃんと春ではない。雪は残っているし、朝晩は冷えるし、どんなに陽気がよくても日陰は寒い。昨年、埼玉から越してきた安田はこちらの春の遅さに驚いた。いや、むしろ冬の長さか。

「なら佐藤さんは佐藤慶と同い歳だ!」

 マンマが声を張った。こちらもニットだ。黒のキラキラニット。でっかいピエロのブローチを付けている。

「佐藤慶、好きだったんだよネェ。あたしは倍賞千恵子とおんなじだけど」

 と、続けるやいなや各自それぞれ同い歳の有名人を申告しだした。名前が出るたびにどよめきが起こり、そして「アレッ、その人、死んだんだったかい?」と存命か否か確認された。定かでない場合が多かったが、「調べましょうか」と安田がスマホを持つと、「いやいやいや」とみんなして頭と手をブンブン振った。「なんもそんなことまでしなくっていいって」「やっくんは親切だねぇ」「好青年ですので」と口々に言い立てた。ちょっと話題にしてみただけで、どうしても知りたい情報ではないらしい。

「そういうやっくんさんはどなたと?」

 蝶ネクタイが安田に訊ねた。今日は金に近い黄色の蝶ネクタイを着けている。ワイン色のベストに紺のジャケット、チノパン。実のところ蝶ネクタイはかなりシュッとしている。穏やかな人柄ながら明敏さも備えているのに、なんとなし残念な印象になるのは、腰の低さからくる小物感と、大きめ反っ歯の義歯のせいか、と思いながら安田が応じる。

「あ、ぼくは」

 大谷翔平の二コ下ですね、と、準備していた返答を口にしようとしたら、会長が咳払いをした。

 見ると、眉間に皺を寄せている。そうだった。会長は進行を遮られるのが嫌なのだった。ついさっきまで、みんなと一緒になって「あたくしの同級生は大江健三郎。みなさんも読む会の一員なら作家の名前くらいあげないと!」とはしゃいでいたのに、いまは「いったいいつまでそんなくだらない話をしているんだ」という顔を見せつけている。会員たちが掃かれたように静かになる。

「デ!」

 会長がみんなを睨みつけるような声を放った。ペーパーに書いてある文章を人差し指でなぞりながら読み上げる。徐々にきもちが落ち着いていくのが手にとるように分かった。

「佐藤さんがお亡くなりになったのは平成二十九年、八十八歳のときでした」

 いつもの声音で着地し、息を継いだら、

「あ」

 とシルバニアが声を発した。いいこと思いついちゃった、というふうに目を見ひらき、両手で口を覆い、うふふと肩をすくめる。ハイネックのボーダーニットに黒のジャンパースカート、ボルドーのタイツ。真っ白なお団子頭とあいまって、おとぎの国の住人みたいな妖精感があった。その妖精が、

「会長も今年八十八ですので」

 と言ったものだから、一同、固まった。会長などは「えっ」の口をしたまま絶句していた。ほかの人たちも同じようなものだった。最高齢のまちゃえさんだけが、はっきりしない笑みを浮かべ、だれにともなく「ねー?」と首をかしげていた。なんとかして雰囲気をやわらげようとしているように見えるが、特に意味はないのかもしれないと安田は思った。もしくはよく聞こえなかったか。

「ですから、ですね」

 シルバニアがふたたび発言した。リアクションがないのは、みんなの耳が遠いせいだと考えたらしく、「会長も、今年、八十八歳に、なりますので」とハキハキと区切って繰り返し、「気をつけるに越したことないですよーって」と付け足したところで、蝶ネクタイが腰を浮かせて「ヤッ、会長はすこぶるお元気で」あっはっはっは、と笑うと、いち早くシンちゃんが「そうですよ!」と加勢し、「そうそう、お元気」と取りなすようにうなずくマンマにまちゃえさんが「そうそう」と続いた。もちろん安田もしきりにうなずいた。シルバニアが祈るように指を絡ませ、やはりうなずいているのが視界に入り、なぜそのポーズを、と静かに驚いていたら、会長が言った。

「……そうでもないですけどね」

 すごくよく通ったし、いい声だったが、実につまらなそうだった。気の抜けた表情で「昭和三十四年に出版された本作は毎日出版文化賞、児童文学者協会児童文学新人賞、国際アンデルセン賞国内賞を受賞」とペーパーを読み上げる。

 安田は膝の上で美智留ノートをめくった。右隣の蝶ネクタイ、左隣のマンマに見られないよう、表紙と裏表紙をなるべく立てて表見返しの会員一覧表から会長の情報に目を走らせる。この一か月で読み込んだはずの美智留ノートだったが、細部までは憶えていなかった。

 先月入会の安田は、今日が初めての正式参加だった。

「作家」の肩書がモノをいい、名誉顧問、書記、二十周年事業責任者の三つの役職を担わされているのだが、読む会会員にとって安田は「孫より若い新入会員」に過ぎないようだ。

 一時スタートなのに午前中から集まり出したあの人たちは、持参してきたオヤツを我先にとカウンター内で作業中の安田に差し出し、「なんも遠慮しなくていいって」とか「若い人はナンボでも食べられるので」とか「そんなにガリガリだと馬力でないよぅ」と安田が口に入れてゴックンするまで、にこやかに圧をかけた。「ありがとうございます」「ごちそうになります」「美味しいです」。頭を下げる安田に、マンマがいかにも感に堪えないというようすで放った「ああっ、やっくんはウチのめんこちゃん(・・・・・・)!」という台詞が共感を呼び、彼らのあいだで何度も繰り返された。曖昧な笑みを浮かべ、例会に参加するためカウンターを出て肘掛け椅子に腰を下ろした安田に、蝶ネクタイが「やっくんは、わたしたち読む会の可愛い子」と通訳してくれた。


◉持病 糖尿病、高血圧、動脈硬化。

◉メモ 内緒で来店した娘さんに持病を打ち明けられ、オヤツを食べ過ぎないよう見張ってほしいと頼まれる。次の例会にて、甘いもの、しょっぱいもの、どちらもバクバク食べるので、冗談めかして注意したら、「チョットしか食べてない!」と激昂。ここ一、二年で、キレやすくなったように思う。みんなもそう言っている。


 美智留ノートの会長情報だった。メモ部分は豆粒みたいな字で書いてある。三つの持病を読み返し、安田は例会が始まるまでに会長が食べたものを思い出そうとした。先月同様一番乗りだった会長は、昼食としてトーストサンドセットAをたいらげた。それからたしかコーヒーにミルクと砂糖を入れ、そのときにはすでに全員集合していたから、各人の持参したオヤツをムシャムシャ食べていたような気がする。

 ちなみに今月のオヤツ当番はシンちゃんだった。みどり屋のあられを見繕ってきたのだが、それとは別に妻のまちゃえさんがフィンガーチョコレートの大袋を持ってきた。なぜかマンマとシルバニアも買ってきた。かまぼこと、ぱんじゅうだ。蝶ネクタイは頂き物だと言って銀座鈴屋の甘納豆をテーブルに載せた。その甘納豆は、たしか、会長がほとんど食べたのではなかったか。「豆だからダイジョブ」みたいなことを言っていた記憶がある。

 安田はそっとかぶりを振った。見守るしかないだろう。美智留でさえキレられたのだから、青二才の安田の注意になど聞く耳を持ってくれるはずがない。とはいえいま現在の会長の元気のよさを維持するには持病のコントロールがたぶん不可欠。どうしたもんかなぁ、とマスクのゴムを耳の裏でいじっていたら、紙がこすれる音がした。見まわすと、みんな、課題本をひらいている。「読み」がスタートするようだ。

