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承認欲求に駆動される作家の破壊的情熱が迸る! 村山由佳さん『PRIZE―プライズ―』冒頭40ページをどどんと公開

ジャンル : #小説

PRIZE―プライズ―

村山由佳

PRIZE―プライズ―

村山由佳

くわしく
見る

 村山由佳さんの新刊『PRIZE―プライズ―』(2025年1月8日発売)は、作家の文学賞に懸ける思いに踏み込むスリリングなお仕事小説です。作家と編集者、それぞれのリアルな世界が見えてくる冒頭40ページを、どうぞお楽しみください。


1

 ざわめくフロアに、また同じアナウンスが流れ始めた。

「本日のご来店・誠にありがとうございます」

 天井に埋め込まれたスピーカーから、若い女性書店員による案内が訥々とつとつと響く。

「このあと・午後五時より・八階のイベントスペースにおきまして・天羽あもう・カイン先生の・サイン会が・開催されます。本日・サインの対象となります書籍は・七月に『南十字みなみじゆうじ書房』より刊行され・早くも話題沸騰中の・『月のなまえ』・です。ご購入いただきましたお客様・先着百名様に・サイン会整理券を・お配りしています。この機会に・ぜひご参加ください」

 担当編集者の緒沢千紘おざわちひろは、思わず息を吐いた。

(よかった。今度はつっかえなかった)

 聞いているこちらのほうが緊張する。なんでもここ一週間ほど放送を担当していた女性が今日になって病欠、交代したのが今の彼女らしい。一度など、

「天羽サイン先生のカイン会が……、えっ、あっ」

 と流れてきてきもが冷えた。当の作家が到着する前でぎりぎり助かった。

 百貨店の八階、上りエスカレーターを降りてすぐのイベントスペースに、書店のロゴの入った大きな衝立ついたてえられている。手前には白いクロスのかかった長テーブルとパイプ椅子が置かれ、上部には、

『天羽カイン先生 新刊発売記念サイン会』

 と大書された横長の看板がかかっている。

 そのすぐ下に、うれいを帯びた面持ちでこちらを見つめる著者の近影と、プロフィール紹介のパネルも掲げられ、来歴や主な著作などが列記されていた。

 ライトノベル作家の登竜門〈サザンクロス新人賞〉において、史上初めて最優秀賞と読者賞をダブル受賞してデビュー。三年後には初の一般小説を上梓じようしし、同作品でその年の〈本屋大賞〉を受賞。以来絶え間なくベストセラーを生み出し続け、ドラマ化・映画化作品も多数。現在は長野県軽井沢かるいざわに暮らす――。

 生年月日は本人の意向で公表していないが、近しい編集者だけは、彼女が今年四十八歳になることを知っている。デビューから干支がひとめぐりし、近年は賞レースに絡むことも増えた。ここ五年以内に限っても、吉川英治よしかわえいじ文学新人賞、山本周五郎やまもとしゆうごろう賞、大藪春彦おおやぶはるひこ賞、それに直木なおき賞にも二度ノミネートされている。

 全国の書店員から選ばれる本屋大賞においては毎回候補に挙がるほどの常連なのに、プロの作家が選考委員を務める名のある文学賞が、もう一歩というところでれない。「無冠の帝王」などという呼び名を当人がどう感じているかは想像がつくが、いずれにせよ今現在、最も脂の乗った作家の一人であるのは間違いない。

 千紘は、長テーブルの端に飾られた盛り花を見つめた。濃いピンクの薔薇ばらをメインに白いカーネーションやガーベラを組み合わせたアレンジが華やかで、作家のイメージにぴったりだ。本人の顔立ちはどちらかというときつくて寂しげで、いわゆる〈雰囲気のある〉タイプなのだが、堂々としたふるまいのおかげで女王然として見える。たぶん世間からのイメージとしては陰よりも陽のほうだろう。

 その他、椅子席の右手に置かれたトレイには当人指定の銀ペンが五本用意され、さらにそのそばに、ユーカリオイルを一滴らしたおしぼりと、コバルトブルーのペットボトルに入った〈ソラン・デ・カブラス〉のミネラルウォーターと……。

「あのう、大丈夫っスよね」

 不安げな声に目をあげれば、この書店を担当する販売部の吉田よしだだった。針金ハンガーにスーツを着せかけたような身体からだが今日はなおさら頼りなく見える。

「え、何が?」

「大丈夫っスよね、今日の集客」

 入社して二年以上たつくせに、そして歳は三つしか違わないのに、新入社員当時の教育係だった千紘に対していちいち判断をゆだねてくる感じが苛立いらだたしい。ふと意地悪な気持ちになり、

「さあ、どうだろねえ」

 千紘は言った。

「ちょ、頼みますよ緒沢さぁん。できるだけのことはしたんですから」

「わかってるよ。でも結果出せなきゃ意味ないでしょ」

「そうですけどさあ」

 腕時計をのぞけば、四時二十分。五時までまだ間があるのに、エスカレーター脇にはすでにけっこうな長さの列ができている。風が通らず蒸すのだろう、手にした扇子やチラシなどで顔をあおいでいる姿を見ると、この残暑厳しいさなかにわざわざ足を運んでくれただけでおがみたい気持ちになる。

 吉田をそこに残し、千紘は上階の喫茶店へとって返した。奥の個室のドアをノックし、中からのいらえを待って開けると、作家は狭いテーブルに自著を積み上げ、書店用に五十冊のサイン本を作っているところだった。ふとじしの副店長が向かいに座り、本を開いては差し出している。

 もう一人の担当である藤崎新ふじさきあらたの姿が見えない。まさか二人きりで作業させていたのだろうか。強めに効かせた冷房のせいばかりでなく、背中がすーっと冷えてゆく。

 と、

「新くん今、例の新人作家さんを迎えに下りたところ」

 天羽カインが、肩までの髪を耳にかけながら言った。

「そうでしたか。すみません」

「いいけど、私のサイン会なんか見学して、ほんとに勉強になるのかなあ」

「なりますよ、もちろん。天羽さんのファン対応は神がかってますから」

「そうなの? 新くんもさっき同じようなこと言ってたけど」

 千紘は作家の左側に立ち、ちょうどサインを終えた一冊を横合いから引き取った。

 二年先輩の藤崎が文芸単行本の担当で、小説誌「南十字」編集部所属の千紘は連載の担当だ。この個室にはつい先ほどまで、文芸の役員や編集長をはじめ六名ほどが顔を揃えてひしめき合っていたのだが、

〈酸素が薄いんですけど〉

 作家に冗談とも何とも判別のつきかねる真顔で言われ、退出していった。イベントの間はフロアのどこかに待機して見守り、終了後にまた挨拶あいさつに来ることにしたようだ。

 狭いことは狭いけれども、窓からの眺望のおかげで圧迫感はない。そもそも、こうして控え室が用意されているだけありがたいのだった。商業ビルのテナント書店には通常、ごく小さな会議室さえないことが多く、作家を伴っての挨拶回りの際など、恐縮しきりの店長にバックヤードの片隅、参考書やコミックスの在庫が天井近くまで積み上げられた倉庫のような場所へ案内されたり、事務所の誰かのデスクの上でサインすることもあるほどだ。こちらもわかっていて訪ねるわけだから文句はない。

「お客さんたち、もう大勢並んでらっしゃいましたよ」

 千紘の報告に、

「そう、よかった」ふふ、と作家が微笑ほほえんだ。「こういうイベントばかりは何回やってもドキドキするよね」

「またまたそんな」

「いやほんとに。だって、ねえ? 前もって整理券がいくらさばけたからって、当日来てくれる保証はどこにもありませんものねえ?」

 水を向けられた副店長が、

「まあ確かにそうですね」

 と、正直過ぎる答えを返す。

「でも、」千紘は急いで割って入った。「これは書店さん皆さん驚かれるんですけど、天羽さんの場合、整理券の回収率がダントツなんですよ。百五十枚配って、当日一枚残らず回収したこともあったくらいで」

