
- 2025.03.13
- 読書オンライン
「いやあ、ここは最高です。値段も最高級の施設のようですがね(笑)」作家・筒井康隆(90)が終の棲家に“高齢者施設”を選んだ“納得の理由”
筒井 康隆
出典 : #文春オンライン
作家の筒井康隆さんは、頸椎を痛めたことがきっかけとなり、2024年の夏に高齢者用住宅への転居を選んだ。終の棲家探しの条件は「夫婦で暮らす」「普通に食事をする」という二点だったが、仕事を再開することもできた。どのような日常なのか。病気になったときはどうなるのか。他の入居者との付き合いはあるのか。自宅とも病院とも違う、90歳からの新生活にお邪魔すると……。
◆◆◆
家で転んだのが始まりだった
「家で転んで、頸椎を怪我したのが始まりです。それまでピンピンして日常生活を送っていたんですが、怖いですねえ。一瞬にして、ほとんど全身麻痺ですからね」
卒寿を迎えた作家の筒井康隆さんが、神戸市の自宅を離れて高台の高齢者施設(住宅型有料老人ホーム)へ住み替えたのは、2024年の8月中旬。きっかけは3月下旬に廊下で転倒したはずみに、頸椎付近の神経を痛めたことだった。
「どうしていいかわからないから、家で寝たきりでした。かみさんがすぐに連絡して、逗子にいる義娘の智子さんが来てくれたんだけれども、もう、身体が動かない。夜中に何度も、二人が僕を両側から支えて便所へ連れていってくれた。それだけでみんなヘトヘトになっちゃって、病院へ入りました。ここがひどかったですねえ」
入院生活を振り返ると、苦々しい表情になる筒井さん。

「最初の病院に1カ月もいたんですよ。手足の痺れはよくならないわ、便秘になっても処置はできないわ、何もかも駄目でしたねえ。呼んでも来てくれない。他の部屋からも悲鳴が聞こえてましたね、来てくれーっ、と。それなのに看護師が廊下で笑ってるんですよ」
症状を改善すべく、4月末にはリハビリ専門病院に転院した。
「そこのリハビリ病院は素晴らしかったです。前の病院で便秘になって苦しかったのを、ナースさんが処置して、バーッと出してくれたんですよね。ものすごい量の便が出て、うれしかったなぁ。こんなに溜まっていたか、と(笑)」
転院直後は、めまいや手足のしびれがひどく、パソコンでの執筆どころか、ゲラ(校正紙)を読むこともできなかった。文芸誌に連載していた「自伝」も、月刊PR誌「波」の人気エッセイも、中断せざるを得なかった。専門病院で午前中に器械でのリハビリ、午後は主として作業療法に取り組むことで、症状はかなり改善され、お箸を持てるようになるまでに。
「リハビリはきつかったですね。スポーツ選手までが来るような病院でしたから、それはもう本格的なんですよ。こんな苦しいことは、年取ってからすることじゃない。もうこのまま弱っていってもいいから、何とか寝たきりでいたいと願いました(笑)。その代わりリハビリの病院だけあって、食事は良かったですね。前の病院と比べたら天と地の違いですね」
なにより辛かったのは、光子夫人と離れ離れの生活が4ヵ月も続いたことだった。見舞いに来た担当編集者たちにも、「私は妻を愛しているんです。はやくこんなところを出て、妻と一緒に暮らしたい。私を独房から脱獄させてください」と真剣な面持ちで訴えかけた。
夫婦での生活が最大の希望
しかし、車いすでの生活を余儀なくされたまま自宅へ戻れば、光子夫人に介護の負担をかける。そこで周囲から、高齢者施設への住み替えを提案された筒井さん。当初は高齢者施設とはどんなところか、あまりイメージできなかったという。
「最初に連想したのは、戦前のフランス映画『旅路の果て』。あれはすごい映画だった。もう舞台に立てなくなった役者さんばかりが暮らす古い風格のある建物で、いろんな事件が起こるんです。フランスには素晴らしいところがあるんだなと羨ましかったです(笑)」

いかにも「生まれ変わったら役者になりたい」とおっしゃる筒井さんらしいが、実際に退院後の生活に望む優先順位は、明確だった。