 坂の途中で本を読む会では、課題本をひとり二ページ見当で朗読し、その都度、皆で感想を述べ合う。そう美智留ノートに書いてあった。これが一ラウンドで、時間の許すかぎり何ラウンドでも繰り返すらしい。

 課題本は「読む本」、朗読は「読み」と言い換えるのが定着していて、「読み」の順番は入会順。読む会では、オヤツ当番、読む本当番などさまざまな「当番」があるが、その持ち回り順はすべて入会順なのだそうだ。つまり、会長、まちゃえさん、マンマ、シルバニア、蝶ネクタイ、シンちゃん、そして安田の順である。と、いい声が聞こえてきた。一番手の会長が第一章を読み始めた。

「二十年近い前のことだから、もうむかしといっていいかもしれない。ぼくはまだ小学校の三年生だった」

 さすがの「読み」だった。最初の一言が耳に触れただけで物語が滑り出した。あとはこの声に身を委ねてさえいればいい。それだけで物語の中を歩いていける。そんな気にさせた。

 小中高と十二年間、国語の授業で教科書を音読させられたが、安田は「突っかからない」一点を旨とした棒読みを貫いた。周りも似たり寄ったりだったが、たまに演技を入れてくる者がいて、安田は共感性羞恥で居ても立ってもいられなくなったものだ。なのに会長の「読み」はちっとも恥ずかしくなかった。元アナウンサーによる、いわばプロの朗読だからだろう。

 第一章の第一節で会長の担当分が終わった。ページ数でいうと四ページとちょっとだった。

「読み」の区切りは事前郵送の「読む会通信」にて会長からみんなに通達されていた。安田のもとにも届いた。A4のコピー用紙に会長の手書き文字が並んでいる。意外だったのは、会長の字が楷書で、横書きだったことだった。老人は崩し字を用いるものだと思い込んでいた。

 全体の雰囲気としては、書店で見かける手づくりのフリーペーパーに似ていた。横長の四角や、いくつもの楕円の中に、ラジオでいうとオープニングトークのような会長のごく短いエッセイと、会員ひとりずつの割り当てページと名前が書いてあった。今回の「読み」は、ひとり一節でいくようである。そして今日のうちに第一章をすべて「読む」計画らしい。

 ちなみにこの本は、ある夏、町のこどもたちがとりもちづくりに夢中になるところから始まる。みんなよりちょっとちいさい小学三年生の〈ぼく〉は、自分だけのもちの木がほしくて町はずれの峠まで冒険に出て、こんもりと繁った小山にたどり着く。するとその向こうに三角形の平地が広がっていて、美しい泉まで湧いていた――。


「じゃ、まちゃえさんから」

 第一節の読みを終えた会長が手のひらを差し出すようにした。感想タイムに入る。まちゃえさんがゆっくりと頭を下げた。

「いつもながら会長の読みは最高の一言だワ。〈ぼく〉がもちの木ば探していって、フッと三角の平地に出たところなんかサァ、〈ぼく〉の見た景色が、〈ぼく〉の見たようにして、あたしにも見えた気したワ」

 以上です、と、はむっと口を閉じたまちゃえさんが、隣のシンちゃんに向かって手のひらを差し出すようにする。シンちゃんがゆっくりと頭を下げる。

「会長の読みのよさは、『うまく読んでやろう』とか『どうだこの読み』というんでなくて、ただひたすら作品世界を豊かにしようとそれだけ心がけてることだと思うんですよね。うん、最高。ヤー今回も勉強さしてもらいました」

 以上です、とシンちゃんはまったく人のよさそうな笑みを浮かべ、隣の蝶ネクタイに向かって手のひらを差し出すようにした。蝶ネクタイがゆっくりと頭を下げる。

 そっか、ああするんだ。安田はかすかにうなずいた。神社で前の人の身振りを見て、参拝の手順を確認するようなうなずきである。

 感想の述べ方は美智留ノートに書いてあった。「読み手の左隣から時計回りの順」で、発表する感想は「まず『読み』について、次いで内容」で、「『読み』への感想はマスト、内容についての感想はオプション(おもに本文からインスパイアされた各人の思い出話)」と注意書きが添えられていた。

 全体像は理解できたが、発言の締めの言葉「以上です」からの次の番手への手のひらの差し出し、それを受けての一礼といった細部は、やはり、実際に参加してみないと分からないものである。

 安田がこの手の「ちいさな集まり」に参加するのは初めてだった。

 学生時代に部活動や学内サークルに所属したことはあった。そんなに熱心に活動したわけではなかったが、先輩後輩同期との人間関係の「あるある」くらいは体験している。だけども、地域の、趣味の、サークル、には縁がなかった。というより関心を持てずにきた。

 地元愛深めで絆強めの人々や、元気印のご近所老人が集まって、内部で盛り上がっている、そんな印象があった。オンラインでのやりとりが主戦場のサークルでも同じだろう。それって内輪受けの世界ですよね、とうっすら笑いたくなる部分が安田にはあった。

 冷笑主義は、世の中の仕組みという仕組みを看破した人物が右往左往する民草を高みから見ているようで最高に格好いい――。思春期の頃はそう思っていた。十数年の時を経た現在は、むしろダサいと思うようになっている。なんでもすぐに分かった気になること、あらゆるものを見くびって憫笑と嘲笑とを混ぜ合わせた薄笑いを浮かべること。

 冷笑主義の格好よさなど、安田の中では、いまや梅干しの種ほどの大きさだった。だけどもその中心に天神さまがいるようなありがたさがなかなか消えてくれない。

 ゼリーみたいにぷるぷる揺れる自己評価同様、われながら鬱陶しい。一皮剝けたい、と、切に思う。だからここ小樽までやってきたのかもしれない。


「ハイ、もー、最高。ト、会長の読みはその一言で用が足りるんですが、ワタクシが思いますに、イメージがビンビンと伝わってくるという点、絵が浮かぶといいますか、そういう実にこう、会長の読みでもって作品が映像になるんですネェ」

 蝶ネクタイの感想を聞き、安田はまたしても気づいた。三人とも「最高」という言葉を使っている。会長の読みは「最高」と讃えるもの、となっているに違いない。いや、単にこの人たちのあいだで「最高」という言い方が流行っているのかもしれない、とすぐに思い直したのは、先月の例会で、みんなが爆発的に嬉しそうな顔をして口々に「最高、最高」と言っていた、そんな記憶があったからだ。

 いずれにしても内輪受けの最たるもの。だけども現時点では冷笑よりも微笑ましさが先に立つ。もしかしたら安田は、読む会メンバーの保護者気分でいるのかもしれない。蝶ネクタイの感想が続く。

「たとえばですネェ、もちの木。街っ子だったワタクシは見たことがありません。皮を剝いでとりもちをつくったこともありません。だからソレが本当に鳥を捕まえられるほどのネチャネチャ加減なのかも分かりません。でも、とりもちづくりはさぞ楽しいのだろうなというのは身を以て分かるのです。それはつまり、ワタクシたちがみかんの汁で炙り出し年賀状を書くようなものでございましょう」

 蝶ネクタイのこの発言で、場が一気に活気づいた。みんな、もちの木がピンとこなかったようで、「やーあたしなんか白いお餅のなってる木かと思ったよぅ!」とマンマが言い、ドッと受けた。分かる、分かる、と賛同を集めたあとは、植物の分泌液の話題や、山登りの記憶、それぞれの地元のがき大将エピソードが活発に語られ、それが、四節の「読み」が終わるまで続いた。

