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東大史料編纂所に所属する本郷さんはふだん一般の学生への講義はありません。そのなかで2022年、東大駒場の教養課程(1、2年生)で、理系も含め、日本史専攻でない学生に「変革期にあらわれる日本のルール」をテーマに講義をしました。歴史はなぜ、いかにして動くのか? 『東大生に教える日本史』は、東大での講義の内容をもとに、より分かりやすく、脱線もよりたっぷりと、新たに語り下ろしたものです。
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歴史学は推理の学問だ!
私は東京大学の史料編纂所というところに勤務しています。ここでの仕事は、『大日本史料』第五編という史料集を編纂することです。ちなみに第一編は仁和三年から寛和二年( 八八七年から九八六年)までの百年間で、第三編までが百年刻みになっており、第四編は文治元年から承久三年(一一八五年から一二二一年)、第五編は承久三年から正慶二年(一二二一年から一三三三年)まで。つまり、鎌倉時代を承久の乱で分けて、後半が私たちの担当となっています。もっと詳しく言えば、私の分担である建長年間(一二四九年から一二五六年)の史料を来る日も来る日も読んでいるわけです。
ですから、大学院生相手の授業はありますが、ふだんは一般の学生に教える機会はありません。それが二〇二二年冬学期、教養学部(一、二年生)相手の講義を受け持つことになったのです。
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これまで私が行ってきた大学院での授業は、基本的には歴史研究者を目指す人たちに向けてのものでした。そこでは、まず史料をきちんと読めるようになること、そして、その史料をもとに、どんな歴史的な事実が復元できるかを考えることが求められます。これまで積み重ねられてきた膨大な史料と研究成果の「山」に立ち向かい、自分なりの歴史像を探りながら、その「山」に何らかの足跡をつける、もしくは一握りの「新しい史実」を付け加える。そうした方法、読解力を身につけるのが、歴史研究者としての第一歩といえます。
ところがあるとき、私が教えていた大学院生A君から、こんな相談を受けました。
「先生、僕は研究者にはなりません。社会に出て働きたいのです。そんな僕にとって、歴史学はどんな意味があるのでしょうか」
ごくまっとうな質問ですが、私は一瞬、答えに窮しました。というのは、そのとき、大学院で学んでいる学生のほとんどは研究者、すなわち大学や研究機関などに就職し、日本史を研究することで食べていこうとしている人たちだったことと、私自身、恥ずかしながら、研究者以外に働いた経験がなかったからです。
しかし、この問いをはぐらかすわけにはいかない。そう考えて、必死に絞り出した答えは、「歴史学は推理の学問だ」ということでした。
当り前のことかもしれませんが、歴史上起きた事柄のすべてが史料として残されているわけではありません。捨てられたり災害に遭ったりして消えてしまった史料は数知れず、そもそも史料に残されることなく忘れ去られた事実や、関係者だけの「秘密」として書き残されなかった事実も数多くあったはず。また残された史料がこれまた穴だらけです。そうした大きな欠落を、史料以外のさまざまな歴史の知識、そして推理と想像力で埋めていくのが、歴史研究者の修業なのです。
この訓練は、私たちがいま生きている現代社会にも応用できるのでは? 私たちの社会も、実は、答えの見つからない問いだらけです。しかも、解決策を見出すために必要なデータがいつも見つかるわけではありません。そんなとき、手持ちのデータから、どんな全体像を推測できるか。そして、なんとか解決のための仮説を導けるか。こうした知的作業のトレーニングとして、歴史学はけっして無意味ではない――。そんなようなことをA君に語って、社会に送り出したのでした。
誰でも参加できる知的トレーニング
さて、問題は教養課程の学生への授業です。彼らは別に歴史学の研究者になろうというわけではありません。私が専門とするところの「史料の読み方、扱い方」を語っても、興味のない外国語の習得を押し付けられたようなもので、かえって拒否反応を招きかねません。歴史に興味を持ってもらう、さらには「歴史について考える」ということを面白いと感じてもらうにはどうしたらいいのか。
新入生たちはもれなく「受験勉強」というものを通過しています。受験勉強における「日本史」は、圧倒的に「暗記科目」という位置づけです。私は、時々「日本史を受験科目から外してもらったらどうか」などと発言して、歴史教育関係者から顰蹙を買ったりしているのですが、「歴史=暗記」という刷り込みこそ、「歴史嫌い」を増やし続けている諸悪の根源ではないかと、かなり真剣に考えています。
じゃあ、暗記しなくていい歴史講義をやってみよう。それが東大教養学部での講義のメイン・コンセプトになりました。そのためには、「歴史の転換点」、「時代の動き方」にポイントを置いて語ってみようと思ったのです。
受験用の「日本史」だと、歴史とは、すでに起こったことで、過去は変わりようがない、というイメージではないでしょうか。だから教科書に書いてあることを覚えるだけ、となってしまう。
しかし、歴史研究者である私が日々取り組んでいる「日本史」は、そんなおとなしいもの、言い換えれば静的なものではありません。もちろん史実は動きません。織田信長は本能寺で死んでいますし、徳川家康は関ヶ原で勝利を収め、ペリーは黒船でやってきます。しかし、そうした史実をどう意味づけるのかは、いまなお揺れ動いています。教科書の記述だって、実はどんどん変わっているのです。
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史実をどのように説得力をもって位置付けるか。そこで重要なのは「歴史像」です。時代がどう変わっていくのか、なぜ変わったのかといった問いに答えるには、この国の歴史、さらには私たちの社会についての見取り図が必要です。その見取り図、すなわち「歴史像」を自分なりにつくっていく作業は、けっして歴史研究者だけではなく、誰にも参加できる知的訓練であり、楽しみではないか。そんな「歴史を考える」きっかけになるような授業にしたいと思いました。
本書は、東大での講義の内容をもとに、新たに語り起こしたものです。今回、お話ししているうちにどんどん話が発展(脱線?)したり、自分でもあらためて考えたりすることも多くあって、かなり内容が膨らんでいます。史実を材料に、論理を組み立て、自分なりの歴史像をつくってみる。そんな楽しさを感じてもらえれば嬉しいです。
(『東大生に教える日本史』開講の辞 より)
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