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時代とともに教科書も変わる。かつては1192年だった鎌倉幕府の成立は、いまでは1185年に。しかし、本郷教授は「いや、本当の成立は1180年」だったと論じる。その根拠は? そして、その意味とは?
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◆◆◆
なぜ頼朝がリーダーとなれたのか?
十四歳から二十歳までを伊豆で流人として過ごした頼朝は領地も持たず、親や兄弟も死んだり離れ離れになっていて、家来もほとんどいないという状態でした。こんな無力な頼朝がなぜ東国武士のリーダーとなれたのでしょうか。
従来の見方では、「頼朝が源氏の御曹司だったから」ということになります。つまり、家柄、ブランドが決め手である、と。確かに昔も今もブランド力は無視できないパワーですが、それだけで片づけてしまっていいのでしょうか。というのも、これも後にあらためて論じますが、頼朝の死後、政権中枢を担った東国武士たちは、二代将軍頼家、三代将軍実朝が死に追いやります。それだけでなく、頼朝に繋がる源氏の一族を次々と殺していく。もし源氏ブランドが武士のリーダーに不可欠な要素だとしたら、なぜこんなことが起きるのか説明がつきません。
東国武士たちからみると、頼朝は担ぎやすい存在だったことも確かでしょう。東国武士が結集する際に、たとえば上総氏や千葉氏など大豪族がトップに立とうとすると、その時点ですでに政権抗争が生じてしまう。特に挙兵から鎌倉入りあたりでは、家柄はいいが、自前の武力をほとんど持たない頼朝は、それらの豪族を束ねるのにちょうどいい存在だったと思われます。
私が重要だと考えるのは、頼朝軍が戦勝を重ねたあと、ことに富士川の戦いで平家に勝利した後です。頼朝は、その勢いで京都に進軍しようとしますが、有力豪族である上総広常や千葉常胤、三浦義澄らが「そのほかの驕者、境内に多し」、すなわち「東国にはまだ、常陸の佐竹氏をはじめとする反頼朝の勢力も少なくない。西を目指すのは、そうした勢力を討伐してからだ」と反対します。
頼朝は上総らの要請に応えることを選びました。彼ら東国武士が求めていたのは、平氏を打倒することでも、ましてや京都に上って朝廷に仕えることでもありませんでした。あくまでも東国の平定と、土地の安堵。これに応えることが、自分の使命であると自覚した。言い換えれば、頼朝はここで東国武士たちのニーズをはっきりと見極めたのだと考えます。もっとも先にも述べたように、頼朝の本当の手勢と言えるのは北条氏くらいで、大軍勢を率いる上総らに離反されたら、とても京都進軍どころではなかったのも実状でしょう。
いずれにせよ、この東国武士の期待によく応えることができたのは、頼朝の優れた政治力だったといえるでしょう。頼朝は、東国武士たちの土地支配を保証するとともに(本領安堵)、ともに戦い、敵対勢力から奪った土地を褒美として適切に配分します(新恩給与)。東国武士たちは、それによって生じた頼朝への「御恩」に応えるために、御家人として命令に従う(奉公)。たとえば合戦に参加して、命を懸けて戦う。これが頼朝と東国武士との間に結ばれた主従関係でした。
頼朝が他の東国武士たちと一線を画していたのは、早くから大江広元や三善康信ら京都の下級貴族を、文官としてスカウトしたことです。この時代、東国武士の大半は文字が書けませんでした。朝廷では当然、文書による行政が行われていますから、事務能力では雲泥の差があったといえるでしょう。頼朝は、京都から中原親能やその弟、大江広元らを連れてきます。さらに伊豆に流されていたころから頼朝に京都の情勢を伝えていたの三善康信もやってきて、行政の業務に従事しました。彼らによって、頼朝政権は土地の権利の確定や配分などを行う事務能力を備えることができたのです。
こうして東国において、土地支配を、誰よりも迅速に効率よく実行できる権力が生まれます。頼朝を軸に結束した「武士の、武士による、武士のための政権」、これが鎌倉幕府でした。
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後白河上皇との外交戦
頼朝が東国において武士のリーダーたり得たもうひとつの理由として、朝廷との交渉力が挙げられます。先にも述べたように、東国武士の土地を安堵するには、既得権益を主張する朝廷と渡り合い、折り合いをつける必要がありましたが、東国において、そのような外交力を持っていたのは、京都生まれの京都育ちで人脈もある頼朝くらいだったのです。
頼朝は富士川の戦いのあと、十年間、一度も京都に足を踏み入れることなく、東国を治めることに専念します。御家人に対しても、朝廷から官位をもらうときは、必ず自分を通すように厳命し、勝手に朝廷からの任官を受けてしまった御家人に対して、「もう東国(具体的には美濃国墨俣から東)に戻ってくるな。帰ってきたら死罪にするぞ」と脅すなど、徹底して朝廷に近づけないようにしていました。
そうした状況をまったく理解できず、後白河上皇の罠にまんまとはまり、勝手に官位を受けて、頼朝を激怒させたのが源義経です。ここからが頼朝と後白河の外交戦です。後白河上皇は義経に頼朝追討の院宣を出しますが、それに失敗すると、今度は頼朝が北条時政を千騎の兵とともに上京させ、後白河上皇に院宣を撤回させます。加えて義経追討の名目で、全国に守護を、そして荘園や国衙領に地頭を設置する権利を認めさせるのです。この守護・地頭の設置により、東国のみならず、全国に御家人を送り込むことが可能になりました。一一八五年のことです。