 安田が意表をつかれたのは、みんな、棒読みではなかったことだった。まちゃえさん、マンマ、シルバニア。三人とも、三人なりに感情を込め、さりげなく声色を使っていた。「声がよく出るようになった」とか「後半で早口になる癖が直ってきた」とか「こどものあどけなさがよく出ている」と感想を述べる側も、それを受けて深く頭を下げる側もたいへんに真摯なようすで、この会ならではの「読み」道とでもいうものを追求しているようすがあった。頂点にいるのはもちろん会長だが、師匠然とした発言は特になかった。それぞれが芯から精進しますの心持ちでいるようで、その気配が濃く流れていて、実に「道」の感じだった。照れ臭いとか恥ずかしいとか言ってる場合ではないのだった。

 であるのだが、時計回りに感想を述べていく途中でだれかが本文に絡めた話を始めると、あっという間に意見ががちゃがちゃと交錯しだし、「道」の感じも順番も消滅する。このあたりにも、やっぱり安田はなんとなく意表をつかれた。


 五節の担当は蝶ネクタイだった。蝶ネクタイはにこやかでいい人だけれど、常に一抹の堅苦しさを発散していて、周囲をほんの少し緊張させる。それが凝縮したような読みだった。一言でいうと拙い読みなのだが、台詞回しや地の文の抑揚の付け方にいっしょうけんめいの稽古や蝶ネクタイなりの工夫が偲ばれた。

 蝶ネクタイの読みに耳を傾ける安田の胸に、なんとも言えない感動とリスペクトが込み上げる。蝶ネクタイという人への親しみの深さが増していくのだ。安田だけではないようだった。すでに充分親交のあるみんなも蝶ネクタイへの親しみをもう一段階深めたようで、口々に、こころから讃えた。会長などは「人の心を揺さぶることではわが会随一の読み手」と感に堪えないように瞑目したほどである。

 六節はシンちゃんの番だ。美智留ノートによると、まちゃえさんのアテンドとして参加したらしい。そのためか声にも読みにもこれといった特徴がなかった。でも、だからこその聞き心地のよさがあった。手間ひまかけた料理が続いたあとのお澄ましみたいなものだ。しっかり発音するので聞き取りやすい。

「われがわれがの『我』を捨てて、と申しましょうか、シンちゃんの読みはまさに無心、まさに無我。心洗われる清流の読み」

 会長が名調子で感想を述べた。でもどことなくようすが違う。頰が下がり、皺ばんで見える。あれ? さっきまでテカテカしてなかった? 安田は心中で首をかしげた。安田の思う会長のトレードマークは張りがあって、色艶のよいほっぺたである。気のせいかな、それとも光線の加減とか? 照明に目を上げた安田の耳に会長の声が入ってきた。

「先ほどのネ、佐竹のキンちゃんのときに言おうかどうしようか迷ったのですが……。いやなに、ちょっとマァ、あたくしなりの『読み』をネ、ご披露したいと思いまして」

 佐竹のキンちゃんとは蝶ネクタイの本名である佐竹均からくる愛称だ。坂の途中で本を読む会での「読み」には会員の「朗読」、テキストの「解釈」、ふたつの意味がある。この場合は後者だろう。

 五節に書いてあるのは、〈ぼく〉の見つけた小山に棲むとされている「まもの」の話だ。その正体は〈こぼしさま〉。ちいさい、ちいさい人である。大昔からこの小山にいて、そのために悪い神さまは鬼門を通ることができなかった。村人は、こぼしさまたちを守るため、小山を荒らさないよう気をつけた。

 続けて六節。

 長い時間が過ぎていき、こぼしさまの話は忘れ去られた。残ったのは「近よってはならない、えんぎの悪い山」という禁忌意識と、「まもの」が棲んでいるという噂だった。


 会長が語り始めた。テーブル上で組んだ両手を支点にし、グイと両肩を前に出して。

「あたくしはネ、この『悪い神さま』っていうのは『死』を表していると思うんです。象徴とでもいいますかネ。だってそうでしょう、およそ『縁起の悪さ』なんてものはたどっていくと『死』に行き着く、ネ? じぃじ、じぃじと甘える孫の笑顔をたどると結局カネに行き着くのと同じですよ、なーんてネ、冗談、冗談」

 と笑いを取り、一同のアッハッハが収まったのをみて、一呼吸置き、口をひらく。

「『死』というものは絶対です。人は、みんな、いつか、必ず、死ぬんです。だから、だれだってこころの奥で蠢く怖れや不安や悲しみから逃れるなんてできない、ネ? そうでしょ? これがまず大前提。デ、『まもの』と呼ばれる〈こぼしさま〉です。この『ちいさい、ちいさい人』は村人から『死』への思い煩いを遠ざける役目をしたのではないか、と、いうのがですネ、あたくしの読みなんです。ホレ、書いてますでしょう? こぼしさまが小山にいるために『わるい神さまも鬼門を通ることができなかった』って」

 会長は息を継いだ。目の周りが明るくなっていた。雲が切れたようだ。頰の高さも元に戻った。血色もいい。萎みかけた風船に空気が注入されたようだ。

「『人は皆、泣きながらこの世にやって来たのだ』っていうじゃないですか。いわずと知れたシェイクスピアですよ、ネ、シェイクスピアの『リア王』、それに出てくる有名な台詞です。あたくしたちはみんな泣きながら生まれてきた。なぜか? なぜ泣くのか? いろんな人がいろんなことを言っていますが、あたくしが賛同するのは、一旦生まれてしまったら、死ぬまで生きなきゃならないからではないかという考え。ネ? あたくしたちは『その日』がくるまで、どうでも生きていかなきゃならんのですよ。もーなんといいますかネ、生きざるをえないんです。あたくしたちの、このからだは、そうなっているんです。死ぬその瞬間までオートマチックに動き続けてしまうんですネ。これ、永劫不変の真理です」

 会長は肩をひらくようにして背を伸ばした。

 安田の胸に会長の言った「オートマチック」のイメージが広がった。長い長いピタゴラ装置だ。そこをビー玉がひたすら転がっていく。いくつものスロープを登ったり降りたりし、ドミノを倒してみたり、カチカチ小球を鳴らしてみたり、壁を倒してみたり、薬玉を割ってみたりする。ビー玉からすればどれも初見の大冒険だ。ひっくり返すと、ビー玉は否応なしに大冒険をさせられてるってことで、と安田は淡く笑った。いっそ気持ちがいいような気がする。装置に振り出されたビー玉に選択肢などないのだ。転がる、の、一択。会長の声が耳に入ってくる。

「この不変の真理を、あたくしたちはみーんな生まれた瞬間、悟るんです、きっとそうだとあたくしは思うんですね。だから泣くんですよ。これから経験するどれほどかの喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、そして諦めが押し寄せて、ただただもうもう泣かさるんです。ですから本文のココ、『わるい神さまも鬼門を通ることができなかった』、これは最前あたくしが言った『悪い神さま』イコール『死』、を踏まえると『死』が通らなかった、すなわち、村人が死ななかった、ことになるのですが、いくら言い伝えだからって、まさかそんなデタラメはありえない、ネ? そうでしょ? そうではなくて、ここは『死が縁起の悪いものではなくなった』と読みたい。こぼしさまが機嫌よく小山に棲んでいるために、村人は死をごく自然のものと受け入れることができた、つまり死は格別の不幸でも飛びっきりの悲劇でもなかった、それゆえ村人は明るい目をしたまま瞼を閉じて永遠の眠りにつけた、というのが、不肖あたくしの読みでして」

 会長は唇をゆるく閉じた。ほんの少し前歯が覗いた。安田も同じように両唇をふんわり合わせた。会員を見渡してみる。みんなの口もうっすら開いていた。さまようような目つきなのは、頭の中が大忙しだからだろう。会長の「読み」に触発されたのは一目瞭然だった。

