- 2022.04.05
- インタビュー・対談
〈『香君』刊行インタビュー〉「人間が命を繋いでいられる理由、見えないネットワークにすごく心惹かれるのです」上橋菜穂子の7年ぶりの物語『香君』が映し出すもの
聞き手:瀧 晴巳
上橋菜穂子さんインタビュー#1
ジャンル :
#歴史・時代小説
上橋菜穂子さんの待望の新刊『香君』が上梓された。長編小説としては『鹿の王 水底の橋』以来、3年ぶり。新たな物語を描いた作品としては、本屋大賞を受賞した『鹿の王』以来、実に7年ぶりの作品ということになる。上橋さんにとって、この7年は、人生の節目と言える激動の日々でもあった。(全3回の1回目。2回目、3回目を読む)
窮地を支えてくれた作家仲間
「父と母を見送ったのですが、母の闘病に付き添ったときは、父の介護もあったので、まったく書くことができませんでした。母を送った後、『鹿の王 水底の橋』と守り人シリーズの番外編にあたる『風と行く者』というふたつの物語を書いて、2019年くらいに『香君』を書き始めたんです。でもその頃から今度は父の体調が悪化して、誤嚥性肺炎を繰り返すようになり、執筆を中断せざるをえませんでした。父を送ったのが2020年の4月、ちょうど緊急事態宣言が出た次の日で、今度はコロナにまつわる様々で、心身が不安定になり、書けない時期が続きました」
そんな窮地を支えてくれたのが作家仲間であり、鼎談集『三人寄れば、物語のことを』という共著もある佐藤多佳子さんと荻原規子さんのふたりだった。
「私がメンタルを病まないように、週1回zoomデートをして、心の支えになってくれたんです。彼女たちと作家あるあるの話をしゃべったり、秘書さんズや友だち連中と電話であれこれ話したりするうちに、少しずつ心が前向きになっていきました」
2014年には児童文学のノーベル賞と言われる国際アンデルセン賞を受賞。上橋さんが描く物語は、NHKでドラマ化された『守り人』シリーズをはじめ、大人から子供まで幅広い読者に支持されてきた。
今春、映画が公開された『鹿の王』では、謎の疫病が蔓延する社会を描き、奇しくもパンデミック後の世界を先取りした感がある。異世界ファンタジーでありながら、物語の根底に文化人類学者でもある上橋さんの今の世の中に対する深い視座があることが、読者を惹きつけてやまない理由のひとつだろう。2020年には文化人類学の知と想像力を生かした一連の著作活動により、第15回日本文化人類学会賞を受賞している。
人間に都合がいいように世界を変える話は書けない
「映画を観て、『鹿の王』というタイトルだから子鹿が『ライオンキング』のように鹿の王様になる話かと思っていたら、違ったという感想をツイートしている方がいて、思わず笑ってしまったのですが、ファンタジーというと剣や魔法で問題を解決するという先入観を持たれてしまうことは、よくあることだと思います。
『香君』も、嗅覚が優れていて、植物の声を聴くことができる少女が主人公というと、超能力で何かを成し遂げる物語と思われてしまいそうですが、読んでいただけばわかる通り、そうではないです(笑)。危機から脱するために人間に都合がいいように世界を変える話は、私はどうしても書くことができません。世界を構成しているすべてのものと同じように、人もまた、世界のすべてに繋がっていて、万物と影響し合いながら生きていると感じているので。
これまで気づかなかったけれど、世界は、実はこういう姿をしていたのだということに気づく瞬間に心惹かれます。文化人類学に惹かれた理由も、フィールドワークによる実体験を通して、世界と人についての気づきが得られるからで、逆に言えば、日頃は気づいていないことがたくさんあるわけです。
私たち人間が命を繋いでいられる理由の中には、そういう目には見えない様々なことによって成り立っている部分があって、私はそういう見えないネットワークみたいなものに、すごく心惹かれるのです。香りも、それこそ目に見えないものですよね。香りから見えて来た世界の姿に驚き、ワクワクしたことが、この物語を描く時の大きな原動力になっていました」
上橋さんの物語の書き方は、独特だ。上下巻の長編であっても、プロットはつくらない。膨大な資料を読みながら、ファーストシーンが浮かんでくるのを待ち、ひとたび、物語に命が宿ったら、そこからは物語に導かれるまま書きあげていく。