「え、それは凄いな」

「百パーセントはなかなか聞いたことないですよね」

「ちなみに、どこでした?」

「〈ダリアブックス〉みなとみらい店さんなんですけど」

「横浜! そりゃますます凄い」

 地方ならばまだしも、読者の多くがイベント慣れした東京近郊で、前もって整理券を受け取った全員が当日も並びに来るというのはたしかに珍しい。

 頭上で交わされるやり取りをよそに、天羽カインは着々とサインを進めている。今日の装いは、新刊の装幀に合わせたミッドナイトブルーのタフタ地のワンピースに、三日月をかたどったゴールドのネックレス。そのどちらもが、彼女の青白いような肌をなおさら白く見せている。左手にシンプルなマリッジリング、人差し指には大ぶりのクリスタルの指輪。完璧に調ととのえられた爪は、直前にネイルサロンでケアしたのだろう。サインの際にもっとも見られるのは手元だ。

 本が崩れないよう五冊ずつ互い違いに積んだ書籍の山を、丁寧にカートへ戻してゆく。予定していた五十冊が揃ったところで、副店長が大きな息をついた。

「いやあ、お疲れさまでした」

 と、ノックが響いた。藤崎新が顔を覗かせ、するりと入ってくる。

「すみません天羽さん、ひとつご相談が」

「なに?」

「今日の今日になって本を購入していくお客さんが、予想以上に増えてるようなんです。それで書店さんから、整理券をあと二十枚くらい増やしてもかまわないでしょうか、とのことなんですが」

「いいよ」

 即答だった。

「三十枚でも五十枚でも、この際だもの、上限なんかもうけなくていいよ」

「えっ、そんな。よろしいんですか」

 と副店長。

「もちろん。お客さんがいちばんですから。なんなら整理券なしの飛び込みだって、列の後ろにさえ並んでもらえるなら私は全然」

 そしてふいにふり返った。

「千紘ちゃん、時間まだあるでしょ?」

「はい、あと三十分足らずですが」

「下の吉田くんに言って、お店にある私の本、他社のでもかまわないから運んで来させてよ。あるだけサインするよ」

 一瞬、千紘と藤崎の視線が交叉こうさした。

 副店長が、いやいや、そこまでして頂いては、と慌てる。

「いいんですよ。そちらのご迷惑にさえならなければですけど」

「まさかそんな。え、そうですか、じゃあ、ほんとにお言葉に甘えて……」

 恐縮しながらも副店長がスマホでスタッフに連絡を取り始めたのを見て、千紘も藤崎もゆっくり息を吐き出した。

「そういえば新くん、新人さんはどうしたの?」

 天羽カインがく。自分の担当編集者のことは基本的に下の名前で呼ぶのが彼女の流儀だ。

「とりあえず会場のほうに待機してもらってます」

「なんだ。ここへ連れてくるのかと思ってたのに」

「お邪魔ですし、終わった後に改めてご挨拶させて頂ければと」

 ふうん、と鼻を鳴らす。

「千紘ちゃん、お客さんはどんな感じ? 先頭はまたいつもの面子メンツ?」

「ですね。十人目ぐらいまでは親衛隊の人たちでした」

「え、何の話です?」通話を終えた副店長が怪訝けげんな顔をする。「親衛隊?」

「僕らが勝手にそう呼ばせてもらってるだけなんですけどもね」と、藤崎。「すごく熱心な人たちなんですよ。どうやらオフ会の交流もあるらしくて、天羽さんのイベントの時は必ず誘い合って来て下さるんです。開店前から花を持って並んだりとか」

「へーえ、さすが根強いファンがいらっしゃる。それに、女性作家の方であれだけ男性読者が多いっていうのも珍しいんじゃないですかね」

 天羽カインが微笑んだ。「そうね、よく言われます」

「でしょう。ふつう女性の作家さんの読者は八割以上が女性って印象ですけど、先生は半々くらいですもんね。やっぱあれですよ。男が読んでも、どうしてここまで男性心理がわかるんだろうって、この人ほんとは男なんじゃないかって思うくらいですもん」

 ずいぶん饒舌じようぜつな副店長だ。

「そんなの、私に限ったことじゃないですよ」と、天羽カインは言った。「女性の作家なんて、中身はみんな男だと思うけど」

 そこへ、カートに積まれた本が二十冊ばかり届けられた。複数の出版社の著作が入り混じり、中には文庫本もある。

 副店長と持ち場を代わった藤崎が本を開き、天羽カインが見返しに署名をしては左へ滑らせ、千紘が四切りの半紙を挟んでゆく。閉じてもインクがつかないようにするためだが、上に少しだけはみ出させることで〈サイン本です〉という目印にもなる。

 他社から出た本であろうと、どれもが作家の産み落とした大切な子どもたちだ。むろん担当者はすべての著作に目を通している。

 今日、この店にまとまった数の在庫があってほんとうによかった、と千紘は思った。天羽カインが全部持ってくるよう言った時は、ちょっとしかなかったらどうしようと思って心臓がヒュッとなった。

 書店にもそれぞれ事情がある。在庫をよけいに抱えたくない店にとっては、必ず売れるとわかっている本でない限り、サインなどむしろ迷惑なのだ。著者サイン本は基本的に版元への返品不可・書店側の買取となるので、作家本人が善意で申し出ても、場合によっては単行本の本体でなくカバーを折り返したソデ部分に書いてくれと言われたりする。売れなかった時は外側だけがして捨て、カバー汚損本としての返品が可能となるからだ。

 それが、天羽カインともなれば、書店側も大喜びで約七十冊――。この店だけではもったいないと、系列店舗にも少しずつ配られるのかもしれない。

 藤崎が用意周到に持ってきていた黒い筆ペンと三菱みつびしマーカーの金と銀のペンを、各作品の見返しの色に合わせて持ち替えていた作家が、おしまいの一冊を書き終えて千紘の前へ滑らせる。

「お疲れさまでしたー!」

 副店長含め、三人の声が揃った。

「せめてちょっとでもお休みになってください。紅茶のおかわりは?」

「欲しい。すぐ来るかな」

「急いでもらいますね」

 もうあと十分後に迫ったサイン会では、署名のほかに〈為書ためがき〉といって購入者の名前を入れ、場合によっては日付も書くことになる。時には、本を贈りたい誰かの名前を所望される場合もある。

 入社してすぐ今の編集部に配属されて早五年、千紘はけっこうな数のサイン会を見てきた。人当たりの柔らかい作家もいれば、終始無言を貫く強面こわもての作家もいるが、皆それぞれに〈らしい〉イベントで、間近にファンの熱い想いを感じられるのが嬉しかった。

 そんな中でも、天羽カインのサイン会ばかりはちょっと特別なのだ。冒頭には必ずマイクを持っての短いスピーチがあり、そのあと二時間にもわたって初対面の相手とよどみなく話しながら、手だけは名前や日付を間違えずに書き続ける。書き損じはめったとない。目を見交わして言葉を交わし、一緒に写真など撮ってもらったファンはもれなく、それまで以上に彼女のことを大好きになって帰ってゆく。当日のSNSにアップされた感想を拾っても、ネガティヴな発言など目にしたためしがない。

「先生の読者さんは、熱心だけどマナーがきちんとしていらっしゃるから」と、副店長が言う。「こちらも準備のし甲斐がありますよ」

「ということは、きちんとしてないお客さんもいるわけなのね」

「まあ、中にはスタッフに乱暴な口をきく人とか、極端なワガママを言うとか、待ち時間が長過ぎるって怒り出す人なんかもいますからね。作家さんの作風によってもファン層はいろいろですし。あ、そういえば前に馳川周はせがわしゆう先生のサイン会で、刑務所の蔵書をかかえて並んだ人がいた、なんて話を聞きましたけど、あれほんとなのかなあ」