 安田も大いに触発された。発動した、という感覚が全身を巡っている。ぼくは、いま、この物語を体験している、そう思い、思うやいなや訂正した。ぼくたちは、いま、この物語を思い思いに体験している。朗読と解釈、ふたつの「読み」で、と付け加えると、ピンポーンと正解音が聞こえるようだ。

 読書はひとりでするものだと思っていたが、そうとは限らないかもしれない。朗読や、感想という名の思い出語りも、安田の中で、物語を味わう手段のひとつに躍りでていた。朗読を聴くと「なにか、ちょっとしたこと」に気づいてハッとする。その「なにか、ちょっとしたこと」が連れてくる手触りや匂いが、自分の記憶と、作中人物のまなざしとを、不思議に結びつける。それは黙読ではスーッと通り過ぎた箇所だったりする。本と自分だけの関係だったところに、別の視線が差し込んで新たな気づきがひらくのだった。朗読を聴くこと、思い出語りに耳を傾けること、そして朗読の練習のための音読、どれも安田の「読み」に彩りをあたえた。どれもその素朴さゆえに、頭でっかちな安田の半可通的「読み」に揺さぶりをかけたのだった。

 最たるものが会長の解釈だった。

 会長の言葉からは「産声を上げた日から一年にひとつずつ歳をとっていった」その年月と、「嬉しければ小躍りし、面白くなければ泣き喚く」幼児の気儘さの両方が感じられた。これって最強の融合なんじゃと思ったとたん、保護者気分でいたことへの恥ずかしさで全身がカッとなった。老人と幼児は違う。寄る年波でなんらかの助けは必要とするかもしれないが、それは未熟ということではない。

「分かった!」

 マンマが声を張り上げた。瞳を輝かせて言う。

「こぼしさまってゆうのはサァ、〈おみとりさん〉のことなんじゃないかナ?」

 おおっ、と一同が色めき立った。それぞれの顔に「大発見」の喜びと興奮が溢れ出る。安田もみんなとお揃いの顔つきをしていたはずだ。なぜなら、こころの中が生き生きしてきたからだ。

 本とか小説とか文学とか、その手の話題を安田はこれまでできるだけ避けてきた。相槌くらいは打つし、一般論として意見を言ったりもするが、作家としての発言を期待されるとのらくらとはぐらかしていた。結果、変な空気にしてしまうのだが、やむをえない。安田としては苦肉の策だった。そうしないと腫瘤が太るのである。作家としてふるまうたびに、垢みたいな臭いやつが溜まっていく感じがする。ただでさえ邪魔なそれが、ふとしたときに疼くのが、安田は本気で厭わしかった。

 だけどもやっぱりこころのどこかで、自分はもの書く者であるという約束が生きていた。どこのだれと交わした取り決めではないのだが、初めて小説を書いたとき、その約束が花粉みたいに飛んできて安田の芯に付着した。

 それからずっと安田はもの書く者なのである。

 実際に書くか書かないかは関係なかった。書いても書かなくても書けなくても、褒められても貶されても無視されても、本を出しても出さなくても出せなくても、もの書く者の約束はどうしてなのか反故にできない。

 本や小説に絡んだ事柄となると、もの書く者の約束が安田を強張らせる。思うことを素直に口にできない。

 課題本で例をあげれば「もちの木」でつくる「とりもち」だ。読む会では会員たちの少年少女時代の思い出語りとなったディテールである。安田は聞き役に徹していたが、内心は大いに波立っていた。

 自分だけのもちの木を見つけたい、と願望する課題本の〈ぼく〉に安田はいたく共感したのだった。もしも安田が〈ぼく〉なら、文章はこう続く。

 ぼくは丁寧にもちの木の皮を剝ぎ、細心の注意を払いつつも大胆な手つきで上等のとりもちをつくり、多くの読者を捕まえる――。

 取りも直さず、「もちの木」はアイディア、「とりもち」は小説である。

 読む会風にいうとこれが安田の「読み」だった。安田ならではの「読み」なのだが、発表するのは気が差した。読む会の「読み」は教科書的な読解とは別物の、テキスト上の語句や文章からの自由連想だ。心の掛け金さえ外せれば堪らなく楽しいのだろうが、やはり安田には少しむつかしかった。会長の「読み」に感銘は受けたものの、それってテキストの読解とは無関係だし、と思ってしまうからだ。

 もっと柔軟に、いっそ奔放になれないものか。そんな思いを巡らせていたら、あ、と口がひらいた。あの手紙の、あの文面が、安田の頭の中に映し出された。


 ほんとうに、あなただけのお話ですか?
 あなたひとりでつくりましたか?
 モン


 一昨年、出版社付けで安田宛に届いた手紙だった。

 春だったと思う。緊急事態宣言が発令されたり、まん防なるものの期間が設けられたりしたあたりだ。

 手紙は編集者により開封され(作家宛の手紙は基本的にそうするらしい)、ただちに安田に連絡が入った。なにしろ剽窃を匂わせる内容だ。いたずらかもしれないが、出版社としては慎重に対処しなくてはならないのだろう。

 その前年の十二月、安田は初めての単行本を上梓した。新人賞受賞から一年後の書籍デビューだった。新卒で就職したブラックすぎるスーパーマーケットのネット事業部を半年で辞め、疲労困憊の自分を癒す一環として小説を書き始めたときから数えて足かけ二年。順調というよりもはや快挙、と思えるほどのスピードだった。

 この手紙に書いてあることに憶えがあるか。ほんとうのところを言ってくれないと後々ちょっとたいへんなことになるかもしれない。そのような趣旨の確認が編集者から安田になされた。編集者は深刻になりすぎないよう声を調整し、安田のリラックスを誘うちいさな笑いをまぶしながら、過去に起きた剽窃事件の要約をさりげなく伝えた。

 安田は編集者の声を聞きながら、スマホの液晶をじっと見ていた。手紙のスキャンがPDFで送られていた。白っぽい紙に細いペンで書いてあった。さらさら書いたような読みやすい文字で、字間のバランスもいい。ちょっと可愛い女の子の慎ましやかな暮らしのVlog、そのテロップのフォントのようである。

「……例えば、心当たり的なものとかあったりします?」

 編集者の声がした。編集者は言い方を変え、何度か同じことを訊いていた。

「ないですね」

 安田は液晶から目を離し、これで最後という声できっぱりと返事した。

「ないんですね」

 編集者も最終確認のトーンで言い、

「ないです」

と安田がうなずき、かかる手紙は「季節の風物詩」で落着した。春になると増えてくる不安定な人のアクションというわけだ。

「ある種の女性ファンの独特過ぎるアプローチかもしれませんけどね」と編集者が冗談っぽく言った。ちょうどその頃発売された女性誌に安田のインタビュー記事が顔写真付きで載っていた。伸びた癖毛の前髪を真ん中で分け、ぎこちなさのあまり不気味な笑顔になった写真だ。あれで女性ファンがつくとは思えないが、編集者は細身で背が高くて小顔だったらイケメン確定ですよ、とエンディングに向かうような軽い笑い声を立てた。はは、と安田もあっさりとした笑い声を返し、ではではと通話を切った。

 液晶に手紙のPDFが残り、安田はまたじっと見た。

 心当たりはひとつもなかった。内容はもちろん差出人のモンなる人物、筆跡、どれにもだ。だが一方でそのどれにも思い当たる節があると思えた。池の泥を浚うように頭の中を探ってみても、具体的にはなにも引っかかってこないのに、きっと、自分の中にそれらしきものが潜んでいる――。そんな直感がか細い音を立てて止まない。