思考を転がしていくと、不思議と次のシーンが浮かんでくる
「今回は、高い塔の中にいる少女の姿が頭に浮かびました。石造りの塔で、彼女を取り巻く空間は冷たく暗い。でも窓が開いていて、向こう側には春の日差しが降りそそぐ広い世界があって、春風がふわっと香ってくる。彼女は、その香りで、いま目の前に広がっている世界で起きていることを感じている。
でも、それは、彼女にしか感じられないことですから、彼女はすごく孤独だろうなと思ったんです。鋭い嗅覚を持つ彼女が感じている香りの世界を、他の人は、感じていないのですから」
タイトルにもなっている「香君」とは、香りで万象を知る活神のこと。はるか昔、初代の香君が神郷よりもたらしたオアレ稲によって、ウマール帝国は民を支配し、繁栄してきた。「オアレ稲」も「香君」も帝国を維持するために欠かせない唯一絶対の存在だったはずが、オアレ稲に虫害が発生したことから盤石だった社会の基盤が一気に揺らぎ始める。時を同じくして、帝国にやってきたアイシャも、また人並みはずれた嗅覚を持っていた。
「アイシャが逃げて、逃げて、でもきっと捕まるだろうなというところを書き始めたら、物語がどんどん動き出しました。翌朝、朝ごはんをつくっている最中に、自分を殺そうとしている男に対して、あなたは毒をもられていると告げているアイシャの姿が浮かんだんです。マシュウも出てきた時は、まるっきりどんな人間か、わからずに書いていました。アイシャが彼に『あなたはリタラン?』と聞いた時も、リタランって何? と思った(笑)。
きっと、青香草の匂いがしたから、そう聞いたんだろうと思って、そこからひとつの花を胸に抱いた求道者のイメージが浮かんできました。プロットを立てない代わりに、資料を読み返しながら、思考を転がしていくと、不思議と次のシーンが浮かんでくるんです」
物語は人並み外れた嗅覚を持つ少女、アイシャと香君として生きることを強いられてきたオリエ、ふたりの運命を軸に、帝国の崩壊を食い止めるべく、オアレ稲の謎に迫っていく。
パンデミックの中で見た人間の希望
「帝国を維持するために香君という装置があり、しかも、その香君が人並み外れた能力を持ってしまっている場合、何が起きるのか。やはり、神として祭り上げられてしまうだろうし、その方がシステムはうまく回っていくでしょうね。更に、それによって利益を得る人たちがいると、歯車がカチッと噛み合ってしまう。
そうしていったん創りあげられた強固なシステムは、壊すのが難しくなるし、しかも壊れたら大変恐ろしいことになるわけです。一点集中した強い力が破壊を起こす時、それを止めることはとても難しい」
異世界を舞台にしていても、この人が描く物語は、来るべきカタストロフィーの予言であり、私たちは今、何ができるのかという示唆に富んでいる。
「『鹿の王』を書いていたとき、まさかパンデミックが現実に起こるとは思っていませんでした。パンデミックが起きたとき、ウィルスの遺伝子情報が世界に共有されるや、世界中の学者たちが一斉に物凄い勢いで論文を発表し始め、互いに情報共有を始めたことが、私には、とても印象的でした。パンデミックは人類全体の問題で、人類全体の知性がひとつのものに対して何とかしようとして動いているというのを目の当たりにして、つらい現実の中でも、人間にはこういうかたちの希望もあるんだな、と感じました。
もちろん、一発で即時解決! というような力は、人間にはありませんが、それでも、少しずつでも事態の改善を目指すことはできる。人類は、多分、これまでもそうやって様々な災害から生き延びてきたのでしょうね。
常にいいもの、常に悪いものというのはなくて、たいていは長所が反転して欠点にもなる。この物語のオアレ稲も異郷からもちこまれ、恵みをもたらした一方で、災害の引き金になるわけですが、何か新しいものが外からやってくることによって、私たちの生活も変化し続けてきた。その時にどう対応し、どう共存できるのかを観察し、想像し、知識を総動員して次の一手を模索することが希望に繋がっていく。変わらない世界はありません。変わっていくことも、私たち人類が対面せざるをえない世界のひとつのかたちなのだと思います」
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