「刑務所? つまりその人、出るとき勝手に持ってきちゃったってこと?」

 天羽カインがおかしそうに笑いだし、顔を振り向ける。

「あなたたち知ってる? その話」

 千紘が答えた。

「聞いたことはありますね」

「どうせ都市伝説の類いだろうけど、よくできてるわあ。あの馳川さんだといかにもありそうだからおっかしいよね」

 馳川周の作品には裏社会を扱った骨太なノワールが多いとあって、ファンの中にはたまに正真正銘のホンモノもいる。そういう人物ほどサイン会の列に並ぶと礼儀正しく、作家本人の前へ出たとたん恐縮して口を真一文字に結び、最後に握手してもらうと感激のあまり目の縁が真っ赤になっている……というような、まことによくできた、いかにもありがちな噂――は、しかしたいがい本当の話なのだった。

 塀の中から出てきたばかりなのを自己申告した男が、刑務所の蔵書印のされた代表作を差し出した時、馳川氏がこんこんと説教をしたのを千紘は知っている。なぜなら、その時両側に立っていたのは藤崎新と千紘だったからだ。

 けれどここでは言わない。他の作家の噂を広めるようなことをすれば、天羽カインに何を言われるか……。自分の秘密もそうやってあちこちでべらべら喋っているのだろうなどと勘ぐられては目も当てられない。

 またドアがノックされ、吉田の顔が覗いた。

「先生、そろそろよろしくお願いします」

「あら、もうそんな時間?」

 衣擦きぬずれの音とともに立ち上がった作家が、タフタのワンピースのすそに寄ったしわを払うようにして直し、千紘をふり返った。

「ずいぶんぎりぎりみたいだけど、これからお手洗いに行ってる暇あるかしらね」

 口から心臓が出そうになる。

「す、すみません! うっかりしてました」

 早くご案内すべきでしたのに私の気が利かなくて……。

 狼狽うろたえる千紘に、作家は、無言の微笑で応えた。

 

 終了後の食事会はいつものことだが、

「いいじゃないですか、今日はさんざんお世話になったんですし」

 まさか主役自ら、店長と副店長、文芸の売り場スタッフまで誘うとは思わなかった。

「いえいえ、私どもは」

「人数増えたって全然問題ないですよ。個室で中華だそうだから」

 ね、と千紘を見る。当然これくらいのことは前もって計算に入れてるよね、という笑顔だ。

「いえ、ほんとうにお気持ちだけで。まだ仕事も残っていますので」

 遠慮する三人を天羽カインは執拗しつように誘ったが、それより強く固辞されてとうとう引き下がった。

「そうですか、残念。じゃあ次の機会にはきっと」

 隣で一緒に微笑みながら、どんなにほっとしたかしれない。個室で中華、なるほど円卓だけに詰めれば座れるかもしれないが、名だたる高級店でいちばん高いコースを人数分、ひと月近くも前から予約してある。そう簡単に変更はきかない。

「だったらあの新人さんを誘ってあげればよかったね」

 店まで移動するタクシーの中で、天羽カインは言った。自分が無理を言っているとは微塵みじんも思っていない。あくまで良かれとの気持ちからなのだ。だから困る。

「彼女、感激してましたよ」

 助手席に座った藤崎が、少しだけ首をひねるようにして言う。

「そう?」

「将来のための勉強になったらいいと思って、まずはいちばんのプロフェッショナルのサイン会を見せたわけですけど、あんな神対応は自分にはとうてい無理だって、ちょっと自信なくしてました」

「逆効果だったってことじゃないの」

「いやいや、そんなことはないです。彼女にとってはなんたって憧れの大先輩ですから、モチベーションは上がりまくりでしょう。もっと厳しい感じの人かと思ってたらしくて、それが会ってみたらすごく気さくで優しくて、いっぱい話しかけていただきました、どうしよう今夜は眠れないかも、って」

「へえ。それならよかった」

「でも、ちゃんとくぎ刺しときましたから」

「何て」

「『ああ見えて、仕事となったらおそろしく厳しい人なんだぞ』って」

「よけいなこと言わなくていい」

「彼女、そこはちゃんとわかってましたよ」

「ふうん。賢い子なんだ」

「そうですね」

「じゃあ新くん、きっちり面倒見てあげなくちゃね。さくっと大きな賞が獲れるように」

「――がんばります」

 生きた心地がしないままようやくいちの店に着くと、文芸担当の原田はらだ専務と小説誌「南十字」編集長の佐藤さとう、そして宣伝部と販売部からそれぞれ部長の上野うえの山本やまもとが先に来て待っていた。

 部長たちもぜひ一緒にと言ったのは作家本人だ。千紘が連絡し、サイン会の晩は体を空けておいてほしいと頼んだ時、二人ともが何とも形容しがたいうなり声を発した。

「先生、どうもお疲れさまでした!」

「いやあ、いつもにも増して盛況でしたね」

 やけに明るく青島チンタオビールで乾杯した後は、天羽カインの好きな紹興酒の古酒をオーダーする。酒にあまり強くない千紘が桂花陳酒けいかちんしゆのソーダ割りを頼むと、めずらしく藤崎新もそれにならった。

「あらなに、二人ともおとなしいじゃない」

「や、ゆっくりいきます。こういう日は、調子に乗って吞んだら早く回りそうで」

 大皿に載った冷菜の盛り合わせが運ばれ、一旦披露された後、美しく取り分けた皿が一人ひとりの前に置かれる。くらげの甘酢も皮蛋ピータンも煮豚もそれぞれこぢんまりとしたサイズ感だが、これまでどこで食べたものより旨い。

 天羽カインも美味しい美味しいと上機嫌で、千紘はようやく身体の奥でこわばっていた芯のようなものがほぐれていくのを感じた。ふわふわと、ほのかな酔いが回りだす。

 大きな海老えび雲丹うにのクリームとえたもの、白身魚と薬膳の蒸し物、器からはみ出しそうなフカヒレのスープ、と続いて、いよいよ北京ペキンダックが出てきた。つやつやの琥珀こはく色に焼かれた丸ごと一羽分のダックから、表面の皮だけを剝がして食べるのだ。

 皆さまのぶんをお作りしてよろしいですか、と店のスタッフが訊く。間もなく、薄餅に細切りの胡瓜きゆうり白髪葱しらがねぎ甜麵醬テンメンジヤンが添えられてそれぞれに供された。クレープのような薄餅に甘味噌を塗りのばし、ダックの皮と薬味をくるんで口へ運ぶ。歯ごたえの異なるそれぞれが口の中で主張し、そして渾然と溶け合う。

「こういう究極に旨いものを食べてる時は、もうなーんも考えたくないですねえ」

 呆けたように上野部長が言い、皆が同意する。一人あたま、ほんの二きれ。飲み込んだあとは夢幻のようだが、こればかりを満腹になるほど食べたのではありがたみも薄れるのだろう。

 何度か酒の注文も重ねながら、アワビのオイスターソース煮込み、和牛の炒め物、そして蟹肉かににくのあんかけ炒飯、とすっかり胃袋が満たされ、残るはデザートのみとなった。好きなものを何品か自由に組み合わせられるとのことで、スタッフがそれぞれに好みの注文を訊いてまわる。