 小説のアイディアの出どころ、そしてその熟成の過程は安田自身にもはっきりしないのだった。

 アイディアはいつもどこからともなく飛来する。旋回し、留まり、安田の中に巣をつくる。その巣にまた別のアイディアが飛んでくる。そうやってアイディアたちが増えていく。運動しながらゆるやかにまとまっていき、卵になる。まだだれも見たことのない卵だ。温め方を間違えなければ新しい物語が孵化する。

 アイディアたちの餌の主な成分は先行作品だ。文芸、映画、コミック、アニメ、伝統芸能などなど、あらゆる表現の既出作品。ゆえにそもそも安田の胸には先行作品への畏れと、これすらパクリになるかもとの怖れと、なんとなくバレたらヤバいという虞が沈殿していた。

 それがモンなる人物からの手紙によって、浮上した。籾殻みたいなものである。うんと軽くてちいさいので掬おうとしても上手に逃げる。逆に静かに手を差し入れるとぷつぷつと張り付いてくる。そうなったらなかなか離れてくれない。激しく手を振っても、水で流そうとしても、くっついたままだ。

 以降、安田は小説を書けなくなった。次作の約束が進行中だった出版数社との連絡も皆途絶え、籾殻みたいだったものは、あらゆる安田の忘れたいことと集まり合って肥え太り、気がつくと腫瘤になっていた。

 手紙の実物は編集者から郵送された。クリーム色の四角い封筒とお揃いらしき無地の便箋。差出人の住所はなく、消印もいやに薄くて地名が読めなかった。


 そうこうするうちに読む会では「〈おみとりさん〉はこぼしさまのマキ(・・)説」が敢然と打ち立てられた。マキ(・・)は、一族という意味らしい。会長の解釈と併せ、めでたく定説となった。

 みんな、熱気で上気した頰を振り立てるようにして口々に「会長、最高」とオリジナル定説の確立をことほぎ、「この歳になってこんなにいい仲間に巡り合えるとは」とうっすら涙ぐんでは「読む会、最高」と乾杯するように言い合った。そうしてまた会長の「読み」の発表から始まる事の次第を臨場感たっぷりに振り返った。

 皆の昂揚は収まる気配がなかった。六節のラウンドが延びに延びている。次の七節の読みは安田だ。安田のきもちはオリジナル定説爆誕の喜びから初の読み披露への緊張に移りかけていた。

 少し前から喉仏らへんの皮を摘んでみたり、控えめに咳払いしてみたり、尻をちょっと浮き上がらせては椅子の位置を直してみたりしていた。いま、左胸に手をあてがい、鼓動を確かめた。ドキドキしてきたようだな、と胸の内で揶揄ってみる。課題本を手元に引き寄せ、七節にざっと目を通す。七節は大事なパートだった。ここに書かれたエピソードが今後この物語を引っ張っていく。

 夏休みの終わり、〈ぼく〉が小川の流れの中を歩いていくと、曲がった先の段々岩に「女の子」が座っていた。おかっぱの頭を俯けて、一心に小川の流れの中を見つめている。

〈ぼく〉がわざと音を立てると、彼女は驚いて立ち上がった。その拍子に赤い運動靴の片方を小川に落としたらしい。責任を感じた〈ぼく〉が探しに行くと、草の根に引っかかっていた赤い運動靴が水に押されて流れ出すのが見えた。

 駆け寄ると、赤い運動靴の中には「小指ほどしかない小さな人が、二、三人のっていて、ぼくに向かって、かわいい手をふって」いたのだが、ようよう摑み上げた赤い運動靴の中は空っぽだった。


 安田の頭の中心に映像が出現した。ごくちいさなもので、双眼鏡の反対側から覗いたようだった。意識を向けたら、みるみる拡大した。少女の横顔だ。前髪を厚くおろしている。うつむいているので睫毛が目を隠していた。黒く濃い睫毛だった。

 ん? 安田は内心の声を鼻に響かせた。まただ、と口が動く。自室で読んでいたときもそうだった。課題本に登場した「女の子」のイメージなのだが、違和感が拭えない。極めてクリアなのだ。

 しかも少女の映像にはそこはかとなく見憶えがあった。安田の脳内ファイルに保存されていたのだろう。ただ、いつ、どこから引っ張ってきたのかは不明だった。だから、リアルの思い出なのか、映画やアニメやネット閲覧中に印象に残ったシーンの切り抜きなのか、見分けがつかなかった。

「ハイ、じゃ次は、エーット、お、安田のやっくんですね」

 会長の声がした。浮き立たせたようにクッキリと聞こえた。安田はなんとなくハッとして目を上げた。見渡すと、みんな、こちらを見ていた。あの盛り上がりはすでに落ち着いたらしい。

「初読みですので」

 シルバニアが音を立てないタイプの拍手をした。

「初体験かい?」

 マンマがシルバニアに聞こえよがしの内緒話をしかけたら、シルバニアもおでこを先にしてマンマに顔を寄せ、手のひらを返して口元を隠し「筆おろしですので」と言い、二人して「やだもー」「それはコッチの台詞ですので」とこづきあってケタケタ笑った。

 下ネタいくんだ、と安田はだいぶ驚いたが、会員たちは特にどうということもなさそうだった。いつものにこやかな表情でシルバニアとマンマを眺めている。ふと蝶ネクタイが安田に顔を傾けた。楽しいですね、という目をして安田にうなずく。ええ、まったく。安田がうなずきを返したら、その場のざわめきがどこかに吸い込まれるように消えた。みんな一斉に課題本に目を落とす。これすなわち読書会の呼吸とでもいうもの。安田は鼻から息を吸い、吐くと同時に読み始めた。


 読み終えると拍手が起こった。思わず安田が目を上げたら、いっぱいの笑顔が並んでいた。皆目を潤ませて、感慨無量というふうである。安田は慌てて目を伏せた。いやいやいや、そこまでの「読み」じゃないだろう。かろうじてつっかえはしなかったけれども、と恐縮していたら、「ハイ!」と会長が声を張った。「安田のやっくんの初読みを祝し、あたくしから」と感想タイムに入る。

「ヤー、マー、若い人の『読み』というのは実にいいですネェ。結成二十年、わが読む会に初めて若者の声が朗々と響いたわけです。ネ? 若者の声のなんと清潔なことでしょう。まだ新品の雨樋みたいにピカピカで、天から降った雨水を滑らかに地上に流す。あたくしたちみたいにサビついて枯れ葉やらなんやらが詰まってる年代モノの雨樋とはまったく違う。普段はほとんど気にしてないのだけれども、こうして安田のやっくんの声を聞くと、その違いがよーく分かるですよ。ネ? 元気でワイワイやってるつもりでも、あたくしたちはネ、ヨボヨボの老いぼれですよ。片足突っ込んでんですよ」

 有る程の菊抛げ入れよ棺の中、と会長は目をつむって一句詠じ、「漱石です」と作者を明かして続けた。

「いまこうしているのは、自分の棺桶に自分の手で花を入れてるようなもんですよ。死出の旅路が寂しくないようにね。道を間違えず、ちゃんと冥土に行けるように」

 ふん、と鼻を鳴らす会長の顔色がまた悪くなっていた。灰色の影がついたようだ。顔だけでなく声にも勢いがなかった。どちらにもいつもの張りと艶が感じられない。さっき盛り返したばかりなのに――。安田は会長から目を逸らした。ちょっと胸が痛い。自分のせいのような気がして、申し訳なさが込み上げる。

「……なにぶん、会長は今年八十八ですので」

 シルバニアがここぞとばかりに蒸し返した。

「あっ、ばっ」

 反射的に出た言葉を、安田はどうにか途中で飲み込んだ。静まり返っていたから、その声もよく響いた。シルバニアが目と口を大きく開け、すぐにどちらも固く閉じた。肩にも力が入っている。これから降りかかってくる暴力――ゲンコか強い叱責――の受けの姿勢に見えた。それがこどもの頃から癖になっているような。

