2019年本屋大賞受賞『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ 著)の冒頭を公開します。
何を作ろうか。気持ちのいいからりとした秋の朝。早くから意気込んで台所へ向かったものの、献立が浮かばない。
人生の一大事を控えているんだから、ここはかつ丼かな。いや、勝負をするわけでもないのにおかしいか。じゃあ、案外体力がいるだろうから、スタミナをつけるために餃子。だめだ。大事な日ににんにくのにおいを漂わせるわけにはいかない。オムライスにして卵の上にケチャップでメッセージを書くのはどうだろう。また優子ちゃんに不気味がられるのがおちかな。ドリアに炊き込みご飯にハンバーグ。この八年で、驚異的に増えた得意料理を頭に並べてみる。何を出しても優子ちゃんは、「朝から重すぎるよ」と言いながらも残さず食べてくれるだろう。でも、きっと、今日は話が尽きない。冷めてもおいしくて、簡単に食べられるものがいい。
「卵料理はみんないろいろ作ってくれたけど、森宮さんのオムレツは固まり具合がちょうどよくて一番おいしい」
いつか優子ちゃんはそう言っていたっけ。そうだ。ふわふわのオムレツを挟んだサンドイッチにしよう。そう決めると、バターと牛乳、そして、たくさんの卵を冷蔵庫から取り出した。
第1章
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困った。全然不幸ではないのだ。少しでも厄介なことや困難を抱えていればいいのだけど、適当なものは見当たらない。いつものことながら、この状況に申し訳なくなってしまう。
「その明るさは悪くないとは思うけど、困ったことやつらいことは話さないと伝わらないわよ」
真ん前の席に座った向井先生が言った。
二年生最後の進路面談。教壇の前に設置された机を挟んで、担任の先生と向かい合わせで話す。いつもは狭苦しい教室も、二人だとずいぶん広く感じる。
困ったこともつらいこともない私がどう答えるべきか迷っていると、
「言いたくないことは言わなくてもいいけど、家庭での様子も把握しておきたいから。ね、森宮さん」
と先生は言った。
「森宮……。そう森宮です」
「森宮」と呼びかけられ、苗字を唱えるように言う私を、先生はいぶかしげな顔で見た。まだ自分の苗字すらあやふやだなんてと思っているのだろう。
「ああ、あれですよ。友達や周りの人は、私のこと優子って呼ぶから、苗字がぴんと来なくて」
私が本当の理由を述べると、「ああ、そうね。優子はいい名前だもんね」と先生は軽くうなずいた。
優子はありきたりで平凡な名前でありながら、いい名前であるのは事実だ。十七年生きてきて、つくづくそう思う。響きがいいし、耳になじみやすいというのもあるけど、「優子」の最大の長所は、どんな苗字ともしっくりくるところだ。
生まれた時、私は水戸優子だった。その後、田中優子となり、泉ヶ原優子を経て、現在森宮優子を名乗っている。名付けた人物は近くにはいないから、どういう思いで付けられた名前かはわからない。でも、優子は長い苗字とも短い苗字とも、たいそうな苗字ともシンプルな苗字とも合う名前ではある。
「いろいろ経験してきた分、名前どおり、森宮さんは優しいところはあるものね」
「はあ……」
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