 そこで、天羽カインが言った。

「すみませんけど、デザート、ちょっとゆっくり出してくれません?」

 承りました、よろしければお呼びくださいと応じたスタッフが、ぱたん、とドアを閉めるまで待って、彼女は言った。

「じゃ、佐藤編集長。今のうちに終わらせときましょうか」

「何をです?」

「反省会」

 とたんに全員の顔から表情がかき消えた。はかったようにげっぷをした上野部長が慌てて、「失礼」と口もとを押さえる。

「あのですね。私、いつも同じことを、ほんとに同じことだけをお願いしてるはずなんだけど、どうして時によってばらつきがあるのかわからないんですよね」

 編集長、専務、販売部長、宣伝部長、藤崎、千紘。順繰りに全員の顔を見やった後、言葉を継ぐ。

「まず基本中の基本、銀のサインペンですけど、あのメーカーのもので私がちゃんと気持ちよく書けるのは、一本につき六十人から七十人めまでなんですよ。その後はペン先が潰れて太くなってきて、書いててもすっきりしないの。このことは再三言って、余分に用意してくれるようにお願いしてきました。ですよね? で、今日並んでくれたお客さんが最終的に約二百人。だったらせいぜい四本あれば充分じゃないかって? それがですよ、五本のうち一本は、最初からペン先が潰れてたんです。インクを出す時に誰かが乱暴にごんごん押しつけたんでしょうね。私、今日、一冊だけそのペンでお客さんの名前書きましたよ。一画目を書き始めるまでわからなかったからしょうがないんだけど、できることなら今からでもあのお客さんに謝りたいです。書き直したい。字が変に太くなっちゃって、はっきりおぼえてるけど〈齋藤さいとう〉さん、難しいほうのね、画数の多い漢字だからよけいにぐちゃぐちゃになっちゃって。ねえ皆さん、今、たかがそんなこと、って思ってます? そんな小さいこと、って。皆さんにとっては二百冊のうちの一冊ですもんね。だけどあのお客さんにとってみたら、一生残るかもしれない一冊なんですよ。そのためだけに、今日も暑い中をわざわざ出かけてきて、汗だくで列に並んでくれたわけですよ。そうでしょ? 今日ペンを用意してくれた誰かだって、悪気があってやったことじゃないのはわかってます。きっと事情があったんでしょう。たまたま急いでるか何かしたんでしょう。だけどね、そういうのって、空気から伝わるものだと思うのね。こちらが、つまり『南十字書房』側の全員が、ほんとうに私のサイン会を大切に思っていて、お客さんに感謝していて、今日という日を絶対にかけがえのないものにしなくては! っていう空気がちゃんと正しくまっすぐ伝わっていたら、準備してくれるスタッフだってペン一本の果てまで神経を行き届かせてくれただろうと思うんですよ」

 編集長も部長たちも顔を上げない。目の前の白いテーブルクロスを黙って凝視している。

「あとそれからね、あのお花。綺麗に飾っていただきながら申し訳ないんだけど、何ですか、あの下品なピンク色。サイン会の間じゅう視界の端に映ってるせいで、ずっと気分悪かった。私が濃いピンクを好きじゃないってこと、前もって伝えといてくれてもよかったんじゃないのかな、ねえ千紘ちゃん」

「えっ。……あ、す、すみません」

 蚊の鳴くような声しか出てこなかった。濃いピンク色については今初めて知った。言われてみればなるほど、天羽カインが暖色系の服を着ているのを見たことはないかもしれない。

「それとね、お客さんとのツーショット撮影。新くん、手間どり過ぎじゃない?」

「それは、はい。申し訳ありませんでした」

 反省もあったのだろう、藤崎が低い声で言う。

「そりゃね、スマホにもいろんな機種があってややこしいのはわかるけど、あなたが操作に迷うたんびにお客さんの流れがとどこおるんだよね。私の座ってる席からは後ろにまだまだいっぱい並んでるのが見えてて、その人たちの苛立ちも伝わってくる。その状況で、スマホの持主であるお客さんがあなたのとこ行って、ここをああしてこうしてとかやってるのを、こっちは笑顔で見てなきゃいけない。後ろの人たちには目顔で謝りながらさ。ツーショットを許可した時点でこういうことになるのは充分予想できたはずなのに、どうして家電ショップへでも行っていろんな機種を触っとかなかったの? そうすればもうちょっとくらいはマシな対処ができたんじゃないの?」

 千紘は、藤崎のほうを見られなかった。どうして三十も過ぎた一人前の編集者をこんなふうに、それもわざわざ人前で面罵めんばするのだろう。

「あとそれからね、二人とも」

 はっと身を固くする。

「お客さんが持ってきてくれた贈り物を受け取る時、何考えてる? その人がどんな思いで一つひとつ選んだかって、ちゃんとみ取ってるのかな。私はサインで手がふさがってて、直接受け取れたとしてもすぐあなたたちにバトンタッチしなきゃいけない、そういう状況で、もしも自分が贈り物をする側だったら、あんなに無造作に足もとの箱へ入れられて、心配にならない? 終わった後ちゃんと私に持って帰ってもらえるだろうか、どこかバックヤードでほっとかれて迷子になっちゃわないだろうかって、私だったら気になってたまらないよ。そういう、お客さんを不安にさせるような扱いはやめてほしいのよね。右から左へぽいぽいと、相手に失礼でしょう。思いやりがないっていうか、想像力がなさ過ぎるよ」

 息が詰まりそうだ。千紘は、藤崎と揃って頭を下げた。

「……すみませんでした」

 そんなつもりはまったくなかった。一人ひとりの目を見て、丁寧に御礼を言い、「お預かりしておきますね」と声をかけてから受け取って、なくさないように後ろの箱へまとめていた。しかし、当の作家の目からそのように見えていたのなら、言い訳の余地はない。実際、中には不安になった客もいたかもしれない。

「あとは、原田さん、佐藤さん、上野さん、山本さん。とりあえず、こっち見てもらえますか」

 四人の目がぱっと跳ね上がる。

「今回の『月のなまえ』、初版は三万部でしたよね。なんでそんなに絞ったんですか。ねえ、山本さん」

「いや、絞るというか……」おしぼりで汗を拭いながら、山本部長は言った。「すぐに二刷、三刷と重版をかけていくほうがかえって宣伝になると」

「それはわかりますけど、まずは初版をしっかり積んでくれないと全国へ行き渡らないじゃないですか。今回だって『王様のブランチ』が特集を組んでくれたおかげですぐ火がついて、だけど田舎じゃなかなか手に入らない、大型書店へ行かないと買えない、アマゾンでも品切れ。ネットでずいぶん不満が出てましたよね。ご存じでした?」

 部長は黙っている。

「若い人は今日買えなかったら明日には忘れちゃうし、年輩の方は一人で街まで出かけられなかったりするし、そもそもネット注文だってできませんよ。それにアマゾンの品切れ、テレビのあと十日ぐらいずっと補充されないまんまだったんですよ。いったいその間にどれだけ売り逃したと思います? 私だけじゃなく藤崎くんも緒沢さんも、毎日苛々しながら何度もサイトを覗いては、まだかまだかって……。あんなことやってたら、せっかく効果の見込めるパブリシティを仕掛けても全部台無しじゃないですか」

「おっしゃることはわかりますが……ただ、アマゾンの在庫はこちらが細かくコントロールできるものでもなくてですね、」

「そんなこと言ってるんじゃありません。たとえばこれが最初っから五万部刷ってたら、アマゾン側だってもっと多く仕入れるかもしれない。あるいは在庫が切れたとしても、御社の倉庫からすぐそっちへ回せたりするわけでしょ。これ、前々から思ってたんですけど、すごく不公平ですよね。小さくても熱心な書店がぜひ仕入れたいっていくら言ってきても応じない。売れなかった場合の返本が怖いからってね。同じ理由で、わざと全国津々浦々にまで配ることをせずに都会の大型書店にばっかり百冊単位でおろして、在庫は、そういうとこから追加注文が来た時に備えてちょっとだけ確保しといて。そんなみみっちい考えで貧乏くさい商売してるから、爆発的なヒットが飛ばせないんですよ」