「や、あの、すっ」

 腰を浮かせて謝ろうとしたら、蝶ネクタイの声が被さった。

「有る程の花を自分の手で棺桶に入れとくというのは、まことに結構な考え方とワタクシなどには思えます。会長のご見識には脱帽ですよ」

 マンマも「賛成!」と手を挙げて、

「あたしも前から似たようなこと考えてたよ。あー幸せだナァって思ったときお花が一本増えるようなサァ。あのお花、自分の棺桶に入れとくことにしればいいんだね。したらお花でフッカフカの棺桶になるもね。腑に落ちたよ。会長、いつもそうだけど、今日は特に冴えてんね」

 うんうんうん、としきりにうなずくと、シルバニアが「冥土の土産ですので」と口を出した。まだ小声だったし、幾分遠慮がちな目つきだったが、概ねいつもの調子に戻っていた。安田は美智留ノートに書いてあったシルバニアについてのメモ「本人に悪気はありませんので笑」を思い出した。シルバニアと対面するまでは謎の一文だった。

「あ、分かります、分かります」

 シンちゃんが少し急いた声柄で発した。

「ぼくもね、いまのまちゃえさんの毎日に花が一本でも増えるようにしたいです」

 隣のまちゃえさんのぽってりと厚い手の甲に自分の手を重ねる。まちゃえさんと目と目を合わせ、ねー? というふうに顔を傾けた。まちゃえさんも嬉しそうに顔を傾ける。分かってんのかな……、と安田が不安になるやいなや、まちゃえさんがバァというふうに口を開け、それから言った。

「シンちゃん、棺桶のフタが閉まらなくなるまでお花ちょうだいネェ」

 あー分かってんだ。安田はほっとした。破顔一笑、という熟語通りの笑顔になる。なんとまぁ快いひとときであることよ。真夏の夕暮れ、川面を渡る風に前髪を煽られているようだ。というのは、と自分のきもちを詳しく解説しようとしたら、「あーのーネェ」とまちゃえさんが続けた。

「あたしはネェ、こーんな年寄りなんだけどネェ、自分ではそこまでオバァちゃんじゃないヨーって思ってんだワ。可笑しいッしょ。でもそうなんだワ。でもほんとうに若い人のほんとうの若さを目の当たりにすると、若さって、こんくらいかナと思ってたよりズットズット若いのサァ。あたしとはおてんとさんと番頭さんくらい違うのサァ。アーいいナァ、眩しいナァ、なんもかもーすばらしいナァって感動すんだけど、そのぶんだけ、やっぱしあたしはだいぶな年寄りなんだナァって、コウ、思い知らされた感じになっちゃうのサァ。だけども、だけどもなんだけど、あたしくらいになると、たまに思い知らされるくらいでちょうどいいんだワ。かえってありがたいくらいサァ。でないと死ぬの忘れるもね」

 はーはーはー、とふっくらとしたお腹を揺すってゆっくり笑うと、みんなも同じようにゆっくり笑った。会長も笑っていた。依然として顔色はよくない。それより安田が気になったのは、会長がすっかり枯れた老人の風貌になっている点だった。あれほど漲っていた活力が影をひそめている。やはり体調が悪いのだろう。でもすごく無理して笑っているようには見えないし、病を押して参加しているような決死の空気も感じない。

 高齢者の不調の程度を見極めるのはなかなかに難しいようだった。とにかく注意深くいることだ、と安田は自分に言い聞かせた。ちょっとした変化も見逃さないようにしないと。意気込むというほどではないが、大体そのような心持ちになっていたところ、ついさっき考え浮かんだことを思い出した。なぜ、あのひとときがあんなに快かったのか、ということだ。

 もしかしたらシルバニアの存在により培われたチームプレイなのかもしれない。彼女の天然爆弾を受け流しつつ、被弾者を手当てする、という仕方の自然さである。

 問題の根本解決にはなっていない。する気もない。ひたすら元通りにすること、みんなで楽しくいること、に集中している。それでいいのか、という気もするが、いいんじゃないのか、と肯定したい自分がいて安田の鼓動がひそやかに跳ねた。ここは、たぶん、そういう場なんだ。

 散らかった雰囲気が整頓され、安田の読みによる七節の感想タイムが再開された。会長の次はまちゃえさんだ。

 彼女は「ほんとうに若い人のほんとうの若さを目の当たりにしたような」と最前の言葉を繰り返し、まず安田の「読み」に触れた。それからマスクの紐を片方ゆっくりと外し、白い四角を耳からぶら下げたまま、口をつぼめ、そのあたりにたくさんの皺を寄せ、冷めたコーヒーをひと口飲んだ。またゆっくりと――幾分おぼつかない手つきで――マスクを着け、指をひらき、マスクをそっと押さえた。褪せたクラフト紙みたいな色の手だ。点在する大小のシミが群島のように広がっている。厚ぼったい肩の動きで息を吸ったのが分かった。ふうっと吐き出し、まちゃえさんが語り始めた。

「女の子が出てきたっしょ。あたしはね、その子がじいっと川を見る目つきとか、ターッと立ち去る後ろ姿がクッキリと目に浮かんで仕方ないのサァ。思い切ったようにしてクルッて踵ば返して、カーディガンの裾をひらひらさせて一散に駆けてくんだワ。あ、いや、本にはそんな細かいことは書いてないよ。でも書いてないからって『ない』ことにはならないっしょ。だってこんなに見えるんだから」

 まちゃえさんは自分の目を摑むような手つきをした。よほど鮮明に見える(・・・)ようだ。ぼくと同じだ。安田は思い、安田の「女の子」を頭に浮かべた。

「……マァどうしたって明典が思い出ささるんだけど」

 まちゃえさんがため息をつくように言った。明典さんはまちゃえさんのひとり息子だ。今回の課題本は、彼の愛読書だったということで、まちゃえさんが推薦したものだ。

 その席で、まちゃえさんは明典さんが美智留と同い歳だと言っていた。今年五十一になる、とまちゃえさんが笑顔を広げたら、場の空気がモード切り替えボタンを押したように微妙になった。みんな思い思いの方向に視線を外し、やり過ごそうとしていた。

 そういやあのときは例の「驚異の空気復元力」が発動しなかったな、と気づいた安田はテーブルの下で美智留ノートをめくった。まちゃえさんのページをひらく。「いろいろあるけど、シンちゃんがそばについていてくれるから安心」とだけ書いてあった。当たり前だが、前回終了後に確認したのと同じ文章だった。

「だからホレ、この女の子は美智留さんなのサ。や、年格好はぜんぜん違うよ、違うケレドモ、面影っていうのかネェ、そんなアレが美智留さんと重なるんだワ。したらもうこの子は美智留さんになるのサ。〈ぼく〉は明典なんだからネ。だってサァ、明典と美智留さんはカマド持つって約束してた仲だもの。あたしはチーッとも知らなかったけど、本人たちのあいだではそういう約束がすっかりできてたのサァ」

 衣服を剝ぎ取っていくような声だった。固まりかけたふにゃふにゃしたものが露出しそうな気配がして、剣呑な空気感が濃くなる。シンちゃんは優しさを一目盛上げたような微笑を浮かべ、まちゃえさんの背中をさすりながらうなずいているし、ほかの面々は妙に行儀よく拝聴している体である。そしてそれとは別に、まちゃえさんの発言に出た言葉が安田は気になっていた。蝶ネクタイに小声で訊いてみる。