「夫婦で生活できることですね。長いこと妻と離れていましたが、これはまともな生活ではない。それが最大の希望でした。二番目は、病院食ではない、普通の食事ができるところで暮らしたい、と」
そこで光子夫人と智子さんがいくつか見学に行って選んだのが、現在暮らす住宅型有料老人ホーム。お二人の居室にてインタビューする筆者にミニキッチンで淹れたコーヒーとケーキをすすめながら「ほんとに年がいくと、なにが起こるかわかりませんねえ」と苦笑する光子夫人に、気に入った点を伺うと……。
「ここは丘の上で、お部屋の日当たりがいいでしょう。窓から緑が見えるのも、なんだか落ち着きますね。元の住まいからもそれほど遠くないので、何か必要なものがあっても、取りに帰れるわ、と思えて安心です。なにより、主人が車いすのままで生活できますから楽ですね」
夫妻の居室には居間、寝室、浴室、洗面所、車いす対応のお手洗いがあり、広々と感じられる。居間の壁に設置された手すりもしゃれたデザインで、病室の殺風景さからは程遠い。テレビや家具も新調して、居心地のよい住まいとなった。
ここでの生活は、毎日の食事時間が決まっているほかは、自由に過ごすことができる。
筒井さんの施設でのスケジュール

「自宅と同じようにはいかないけれども、毎日の食事のメニューをある程度、自分で選べたりします」
施設での献立と、それ以外にも…
献立表を見せていただいた。朝はパンかご飯、昼食・夕食は肉料理か魚料理。どちらか好きな方を選んで、三週間前までに渡しておくシステム。決められた時間になるとスタッフさんがお部屋に迎えに来て、一階の食堂へ。入居者の必要に応じて介助してくれる。

「それに、僕が美味しいものを食べたいと言ってるもんだから、時々、外食ツアーに参加します。これは僕ひとりのためじゃなくて、前々から開催されているんですね。この前は老舗の北京料理店へ行ってきました。参加者は我々夫婦を含めて五人で、介助の人が三人で連れていってくださった。こうしたオフの日には、他の参加者とおしゃべりしたりして、楽しいですね」
リハビリは週に二回か三回、一階のリハビリルームで理学療法士さんと軽く行う。また、一人での入浴が困難な筒井さんは、週に数回、特別な浴室へ。
「お風呂は機械が勝手にやってくれてますね。体全体を洗って、横倒しになるようなベッドに寝たら、ワーッと上に上がって、横に行く。ガーッと降りていったら浴槽の中。これは楽です」
「家のお風呂で手伝おうとすると、かえって二人ともひっくり返りそうやから、お任せできるのは安心です」と光子夫人もほっとした表情だ。
「パソコンはマックブックが三台ほどあるんだけれど、以前の病院には、うっかりだめな奴を持って行ってしまった。ようやく、こちらにいいパソコンを持ち込んだ。やっとこれで外部と連絡ができるようになりました。原稿を書いて、いちいち封筒に入れて出版社に送るような面倒なことをしなくても、メールで送れるようになった。だいぶ楽になりました。執筆は食事やリハビリの合間合間に、自由にやっています」
出版社経由で持ち込まれるさまざまな仕事の依頼にも、自身で諾否を判断してメールで返信する。これで、自宅にいた頃と変わらず、支障なく仕事ができるようになった。90歳を記念してのNHK-BSの特集番組では、施設の共用の応接室にテレビカメラを招き入れ、インタビューに応じることもできた。
「テレビ局とか雑誌の取材とか、外部からのお客さんが来るときも、みなさん一生懸命やってくれました。眠れないときは、夜中でも起きて仕事するんですが、幸いなことに、ここの方は、呼べば深夜でも来てくださる。それが一番、ありがたいですね」
日中は看護師さんが健康管理を担当。コールボタンを押せば昼夜、介護士さんが対応してくれる。
実はご夫妻、9月にコロナにかかってしまったのだが、この高齢者施設の対応は素早かった。