「いや天羽さん、まったくその通りで……」

「編集長は黙っててよ。私は今、物事を決める権限のある人に話してるんだから」

 佐藤が憮然ぶぜんとした面持おももちで口をつぐむ。

 千紘は、たまらずに唾を飲み下した。石ころを飲んだように硬いものが食道に滞って、なかなか胃の底へ落ちていかない。天羽カインの言葉の多くは核心をついているし、常から自分たち担当編集者がれったく思っていることでもあるけれども、しかし物事には言い方というものが……。

「この秋に、文春ぶんしゆんから新刊が出る予定なんですけど」

 と、天羽カインが続ける。

「初版は最低でも五万部から、と申し入れてあります。それ以下だったら出すつもりはないので」

「もし……文春が出さないと言ったら、どうされるおつもりですか」

 と原田専務が訊く。

「あら。ずいぶん失礼なことおっしゃいますね。私の作品に、初版五万部の値打ちがないとでも?」

「いや、うちなら今度こそ五万刷りますよ、と申し上げたかったんです」

「残念。ご心配頂かなくても、もう内々で了解はもらってます。あとはその五万部に対して、どれだけ強力なパブリシティを展開してくれるのかを、これから相談していかなきゃいけませんけどね。私は自分の作品のためなら何でも協力しますよ。テレビにだってラジオにだって出て宣伝します。必死です。だって、読んでほしいもの。命がけで書いて、担当編集者たちととことん話し合って、一切の妥協なく作りあげた作品ですよ? 彼らだって自分の時間を、というか身を削って、私と一緒にこの一冊を作ってくれてるんです。なんとしてでも読者に届けなくちゃいけない。でないと、みんなの気持ちを無にすることになる」

 誰も口をひらかない。

 天羽カインが静かに息を吐いた。

「誤解しないでいただきたいんですけど、南十字さんのことは実家みたいに思ってるんです。『サザンクロス新人賞』でデビューさせてもらわなかったら、今の私はなかったんですから」

 円卓の周りの全員を、もう一度ぐるりと見まわす。

「ただね、私も自分の子どもは可愛いんですよ。親ならば誰だって、我が子のポテンシャルを正当に評価してくれるところへ――評価した上でいちばん大事にして将来も伸ばしてくれるところへ、預けてやりたいと思うじゃないですか。それって当たり前のことでしょう?」

 艶然えんぜんと微笑む。

「私、何か間違ったこと言ってます?」

2

 タクシーを呼んだのは佐藤編集長で、アプリだったから請求は自動的に彼へ、すなわち『南十字書房』へ回る。

 だったらいっそ軽井沢まで、二百キロほどをこのまま乗って帰ってやろうかと思ったが、運転手がお喋りだったのでやめた。道中ずっと話しかけられたのではたまらない。喋るなと𠮟って、高速で居眠りされるのも怖い。

 東京駅八重洲やえす口で車を下りたのが午後九時半過ぎ、最終の新幹線まで三十分ばかり間があったので、酔いを覚ましがてら地下の惣菜売り場で日持ちのしそうなものを見繕みつくろい、ついでに幕の内弁当とヒレカツサンドも買った。今は喉元までいっぱいで何を見ても食指が動かないが、明日になれば必ず腹はすく。〆切間際はとにかく台所に立つ時間さえ惜しいのだ。

 東京の街は、夜になっても街の熱が引かない。ホームへ上がるとおそろしいほどの温気うんきが全身の毛穴を塞ぎにかかる。張りのあるタフタのワンピースなど今ここで脱ぎ捨ててしまいたい。

 こんなところに、数年前まではよく住んでいられたものだ。あの頃ももちろん昼間はとうてい外へ出る気がせず、夜も寝苦しくてたまらなかったが、慣れというのか諦めというのか、耐えているうちにいつしか毎年の夏が終わっていた。

 今はもう、戻る気がしない。新幹線で一時間と十分乗れば軽井沢だ。夏も冬も、東京とは朝晩の気温がほぼ十度違う。氷点下にまで冷え込む冬は厳しいが、夏場の恩恵を考えればおつりがくる。

 全身にじっとり汗をかき、ぶら下げた惣菜の重さに指がりそうになってきた頃、車内の清掃がようやく済んだ。いちばん先頭、十二号車に乗り込む。十一号車がグリーン車、この車両はそれより上のグランクラスだ。ゆったりとした座席は通路を挟んで片側に二列、反対側に一列。ハイシーズン以外はたいていガラガラの貸し切り状態なので、二つ並んだ席の窓側に座り、荷物を隣の席に置く。

 以前はグリーン車に乗っていた。座席そのものは充分快適で不満はなかった。

 ただ、家と同じで隣を選べない。混んでいる時、すぐ隣の席にいかにも品のない女が臭い香水をぷんぷんさせながら乗ってきたり、いかにも苦労の足らなさそうな若者がイヤフォンからシャカシャカと音漏れさせていたり、あるいはガサツな家族連れが乗ってきて、何もしない父親がスマホをいじるそばで子どもらが奇声を発したり通路を歩き回ったりとやりたい放題、たまりかねて注意すれば母親からものすごい眼でにらまれる……といったことが度重なるうち、つくづく厭気いやけがさしてしまった。

 子どもをグリーン車に乗せるな、と思う。SNSなどに書けば炎上することがわかりきっているが、一方で賛同してくれる人も大勢いるような気がする。

 特別車両というのは本来、大人のための場所であるはずだ。仕事や日常に疲れた大人がひとときの快適を確保するため、相応のプラスアルファを支払って乗るのだ。

 伯母おばの家族などはかつて、旅行の時でも大人たちだけが特別車両に乗り、高校生以下の子どもらはまとめて普通車両だった。目的地までおとなしく座っていられるだけの分別がつかないうちはどこへも連れて行ってもらえなかった。じつに清々すがすがしい教育ではないか。

 ようやく汗が引いてきた。ボタンを操作して背もたれを倒し、フットレストを上げ、しっとりふかふかとしたシートに全身を預けると長い息がもれた。

 ゆうべ念のために前泊した都内のホテルと、昨日今日と往復したチケットは『南十字書房』持ちなので、よけいに心置きなくくつろげる。堕落だらくしたグリーン車に比べれば、グランクラスはまだいくらかましだ。座席の並びからして家族連れには向かないし、小金持ち程度が乗るにはいささかハードルが高いとみえる。たった一時間ほどの移動に片道数千円の差額はたしかに贅沢だが、自腹の時でもあえて乗る。静けさと心の平穏を手に入れるための必要経費と思えば高くない。

 心の、平穏――。

 望みはたったそれだけなのに、なぜか邪魔ばかり入る。この世で担当編集者だけは自分の味方のはずだが、それでも時々信じられなくなって苛々する。今日もそうだった。

 常日頃、藤崎新も緒沢千紘も、〈天羽カイン〉の作品を読者に届けようと全身全霊で尽力してくれている。そのことを疑ってはいない。

 しかし組織の中で働く若い彼らに、会社の方針をくつがえすほどの力はまだなく、もちろん決定権もない。作品を読者に届けるためにやるべきことははっきり見えていて、それを形にすればきっと効果が出るとわかりきっていながら意見が通らない。状況を最も正確に把握しているにもかかわらず、だ。

 彼らの前に立ち塞がる者は誰か? わからんちんの上司たちだ。保身ばかり考えて情熱を忘れてしまった燃えかすどもだ。

 誰にも言えない不平不満を、編集者たちはこっそり打ち明けてくれる。だから、彼らのために今夜は偉いオジサンたちをまとめて呼び集めた。自分さえ先陣を切って言うべきことを言えば、途中からは彼らも加勢して、この時とばかりにいつもの熱い理想を語ってくれるだろうと思った。

 けれど、新も千紘もうつむいたままだった。

 通じなかったのだろうか。サイン会での細かな落ち度を重箱の隅をつつくがごとく指摘したのは、先にそうしておくことで、オジサンたちとの間に対立構造を作らないでおくためだ。〈お前らはどっち側の人間なんだ〉などと、後から二人がいじめられずに済むようにだ。その戦略がどうしてわからない?

