最近、マスクをしている人が少なくなりましたが、私はいまも、電車に乗る時や、人に会うときなどはマスクをつけて外出しています。それでも、早朝、ゴミを出しに行くときなどは、マスクを外して朝の風を吸い込み、季節ごとに変わっていく香りを楽しんでいます。
一年程前の朝、久しぶりにマスクを外したとき、私はしばし、ゴミの袋を持ったまま立ち尽くしてしまいました。朝露に濡れた草木の香りが鼻腔いっぱいに広がった瞬間、そうだった、朝の大気は、こういう香りがするのだった、と、思ったのです。
マスクという薄い不織布一枚で隔てられていた世界が、ふいに戻って来たような気がしました。
三年もの間マスクをつけ続けるという異常な経験をしたことで、私は初めて、自分がいつも、自分をとりまいている世界の香りを感じながら生きていたことに気づいたのでした。
気づかずに生きていることって、たくさんありますね。とくに、目に見えないものに気づくことは、本当に難しいです。
香りは目に見えません。目には見えないけれど確かに在り、草木や虫、様々な生きものが、人にとっての声のように香りを使ってコミュニケーションをとっている……。
私に、アイシャのような、香りの声を聞く力があったなら、この朝の大気に、どんな声を聞くのだろう、と、よく夢想しています。
私は子どもの頃から、自分が生きている世界が、あまりにも広大無辺で、しかと捉えきれないことが気になっていました。
自分には見えていない様々なものが、きっと、この世界を作っていて、自分が「知っている」のは、本当に、ごくごく僅かな部分に過ぎないのだろう――そう思う度に、胸が震えるような、恐ろしいような、たまらなく心惹かれるような、不思議な感覚にとらわれました。
還暦を過ぎた今も、私は、広大無辺の世界を思うたびに、胸が躍ります。
そして、これまで気づかずにいた、世界を形作っている何かに出会い、その何かが、実は、私たちの生き方に大きく関わっているのだ、と気づいたとき、物語が、私の中から身をうねらせるようにして生まれ出て来るのです。
本書を読んでくださった方が、目には見えずとも、確かにこの世界中に満ちている、壮大な生きものたちのネットワークに思いを馳せ、どきどきしてくださったなら、これほど幸せなことはありません。
『香君』の文庫版は、miaさんとデザイナーさんのお陰で、春夏秋冬をイメージした美しいカバーをもつ本になりました。
そして、私の願いが叶って、NHKの連続テレビ小説「らんまん」の脚本をお書きになった脚本家の長田育恵さんに、解説を書いていただくことが出来ました。
私は「らんまん」を毎朝楽しみにしていたのですが、あるとき、植物学を学んでいる語学の天才、波多野さんが、画工の野宮さんに、自分は「見えないってことを、見ています」と言うシーンに出会い、ああ、このドラマを作った方も「目には見えないけれど、確かにある、この世の生命を動かしているもの」のことを考えておられるのだなあ、と、強い親近感を抱きました。
そして、この脚本家の方に、『香君』の文庫版の解説を書いていただけたら、と、夢見たのでした。
素晴らしい解説を書いていただき、美しいカバーにくるんでいただけた、この文庫本は本当に幸せ者ですね。ポケットに入れて持ち歩き、楽しく読んでいただけたらうれしいです。
上橋菜穂子氏写真:小池博
イメージ写真・書影:深野未季
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『俺たちの箱根駅伝 上下巻』池井戸潤・著
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