カマド持つ(・・・・・)ってなんですか?」

「所帯を持つ、結婚する」

「ええっ」

「しっ」

 安田の驚きを蝶ネクタイはやや厳しめに制した。なにも言うなという目をして安田を見る。仔細ありげな下がり眉をしてみせて、なにやら言い含めているようなのだが、安田はすまなそうに首をかしげた。意味分かんないんですけど、と腹の中でつぶやく。

 美智留がまちゃえさんの息子さんと結婚の約束をしていた、というのがなかなかの衝撃だった。

 考えてみると若かりし頃の美智留にロマンスのひとつやふたつあっても不思議ではない。大らかで飾り気がなくて見切りが早くて気丈夫で若干粗雑ないわゆる道産子女子の典型みたいな美智留に安田は憧れつつもちょっぴり気後れを感じるが、そういうタイプを好む人たちもいるだろう。

 安田が自分でも意外なほど動揺したのは、おそらく、叔母の恋バナを初めて聞いたせいに違いない。年長の親族の恋愛を想定したことがなかったのだ。それが将来の約束までした人があったとは。しかもなんとお相手はまちゃえさんの息子さんときた。安田の頰が自然と緩む。叔母のとっておきの青春秘話を知ったように思った。依然としてまちゃえさんが語っている。

「あたしがそれを、エット、ホレ、明典に言い交わした人があったと知ったのは、通夜の晩だったのサァ。お棺のネ、ちいちゃい窓から明典の顔バ見ながら美智留さんが、ボロボロー、ボロボロー、涙をこぼしながら明典とのことを明典に言って聞かせるようにして喋ったのサァ……。それが美智留さんに会った最初だったんだけど、あたしはネ、すぐに分かったよ。アァこの娘さんは明典の好きな人だ、そしてぇ、この娘さんも明典が大好きなんだってネェ」

 安田はゆっくりと蝶ネクタイに顔を向けた。蝶ネクタイはうつむき、熱心にボケ防止の指回し運動をしていたが、視線に気づいて安田に目をやった。ね? と言うふうにうなずき、指回し運動に戻る。や、無理っす。安田は蝶ネクタイの反対側に視線を振って、頰に手をあてた。明典さんが今年五十一っていうのは、生きていたらってことなんですかね、と胸の内で、だれにともなく問いかけた。まちゃえさんの語りが続く。

「そんなわけで美智留さんは別の人と結婚したんだワ。ウン、しょうがないのサ。しょうがないことってあるんだワ。だれも美智留さんを責められない。明典がめんこのちょんこ(・・・・・・・・)のあたしだってなんもかも美智留さんにかっつける(・・・・・)なんてできないサア。美智留さんのせつないきもちがよっっく分かるからネェ……。明典が悪いのサァ。フラッと外国放浪の旅に出て、いつまでたっても戻らないんだもの。手紙いっぽん寄越さないんだからネェ、あのたくらんけ(・・・・・)

 安田は唇を内側に巻き込むようにして口を閉じた。情報が渋滞している、というのが率直な感想で、次にきたのが、明典さんはさっき亡くなったのでは? だった。で、どっちだよ、が最終的な疑問だ。コンコンコン。蝶ネクタイが指でテーブルを叩き、安田に耳打ちする。

めんこのちょんこ(・・・・・・・・)は可愛くて仕方ない、かっつける(・・・・・)は他人のせいにする、あとは、えーと、あ、たくらんけ(・・・・・)はこの大バカ者めが! という意味です」

「どうも」

「いえ」

 安田と蝶ネクタイは頭を下げ合い、同時に頭を上げて、互いの目を見た。まちゃえさんの語りが続いている。

「したけど美智留さんはやっぱし明典が忘れられなくて、旦那さんとうまくいかなくなって、とうとう別れてしまったんだワ。あたしも親として美智留さんにはほんっっとに気の毒かけたと思ってるヨ、思ってるけど、旦那さんからガッポリもらった慰謝料で美智留さんがこの喫茶店を始めてサ、読む会をやらせてくれてサ、おかげであたしはこーんなにすばらしい仲間とわいわい楽しくやらせてもらってるって思うと、しみじみ、明典の結んでくれたご縁なんだナァ、ありがたいナァって思わさるんだワ」

 以上です、と、まちゃえさんは目の下を濡らしている涙を拭った。クチャクチャと目を瞬くと、目頭で目やにが盛り上がった。口のはしにはよだれが溜まっている。シンちゃんがティッシュでまちゃえさんの目元を軽く押さえ、クルッと裏返して口元を拭いた。

 蝶ネクタイが一回視線をまちゃえさんに向け、安田に囁いた。

「お歳を召してらっしゃるのでね」

 安田がうなずくと、蝶ネクタイは上半身を寄せてきた。いっそうの低声で耳打ちする。

「ごくたまにですが混乱されるんです。とりわけ御子息のこととなると……」

 フェードアウトするように元の体勢に戻ろうとするので、安田は蝶ネクタイの肘を軽く摑んだ。早口で訊く。

「どっちなんですか? その、息子さんの生死というか」

「亡くなられてます」

「で、どうなんですか? ウチの叔母とは」

「ワタクシの口からはなんとも……」

 蝶ネクタイはやや顎を上げた。浅く首を傾け、思案のようすをしてから、言った。

「全部が全部ほんとうではないでしょうが、かといって全部が全部まちゃえさんの思い込みとは言えないのでは、というくらいのところで……」

 安田は深く首肯した。まちゃえさんの語りには「事実」――例えばさっき聞いたなかでは、美智留の結婚、離婚、慰謝料ガッポリで喫茶店オープン、が安田の知る限りでは現実の出来事――がちりばめられているのだろう。

「まちゃえさんの中ではそうなってるんだナァ、ト。それでいいんじゃないかナァ、ト、ワタクシたちは……」

 と蝶ネクタイは安田から上半身をゆっくりと遠ざけた。

 そういうことか。安田はなんとなしにマスクを引き上げた。引き上げすぎてちょっと下げる。作り話ともいえない作り話ということか。

 それなら安田にも憶えがあった。端的な例が小説を書いているときなのだが、知り合いにエピソードトークを披露する際にもしばしば感じる。いわゆる「盛る」と言われるが、語るにせよ書くにせよ、ある程度の誇張はつきものだと安田は思う。読む会会員ふうに言うと盛らさるのだ。自然とそうなる。


 八節は最初に戻って会長、九節はまちゃえさんの読みだったが、物足りないほどあっさりと終わった。みんな、もう、飽きたようだった。しきりに時計を気にしたり、喫茶シトロンの店内をとっくり見回したりしていたが、やがてオヤツに集中していく。どれにしようかナ、という顔でテーブルに並んだお菓子からひとつ選び、包み紙を剝き、口に入れ、ハッ、美味しい! という顔をした。どの動作も音を立てないよう注意していた。シーッと言いながら動く人もいる。

 会長が眼鏡を外して、テーブルに置いた。ペーパーをガサガサさせてから言った。

「以上で本日ぶんの通常のアレは終了です。お疲れさまでした。続きまして、わが読む会のネ、エット、読書の秋に送るビッグエベント、二十周年記念事業の話し合いです。責任者の安田のやっくんから具体案を発表してもらいましょうか」

 時間がないから簡潔に、と付け加え、安田に微笑みかけた。口を横に引っ張って、目を細める式の微笑だった。唇は乾いていたし、目の周りは黒ずんでいた。疲労が濃いらしく、早く帰りたそうだ。

「はい」

 安田はスマホのメモをひらいた。前回の取り決めでは全員それぞれ具体案をまとめてくることになっていたのに、と思わないでもなかったが、糺す気はまったくない。予想はついていた。