 車窓の外、大きな川と鉄橋が見えてくる。等間隔に並んだ街灯やマンション群の窓明かりが川面に映り、橋の上を行き交う車のライトがそこに動きを添えている。いま初めて気づいたが、今夜は満月のようだ。あるいは一日前の小望月こもちづきだろうか。

 十五夜の次が十六夜いざよい、それから立待月たちまちづき居待月いまちづき寝待月ねまちづき更待月ふけまちづき……。最新刊の『月のなまえ』には各章の副題にそれらの名を配してある。

 自信作、だった。先ほど部長たちにも言った通り、何ひとつとして妥協はしていない。

 これまで以上に心理描写に力を入れたから、読者は最低でも誰か一人は自分に似た登場人物を見つけて感情移入するだろう。物語の構造そのものにも工夫をらし、容易には見抜けない謎をちりばめながらも、読んでいてつまずく箇所がないよう状況説明のわかりやすさに気を配った。ハラハラしながらストーリーに没入した先で、誰も予想のつかなかったどんでん返しと大きな感動が待っている。一度でも愛する誰かをうしなった経験のある者なら泣かずに読み通せるわけがないし、読み終えた後にはうっとりするようなカタルシスがいつまでも残るだろう。

 発売日より十日ばかり早く見本が上がってきた時の感激はひとしおだった。だからこそ藤崎新と緒沢千紘に訊いたのだ。

「ね、今度こそいけるよね?」

「え?」

「直木賞」

 ――もちろん!

 ――絶対ですよ!

 という返事しか予想していなかったから、二人の目が揃って泳いだことにびっくりした。

 一拍以上おいてから、

「そうなるよう、全力で読者に届けます」

 千紘が言った。

「これほどの作品なんですから、覚悟はきっと伝わるはずですよ」

 新も言った。

 そんな言葉を聞きたいのではなかった。二人には、せめて直接の担当者であるこの二人にだけは、

〈絶対この作品で獲りましょうね!〉

 そう言いきってほしかった。

〈これの値打ちがわからないような奴は大馬鹿野郎だ!〉

〈選考委員の目が節穴なんですよ!〉

 あるいはまた、

〈大御所は耄碌もうろくしちゃって長いものが読み通せねえんじゃねえのか?〉

 ぐらいのことはがんがん言ってくれてよかった。どれもこれも、今まで賞の候補になっては落ちるたび、こらえきれずに担当者たちにぶつけてきた言葉ばかりなのだから。

 ――私の、何が駄目なの?

 心にそうくり返すたび、奥歯がすり減る。胃の底がじりじりと焦げて炭化しそうになる。

 自分の作品は、本になった後はまず読み返さない。初校や再校の段階で、いや、そもそも入稿の段階で一点の後悔もなく仕上げたものを、もう一度読み返す必要はない。そのぶんの時間は、次なる作品に注ぎ尽くす。だからこそ今のうちに知りたいのだ。いったい何が足りないのか。

 窓の外を凝視していると眼窩がんかの奥が痛み出し、目頭をゆっくりとんでいるうちに意識が遠のいて、車内放送にハッと目を開けると早くも軽井沢だった。さすがに疲れていたらしい。

 急いで荷物をまとめ、幅広の乗降口からホームへ出るなり、ふう、と思わず声がもれた。涼しい。夜気がみずみずしい。このためだけにでも移り住んでよかった。

 しかし毎回思うが、なぜエスカレーターまで遠いのか。グランクラスが十二号車、グリーン車は十一号車、なのにエスカレーターはホームの中央にあり、真横に停まるのは普通席の八号車だ。納得がいかない。

 各車両から、浮かれた観光客たちが続々と吐き出されてくる。キャリーケースを引きずって下りてきた彼らの最後尾につき、苛々とエスカレーターの順番を待つ。進みが遅いのは、その必要もないのに右側をあけて一列で乗るせいだ。

阿呆あほうどもめ、帰れ)

 と口の中でつぶやく。

(山で蜂にでも刺されたらいいのに)

 中には、見るからに日本人でない人々もいる。死体を運べるほど巨大なトランクを各々が最低でも二つずつ転がして、喧嘩腰けんかごしの大声で何やらまくしたてながらぞろぞろ歩く。お目当ては駅に隣接した広大なアウトレット。飛行機を使ってまでブランド品の買い出しに来るとは、日本もめられたものだ。

 コロナ禍の間はせっかく静かだったのに、鎖国が解かれたとたん、またやかましい町になってしまった。耳をおおいたくても両手は荷物でふさがっている。一刻も早く家にたどりつきたい。今日一日で二百人もの人々にいちいち完璧な笑顔を向けたのだ、人の姿なんかこれ以上見たくない。声も聞きたくない。

 やっとの思いで改札口を抜けると、探すまでもなく正面の壁際に立っていた。

 昼間は草刈りでもしていたのだろう、茶褐色のシミが点々と飛んだ作業服から着替えもしないで、仁王立ちで腕組みをしている。年齢がいっているわりには長身なので目立つ。それがまた神経にさわる。

 そばまで行くと、なめし革のように日にけた手がのびてきて荷物を受け取った。ごま塩頭がひなたくさい。校庭で走り回って遊んだ子どものようなにおいだ。

「迎えに来る時はちゃんと着替えて、って言ったはずよね」

 あ、という顔をして自分の服を見おろす。忘れていたらしい。ぺこりと頭を下げる。

「もういい。早くして」

 うなずいた男が急ぎ足で先に立つ。追いかけることはせず、ゆっくり後からエスカレーターを下りてゆく。

 どうしても人に説明しなくてはならない時は、お手伝いとか庭師とか、留守番とか運転手とか適当に言っているが、要するに下男げなんだ。歳はたしか六十八で、名はサカキという。

 見おろすロータリーには迎えの車がこれまた列をなしていた。サカキが白のアウディをエスカレーターの降り口付近に停めていたので、とりあえず文句を言わずに済む。

 後部座席に乗り込み、ドアを閉めるとようやく静かになった。外界から遮断された空間が何より心地いい。アウディを選んだのはこれ見よがしのベンツが下品に思えたからで、最近は猫も杓子しやくしもSUVにばかり乗りたがるからあえてセダンにした。雪道などの悪路に強いところも気に入っている。ここでの暮らしにふさわしい車だ。

 サカキが運転席に乗り込み、シートベルトを締め、左右を確認して車を出す。

 と、すぐさま急ブレーキをかけた。

「何、どうしたの」

 駅のトイレから飛び出してきた中年女の三人組が、こちらを見もしないで道路を斜めに渡ってゆく。

「びっくりするじゃない。あんなのいてやりゃいいのに」

 サカキがうなずきもせずに再び無言で車を出すのを見たら、わけもなく腹が立ってきた。溜まりに溜まっていたもやもやが沸騰したかのようにこみ上げてくるのに任せ、運転席の後ろから靴底で腰のあたりを思いきりりつけてやる。どごっ、と鈍い音がしても、彼は何も言わず、停止線できっちり三つ数える間停まり、ロータリーからなめらかに滑り出た。もっと腹が立ち、もう一回蹴ってやる。

 そういえばこんな女性議員がいた。あの記事を読んだ時には、なんて慎みのない女だ、ああは決してなりたくないと思ったのに、まるで同じことをしている。

 東へ向かうバイパスを途中から南に折れ、アウディはカーブと坂の多い道を走ってゆく。街灯の数がめっきり減り、木立こだちが深くなる。

 運転免許を持っていないわけではなかった。自分でハンドルを握りたい時には迷わずそうしている。が、

〈せめて仕事の行き帰りくらいは送り迎えしてもらいなさいよ〉

 そう言ったのは夫だった。

〈駅前駐車場に長いこと車を置きっぱなしにしとくのは物騒だし、きみも疲れてるだろうし。坂木にだって仕事をさせてやらないとね〉

 サカキ――坂木武雄たけおは、もともとは渋谷区松濤しようとうにある夫の生家の運転手だった。歳は歳だが技術は確かだし、本人ももうしばらく働きたいようだからと言われれば、無下にもできなかった。あまり固辞すれば変に勘ぐられそうだった。