頼朝はこの義経追討に伴い、義経をかくまったとして、奥州藤原氏をも攻め滅ぼします。そして藤原氏の領地を自らの領地に加え、御家人に分配することで、東国統治の基盤を固めていきました。
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後白河上皇との外交戦はこの後も続きますが、ここでみておきたいのは、一一九〇年、千騎の軍勢とともに頼朝が上洛したときのことです。東の権勢者となってはじめて後白河と対面した頼朝は、「君の御事を私なく身にかえて思候」(自分の身に代えても、後白河上皇のことを大切に思っています)と語ったと『愚管抄』に書かれていますが、私が注目するのは、その次の言葉です。頼朝は、「頼朝様は朝廷のことばかり気にしているが、わたしたち東国だけでやりたいようにやればよい」と発言した上総広常を、梶原景時に命じて殺させた、と後白河上皇に伝えます。それくらい自分は朝廷に恭順の意を尽くしている、というわけですが、そこには言下に二つのメッセージが込められているのではないか。ひとつは「大豪族である上総氏のトップさえ、自分の一存のもとに殺させ、しかも何の揺らぎも見せないほど、私は東国において権力を確立している」ということ、もうひとつは「私が治めているからこそ東国は落ち着いているのであって、自分がいなくなると、荒々しい東国武士たちを抑えきれなくなるよ」という脅しです。義経追討をめぐって北条時政を派遣したときもそうでしたが、朝廷との重要な交渉では必ず千騎という、当時としては大軍を伴っているのも、頼朝が自分のパワーの源泉が武力であることをよく知っていた証でしょう。
このように、頼朝には二つの役割がありました。ひとつは「東国の在地領主たちに土地を安堵する」ことです。さらに平氏や藤原氏との戦いで獲得した領地を配分することで、東国武士たちからの支持はますます高まっていきます。もうひとつは「それを既存の”政府”である朝廷に認めさせる」ことです。この二つが可能なのは、頼朝だけだった。それが「なぜ頼朝が東国武士のリーダーたりえたのか」という問いに対する答えとなります。
あらためて問う、鎌倉幕府の成立は何年?
鎌倉幕府は王家を相互補完し、軍事を担当する武家だったのか。それとも自立を求める在地領主たちがつくった東国政権だったのか。これは、有名になった「鎌倉幕府はいつできたのか?」問題にもあらわれています。かつての教科書では「いい国つくろう鎌倉幕府」で、一一九二年が鎌倉幕府の成立とされていましたが、今は一一八五年、「いい箱つくろう」になっていますね。この二つの違いは何か。
一一九二年は頼朝が征夷大将軍に任じられた年です。誰が任命したのか? 当然、朝廷=王家です。朝廷による承認を重視する点では、権門体制論的な見方ともいえるでしょう。
かつては征夷大将軍は、「武家の棟梁」「東国の支配者」を意味するもので、その地位を朝廷から与えられることで、頼朝の権力強化につながったとされてきました。しかし、実態をみると、頼朝が征夷大将軍に任じられる前と後とで、幕府のあり方も、頼朝の権力も、何も変わっていないのです。「征夷大将軍」という称号も、何ら実態的な権限が付与されていない、名誉職的なものに過ぎなかったことが分かっています。そもそも頼朝は、朝廷から与えられる役職に対して辞退と早期の辞任を繰り返しています。征夷大将軍についても、就任の二年後には、辞任の意向を示しました。
それに対し、一一八五年は、先にも見たように守護・地頭の設置の年です。頼朝を中心とする東国政権が、全国に勢力を広げることを朝廷が追認したわけで、鎌倉幕府を東国と中央のせめぎ合いと捉えると、確かにひとつの区切りといえるでしょう。
しかし、私は一一八五年説にも、いまひとつ納得がいきません。守護・地頭の設置を認めたのは朝廷です。一一八五年説も結局は、「朝廷が承認したから、幕府が成立した」という構図は変わりません。
しつこいようですが、鎌倉幕府をつくったのは頼朝であり、彼を担いだ東国の武士たちでした。むしろ朝廷の思惑に反し、その力を削ごうというさまざまな妨害にも耐えて、辺境の在地領主たちのグループ(私は「頼朝とその仲間たち」と呼んでいます)が勝手に力をつけてしまったのです。
その点を重視するなら、鎌倉幕府の成立はずばり一一八〇年。頼朝が鎌倉入りした年です。重要なのは「土地の安堵」です。ここまでに三浦、安西、上総、千葉、さらには足立、畠山、河越、江戸といった東国の武士たちが参集し、頼朝はすでに独自に土地の安堵を始めているのです。この状態はまさに「東国政権の成立」といえるのではないでしょうか。この説の難点はただひとつ、私以外に誰も支持者がいないことです。
ここで押さえておきたいのは、「鎌倉幕府は何年か?」という問いは、けして単なる年号の暗記ではないということです。鎌倉幕府とはいかなる政権であったか、という問題に直結する、本質的な問いなのです。
(『東大生に教える日本史』第一回講義「鎌倉幕府の誕生」より)
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