筒井さん「僕はそれほど高熱が出たこともないし、血圧もそんなに高くない。調子が悪かったという記憶もないんだけど、なんでコロナってわかったんだったかな?」
光子さん「少し咳が続いて、それから熱が出たんです。毎朝の検温でわかったのよね」
筒井さん「お医者さんが出張してくださって、この部屋で検査して。陽性だとわかった途端に、追い立てるように救急車で病院へ運ばれた。またあなたと引き離された。暗い病院で、嫌だったなあ。あなたもコロナだったけど、症状が出なかったから、入院せずにすんだんだよな。帰ってこられて、ほんとに嬉しかった」
日々の健康チェックからホームドクターの往診、地域の病院と連携してのスムーズな入院まで、はからずも身をもって実体験することとなった。
高齢者施設の生活に向く人、向かない人
高齢者施設での生活に向く人と向かない人がいるのかどうか、筒井さんの考えを聞いてみた。
「向き不向きはあるでしょうね。他の入居者と交流があるのは、食堂へ行くときぐらいですけどね。我々は夫婦で向かい合って食事を取れるけれど、お一人で入居されている人は、一人で食事をするか、誰かと向かい合うことになってしまう。一人を好む人はいいんでしょうけど」
そこで、高齢者施設のほうでも、他の入居者との交流や心身のリフレッシュ、認知機能の維持 ・向上を目的として、リクリエーションのプログラムを設けていることが多い。
「ここでもやってます。歌ったり書道をしたり。僕は行ったことないけど、あなたは漢字テストを持って帰ってきて、僕に見せるじゃない」
光子さんが見せてくださる「ことわざクイズ」はすべて花マルつきの満点ばかり!
「ちょっとヒントがあるんですよ」と笑う光子さん。参加したい人がそれぞれ、クイズ用紙をもらって、自分のペースでできるところがよいという。
満足度はたいへん高いと言うお二人
一種の集団生活でもあるため、ほかの入居者とどのくらい親しくすればよいのか、というあたりも気になるところ。
光子さん「おしゃべりもしますが、その場限りですね。でも、みなさん親切ですよ、優しくて」
筒井さん「いろんな人がいますから、へたに深入りしなくてもいいんですよ。僕もオフで一緒になるときにはお話ししますが、帰ってきて食堂で会っても、お互い、だいたい忘れてる(笑)」
実際に暮らしてみての満足度はたいへん高いと言うお二人。欠点や要望があれば教えてください、と筒井さんに伺ってみたが、「いやあ、ここは最高です。値段も最高級の施設のようですがね(笑)」と含み笑いされるところは、さすが『富豪刑事』の作者なのだった。
他の入居者やスタッフの人たちとも、食事の時間を確認したり台風の進路を心配したり、日常的なコミュニケーションを取りつつ、お互いのプライバシーにはあえて踏み込まないよう、節度をもったやりとりを心がけるのが、円満な暮らしの秘訣かもしれない。入居者それぞれの状況に応じた介護や、いざというときの医療サポートを受けつつ生活できるのが、住宅型有料老人ホームの魅力だろう。
写真撮影のため、筒井さんにパソコンを開いていただいたところ、筒井ファンとの交流の場であるウェブサイト「笑犬楼大飯店」に、新たなメッセージが。
筒井さん「おい、Kを予約したんだって。フレンチ、行けるぞ。Mさんが手配してくれる」
光子さん「まあ、うれしい」
筒井さんを囲んでの食事会の準備が進行中。施設側と智子さんが細やかに連携し、介護スタッフの同行は必要か、介護タクシーの手配など、細やかにサポートされている。
「僕の小説を愛読し、オフ会を企画してくれるファンの連中がいる。いつまでも、ありがたいことです」
高齢者施設での生活でも、パソコンは筒井さんにとってのライフライン。ファンとの交流も編集者とのやりとりも、自宅と同じように行える。今後は、連載を再開した「自伝」を完結まで書ききりたいと、意気込みを語った。
取材・文◎田中光子(『文學界』編集委員)
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