 夫とはもう何年も、東京と軽井沢に離れて暮らしている。そのことをエッセイに書いたり講演などで話す時は、別居婚、通い婚、といった表現を使う。

 お互い仲は良く、ふだん別々に過ごしているぶん会うたび新鮮で、なんだかずっと恋人同士のよう。二人で選び取った新しい夫婦の形も、〈老後〉がどんどん長くなってゆくこれからの時代にはしっくり馴染むのでは……。

〈で、ほんとのところはどうなんですか?〉

 いつだったかインタビューの時、つっこんで訊いてきた猛者もさがいた。こちらより年上の女で新聞記者だった。

〈ほんとのところ、親友みたいな感じですよ〉

 と答えた。

〈離れてる時間は多いけど、それでもお互いのことは誰よりもよく知ってるっていうか〉

 そう、とてもよく知っている。

 夫は、軽井沢の家にはめったに来ない。が、軽井沢に来ていないわけではない。若い女を連れてゴルフをし、最近新しくできた馬鹿高いホテルに逗留とうりゆうして、美食と情事にふけっている。

 なぜ知ったかといえば、共通の知り合いから、旦那さんが今ホテルのラウンジで若い女をくどいているが奥様はご存じか、とご注進のLINEが届いたからだった。

 空っ風に吹かれた心地がした。あまりにも脇の甘い夫が恥ずかしく、かわりに身をよじりたくなった。オス犬が衆人環視の中でもかまわず、桃色のちんちん丸出しでメス犬にすり寄っているも同じだ。そういうことは人目に付かないところでこっそりやれ、間抜けめが。

 それでも、別れるつもりはなかった。ダメージが怖かった。

 これまでさんざん新しい夫婦の形を説き、大人の幸せをアピールしてきたのに、今さら〈離婚〉はいただけない。作家にとってイメージは大事だ。憧れを持って受け止めてくれていた人々は、裏切られた気がするだろう。

 アウディは、湖畔をぐるりと迂回うかいするように走っていた。冬は真っ白にてつく湖が、今は月の影を映して静まりかえっている。東京はまだ夏の気配が濃かったが、こちらの季節はせっかちだ。

 スピードをゆるめ、わだちの深くえぐれた私道に入ってゆく。見慣れた落葉松からまつの大木がヘッドライトに照らし出され、続いて白いフェンスと、敷地の隅に停めた軽トラックが浮かび上がる。

 切妻屋根の瀟洒しようしやな家の明かりは二階まで煌々こうこうともされていた。迎えに出かける前にサカキがつけておいたのだ。エンジンを切ると、とたんに静けさに包まれた。ガーデンライトにほんのり照らされた足もとの草むらで、コオロギやウマオイが鳴いている。

 先に降り立ったサカキが、助手席に置いてあった荷物を下ろし、玄関の鍵を開けて運び込んだ。車のキーを渡してよこし、上目づかいでこちらを見る。

「もういいから。おやすみ」

 男が頭を下げ、きびすを返した。暗がりを庭の奥へと歩いてゆく。そろそろ老境に入ろうという年齢で、娘ほど年下の女にあごで使われるのはどういう気分のものなのか。

「サカキ」

 呼ぶと、ふり向いた。

「……悪かったわね」

 頷いたのか、首をかしげたのかわからなかった。

 

 玄関ドアをしっかりと施錠し、まずは買ってきた惣菜の類いを整理して、冷蔵庫と冷凍庫に分ける。それから洗面所でうがいをし、ふき取りローションで化粧を落とした。顔から膜を一枚剝がしたようにすっきりする。

 バスタブに湯を溜めている間に、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、立ったまま飲む。食道と胃袋の輪郭がわかるほど冷たい。生き返る。透きとおったコバルトブルーのペットボトルは飲み口が広く、それだけでも水が美味しく感じられるのだ。

 留守中に届いていた郵便物と、ここ数日忙しくて積んだままになっていた雑誌の束をかかえてリビングへ行く。外には鼻の先も見えないような闇が広がっているが、ここで暮らすようになってすぐラルフローレンでオーダーしたシックな花柄カーテンのおかげで、包まれ、守られている心地がする。

 高かった。およそカーテンとも思えない、重厚な家具を買えるくらいの値段だった。似たテイストのものは国内メーカーの生地にもあるのだが、それでは駄目なのだった。ブランドの名前や格は畢竟ひつきよう、所有する者の自己満足のためにある。

 インタビューを自宅で受ける時など、背後に映るのはこのカーテンでありリビングなのだし、貧乏くさい生活をしていると貧乏くさい小説しか書けなくなる。清水きよみずの舞台から飛び降りる前に、そう自分にこんこんと言い聞かせたのを憶えている。これが夫なら、葛藤とは無縁だろう。必要な局面で微塵も迷わずカードを切れるかどうかで、ほんとうの金持ちとの〈格〉の違いが露呈してしまうのだ。

 地元の不動産会社のチラシや、宅配ピザのクーポン券などに混じって、いくつかの出版社から印税振込の通知や増刷の報告が届いていた。

 連載小説の第一回が載っている「オール讀物よみもの」。挿画を担当するのはおなじみのイラストレーターだから、とやかく指示を出さなくても安心して任せられる。それから、『月のなまえ』に関するインタビューが掲載された本の情報誌、今回は見開き二ページではなく片側一ページの分量だ。不服だが仕方がない。次は交渉の必要があるかもしれない。他に、エッセイを寄せた女性誌「CREA」と、前に連載して以来欠かさず送られてくる「週刊新潮しんちよう」と「週刊文春」と……。

 雑誌の入っていた茶封筒やビニールの包みを、この手間がいちいち面倒くさいのだとうんざりしながらびりびり破って捨てていると、いちばん下からディーラーのロゴの入った水色の封書が現れた。アウディの車検に関するリマインドだ。

 白いシールに印字された宛名に、のばしかけた手が止まる。封筒に触れないままじっと見た。

天野佳代子あまのかよこ様〉

 ほとんどが〈天羽カイン様〉に宛てて送られてくる郵便物の中に、たまにこの宛名が混じっている。当たり前だ。何しろ本名なのだから。

 それなのに、今日だけでも合計で三百回近く、天羽カイン、天羽カイン、天羽カイン、天羽カイン、天羽カイン、天羽カイン、天羽カイン、とゲシュタルト崩壊を起こしながらもひたすら書き殴っていたせいか、ほんとうの名前が妙によそよそしく見える。

 ――あもう、かいん。

 ――あまの、かよこ。

 誰かに呼ばれるために名前はある。夫に「佳代子」と呼ばれている間は妻をやってきたし、「天羽さん」「カイン先生」と呼ばれる場面では作家をやっている。

 天使の羽根のはかなく白いイメージに、旧約聖書に登場する人類初の殺人者――弟ばかりが神に愛されることに嫉妬して殺した兄――の名を組み合わせた筆名は、自分では気に入っているが、あくまで作りものでしかない。けれど、こうして森の奥深く一人きりでいるとわからなくなってくる。ほんとうはどちらが自分なのだろう。いや、この自分はいったい誰なのだろう。