「まず記念冊子です。内容は、会長挨拶、読む会の年表、各会員の自己紹介にしようかなと。会長挨拶は会長に、自己紹介はみなさん自身に書いていただくことになります。短いエッセイ風のものが楽しいのでは、と思います。みなさんの写真もつけるとより記念品らしくなるかと」

 会員たちがざわつき出した。顔つきから察するに、やっくんがこんなに具体的なことを言い出すと思わなかったというふうで、俄然「ホントにやるんだ」と実感が湧いたようだった。安田は書店から持ってきた専門学校案内を皆に見せ、

「これ、中綴じ製本っていうんですけど、こういうのでいいと思うんですよね。これでしたら中綴じ用のホチキスと紙を買えば、自作できます」

「えーっ」

 そんなー、とマンマが第一声を上げた。ガッカリしすぎて怒りに震えた顔をしている。

「せっかくの記念品なのに、そんな手内職みたいな真似するなんて!」

 ねぇ? とシルバニアに視線を送ると、シルバニアは憤然と腕を組んだ。

「もってのほか!」

 厳しく言い放つと、「そんなこどもの工作みたいなもの、恥ずかしくて親類やお友だちに差し上げられませんので」と眉根を寄せた。

「こどもの工作みたいなものなら、葬式の引出物にもできないネェ」

 肩を落とすまちゃえさんをシンちゃんが「まだ決まったわけじゃないよ」と慰めるのを見た蝶ネクタイが、

「やっくんさんがワタクシたちの懐具合を案じてくださるのはありがたいんですが、なんといっても二十周年ですから、ワタクシたちとしては金に糸目はつけない、ト、いう心意気でいるんですよ」

「おっしゃる通り!」と会長が力強く呼応する。

「そんな安っぽいものがわが坂の途中で本を読む会の二十周年記念品とは情けない!」

 テーブルを拳で叩き、無念そうに唇を嚙む。いまにも涙が落ちそうな風情だ。会長だけでなく、皆、目を潤ませていた。彼らにとって安田の提案は掛け値なしに意想外だったようだ。

「分かりました」

 すみません、と安田は頭を下げた。「どうも学生気分が抜けなくて」と鼻の下をこすり、声色を改める。

「記念誌ですものね。特別感出したい感じですよね。業者に頼むことにしましょう。次回までにいくつかピックアップしておきます。……部数は、んー、百くらいですかね」

「チョットやっくん、なに言ってんのサ」

 マンマが呆れ声で手招きの身振りをした。

「ひとり百部は必要ですので」

 少なく見積もっても、とシルバニアがこほん、と咳払いをした。

「まぁ千部も刷れば、みんな安心なんじゃないですか?」

 もう少し要りますかしら、と蝶ネクタイが思案顔で独白した。

「あの人にやって、この人にやらないというわけにはいきませんしネェ」

 会長も数を数えるように人差し指を動かし、「ひとまず二千で」と安田に言った。安田はうなずき、スマホにメモした。高齢者の交友関係の広さ舐めんなよ、と言われたような気がする。できるだけ多くの人にわれらが誇る読む会の記念誌を、お目汚しではございますがどうぞお受け取りください、と、謙遜しながらも内心は鼻高々で配りたいきもちをどうして分かってくれないのサ、とむしゃぶりつかれたような気もして、胸がツンと痛くなった。

「思い出のアルバムもオマケにつくといいナ」「これを機に思い切って写真屋さんで写真撮ってもらうのもいいネェ」「遺影にもなるしネ」「表紙は布張りがいいんでない?」「抜群に高級ですので」「したら函もつけてみっかい?」などガヤガヤしているなか、安田は「引き続きまして」と声を張った。

「公開読書会についてですが、十月の例会を公開にするというのではどうでしょうか。ただし、時間は、なるべくたくさんの方に来ていただけるよう午後六時スタート、午後八時終了とする。つまり、十月第一金曜の夕方、ここ喫茶シトロンで開催というわけです。ぼくらの読書会のようすをライブ形式でご覧いただくイベントですから、感想戦がシーンとしちゃうと締まらないと思うんですよね。で、ヤラセじゃないですけど、ここはひとつデモンストレーションと捉えていただき、これまで読んだ本の中で今日みたいに話し合いが盛り上がったところをもう一度お客さんの前でおこなう、ってことでどうでしょうか?」

 一同を見渡すと皆思い思いの角度で首を傾げていた。だれか最初のひとりが「サンセーイ」と手を挙げれば一斉にそちらになびく手応えを安田は感じた。正直、そこを狙っての長めのプレゼンだった。区切って説明すると紛糾、脱線しがちとついさっき確信したのだ。そうなったら安田は彼らの言いなりだ。記念誌の一件を安田はまだ引きずっていた。みんなのきもちはよく分かるし、尊重したいと思う。だから高級仕様にする費用は惜しくない。問題は部数だ。いくらなんでも二千部は多すぎる。とんでもない無駄遣いだ、と若い安田は思うのだった。

「やっくんがせっかくアレコレ考えてきてくれたのに文句つけるみたいで申し訳ないんだけどサァ」

 マンマが頭でノレンをくぐるような動きをした。

「夜だと眠くなっちゃう人がいるんだよねー」

 まちゃえさんをチラ見して、

「あたしたちもウトウトするかもしんないし。やれ打ち上げだぁカラオケだぁで家に帰るのは夜中になっちゃうし」

 ふふ、と笑って、オッスの身振りで安田に軽く謝った。

「あ、そっか」

 そうですね、と安田は短く速く何度もうなずいた。つと目を上げて、まだまだだなー、と胸の内で言う。すかさずマンマが勢いづいたように捲し立てた。

「それに夜だと、お通夜があるかもしんないっしょ。そんな付き合いなくても回覧板回ってきたらこっちだって顔のひとつも出してやらないばならないもね!」

 シルバニアが全面同意、という顔つきで深くうなずいてから、言う。

「日中の開催ですと土日などの休日がいいのでは? 平日の昼間はいらっしゃれる方が限られますので。どうせなら大勢の方に見ていただきたいので。なぜならば」

 読む会初の発表会ですので、の声が涙に濡れた。

「一世一代の晴れ舞台です」

 蝶ネクタイも声を詰まらせた。

「集大成!」

 会長が振り絞るように大音声を上げると、

「市民会館でやりたいネェ」

 まちゃえさんが夢の途中みたいな声で言った。

「あっこで明典のオルガン発表会があったのサァ」

 あった、あった、とシンちゃんは懐かしそうに目を細めた。

「白いシャツに紺色の半ズボンはいてネ」

「シャツに紺色の紐、結んでな」

「あの子なに弾いたんだっけかい?」

「サァて、なんだったかナァ」

 シンちゃんは首をかしげた。「大した上手に弾けたんだけどナァ」と独り言のようにつぶやくと、「上手だった、上手だった」とまちゃえさんが手を叩いた。

 安田は二人に目をやった。知らず知らずのうちに見つめていた。不意に焦点が後方に移動する。安田の視線が喫茶シトロンの店内をぐるりと巡り、玄関横の本棚で止まった。赤っぽい濃い茶色の幅九十センチのが二本。美智留の愛読書が詰め込まれている。

 さまざまな色合いの古寂びた背表紙を目で追う安田の頭の中に、スーイと茶色い鳥が横切った。思わず目を上げたが、捉えられなかった。ステンドグラスのペンダントライトが柔らかな明かりを放っている。漆喰の壁、鴨居、欄間は薄暗がりの中に沈んでいる。

 ずいぶん前にもこうやって見上げたような気がした。うつむいた女の子の横顔がぽっかりと浮かび上がる。ぼくはリアルであの子を知っている。きっとそうだと安田は思った。


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