 ふいに、大音量で〈主よ、人の望みの喜びよ〉が流れだした。風呂だ。

「ああびっくりした」

 帰ってきて初めてひとりごとを言い、その声を耳が聞いたらようやく〈自分〉が戻ってきた気がした。

 そう、さっさとするべきことをして、早く寝なくてはいけない。次の〆切も近いのだ。疲れを明日に残したのでは執筆に差し支える。

 熱めのシャワーを浴び、髪と身体を〈サンタ・マリア・ノヴェッラ〉のシャンプーやソープで念入りに洗い、何やら皺の伸びない感じの気分ごと排水口へ流してからバスタブに浸かる。真っ白なバスタブに金色の猫脚、成金趣味すれすれじゃないかと夫は眉をひそめたが、憧れを形にする誘惑には抗えなかった。

 最初から金持ちに生まれついた者にはわからないのだ。想像したこともないだろう。欲望が、胃袋のえにそっくりだなんて。

 換気扇の低い唸りに眠気を誘われ、つい舟を漕ぎそうになる。こらえて湯の中で膝立ちになり、細く開けた窓から外をうかがうと、裏庭の奥、離れの明かりは消えていた。サカキはもう寝たようだ。

 同じ敷地内に建つ平屋で寝起きする彼は、日中は草刈りやまき割り、建物や外構の修繕などの作業をこなしている。メモを渡せば日常の買物くらいはしてくれるし、私道脇の一角を耕して菜園にし、毎朝、採れた野菜のうちきっかり半分が母屋のキッチンの勝手口に置いてある。

 この土地で暮らすようになって五年、今では周囲の別荘が長く留守にしている間のメンテナンスも請け負っているようだ。合鍵を預かり、たまに窓を開けて風を通したり、外水道が凍らないよう気を配ったり、下草を刈ったりする程度だが、小遣い稼ぎにはなるらしい。

 三度の食事はすべて別々、何より会話をしなくていいのが楽だった。女一人きりで暮らすのが難しい環境だけに、現実問題として彼の存在に助けられてはいる。

 だが、どうしても、姿を見るたび苛立つのだ。

 夫は、いつのまにかずいぶん稼ぐようになった妻が羽目を外すのを警戒したらしい。別居はかまわないが、この軽井沢の〈別荘〉に若い男を引っぱりこむなどされては外聞が悪い。そこで、いわばお目付役としてあてがわれたのがサカキだった。過去に大病をわずらったため発声が困難になり、しかもネット社会についぞ順応できなかった男は、夫の思惑にうってつけだったのだ。なんたる馬鹿ばかしさだろう。

〈人気なんてどうせ一過性のものなんだから、あんまり調子に乗らないようにね〉

 小説が売れ始めた頃、夫はよく言っていた。

〈でもうらやましいよな、小説家って。連載の時は一枚いくらで原稿料がもらえて、それが単行本になれば一割の印税が入ってきて、文庫本になったらなったでまた一割だろ? 一粒で二度も三度もおいしいなんて、そんな楽な商売ないよ〉

 楽なんかしていない。連載をまとめて本にする時も、二年から三年後に文庫本にする時も、必ず新たに校閲のチェックが入るし、こちらも頭から一字一句読み逃さずに直しを入れる。大幅に書き直すことまである。思ったが、言わなかった。

〈いいんじゃない? やれるうちは頑張りなよ。どういうものが世間にウケるかリサーチして、確実にそこを狙って書くの、きみ昔から得意だったもんな〉

 大手の広告代理店に勤めていた頃、こちらの考えたキャッチコピーを気に入って採用してくれたのが、クライアントである夫だった。都内の一等地に屋敷を構え、親の代で大きくなった輸入会社をさらに成長させて上場まで果たし、あとはあくせく働かなくとも資産運用だけで充分食べていけるお大尽だった。

 われて結婚した。中身も好きだがそれ以上に顔が好みなのだと告白され、思わず吹きだすと同時に妙に救われるものがあって、うっかりオーケーしてしまった。

 勤めを辞めて家庭に入ったのも、夫にそうしてほしいと言われたからだ。望んでいたようには子どもを授からないまま数年がたち、また働きたいと頼めば渋い顔をされて、苦肉の策で最初の小説を書いた。家に居ながらにしてできる仕事に就けば文句は言われまいと思った。

 文章を書くことは得意だったが、原稿用紙にして数百枚の物語を最後まで書き上げるのには別の能力と努力が要るはずだ。何年かはあきらめずに投稿を続けなくてはと覚悟していたところ、初めて書いたその作品が新人賞に選ばれた。受賞のしらせを受けた日は、しくも三十六歳の誕生日だった。自分の作品が認めてもらえたことを手放しで喜ぶ妻を、夫はめた微苦笑を浮かべて眺めながら言った。

〈落ち着きなさいよ、佳代子。たかがライトノベルだろ? それに作家になろうって人間なら新人賞ごとき、誰でも獲れるんだからさ。言っとくけどアイドルと同じで、デビューしても売れなきゃすぐ消えるよ。出版社から次の注文が来なかったら、そこでもう終わりだもんな〉

 出版社からの注文は、しかし途切れなかった。それどころか、いつの頃からか本を出せば必ず、ベストセラーリストの一位に長く君臨するようになり、ここ数年はこれまた必ず、いずれかの賞の候補に挙げられるようにもなった。

 それなのに――獲れない。〈誰でも獲れる〉新人賞で、最優秀賞と読者賞をダブル受賞した後は、どこに何度ノミネートされても落とされてばかりいる。ふり返ればデビュー以来、書店員の選んでくれる「本屋大賞」以外は獲っていない。全国の書店員が最も売りたい本、という栄誉は晴れがましいものの、アンケートで選ばれるだけではもはや満足できない自分がいる。

 こんなに世間から支持されているのに、どうして獲れないのだろう。自分の作品のどこがいけないのか、文学賞を受けるのに何が欠けているのかわからない。

 そもそも、失礼ではないか。候補作を公表するということは、世間の注目が集まるということだ。賞を勝ち得た作家はいいが、落ちた作家は生きながら恥を忍べとでもいうのか。

 選考に当たった作家たちの選評を読んでも、書いてあることが抽象的すぎてさっぱりわからない。勉強のつもりで編集者に訊いてみたが、彼らも首を捻るばかりだった。

〈もうさ、嫉妬なんじゃないの?〉

 腹立ちまぎれに、担当者にこぼしたことがある。

〈自分より売れてる作家に賞をやろうなんて思わないよね。よけいなライバルを作るだけだもの〉

 すると彼も、はっきり同意したものだ。

〈まあ確かに、そういうこともまったくないとは限りませんよね〉

 出せば売れる、というだけではもう足りないのだった。身体じゅうの全細胞が、正当に評価される栄誉に飢えてかつえている。世間や書店のお墨付きは得た、あとは文壇から、同業者から、作家としての実力を認められたい。いや、認めさせたい。これ以上〈天羽カイン〉を軽んじることは許さない。夫にも、誰にもだ。

 方法はきっと何かあるはずだった。自分だけがその方法を知らず、誰かが陰でうまいことやっているに違いないのだ。

 今回の作品か、あるいはこの十月に『文藝春秋ぶんげいしゆんじゆう』から出る新刊を、何としてでも候補にねじ込んでもらわなくてはならない。どちらか一冊というなら十月の文春刊のほうに目があるだろうか。毎回五作から六作挙げられる候補作を見渡すと、中にはたいてい文春の本が一、二冊は入っている。それもそのはず、直木三十五さんじゆうご賞と芥川龍之介あくたがわりゆうのすけ賞を管理している『日本文学振興会』は、実質『文藝春秋』社内に置かれた組織なのだから。

 ぬるくなってきた湯に肩まで浸かる。これまでに何度も飲まされてきた煮え湯、味わってきた悔しさのすべてが、身体の中でぐるぐるとうずを巻いてしずまらない。

 足をはね上げて後ろへ倒れると、湯が勢いよくあふれた。

 大の字に浮かんで天井を睨みつける。

 

 ――直木賞が欲しい。

 他のどの賞でもなく、直木が。

単行本
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定価:2,200円(税込)発売日:2025年01月08日

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