トランプ・ショック
二〇二五年、再びアメリカ大統領の座についたトランプは、世界を混乱の中へと突き落とした。特に、四月二日にトランプ大統領がすべての国を対象に関税を課すことを宣言すると、世界経済は乱気流の中に突入したような状態に陥った。
メディア上では、これを「トランプ・ショック」と呼ぶ者もいる。
本書が書き終えられたのは二〇二五年五月三一日であるが、事態は流動的であり、ほかならぬトランプ大統領の行動が予測不可能である。したがって、本書が世に出た後には、状況はまた大きく変わっているのかもしれない。
しかし、本書は、トランプ大統領が何をしたかという個別の事件を追うのではなく、トランプ・ショックという現象を生みだした世界の構造や潮流を全体としてとらえようという試みである。
したがって、もしこの試みが成功するならば、今後、トランプ大統領が何を仕掛けようが、あるいはトランプ政権が終わろうが、本書の基本的な有効性は変わらないはずである。言い方を変えれば、本書によって、筆者の世界の構造や潮流を読む力が試されているというわけだ。
改めて、二〇二五年一月の大統領就任から五月末日までの動きを、関税措置を中心に、簡単に確認しておこう。
二月、トランプ大統領は、カナダ、メキシコからの大半の輸入品に二五%、中国からの輸入品に一○%の追加関税を課す大統領令に署名し(中国に対する追加関税は三月に二○%に引き上げられた)、続けてすべての国から米国に輸入される鉄鋼、アルミニウム製品の輸入に二五%の関税を課す大統領令に署名した。
さらに四月二日、トランプ大統領は、すべての輸入品に一律一○%の基本関税を設定し、その上で、貿易相手国によって異なる追加関税(「相互関税」)を課すと発表した。中国には三四%(既存の関税と合わせると五四%)、EU(ヨーロッパ連合)には二○%、日本に対しては二四%の関税が課されることとなった。
この相互関税の発表により、株式市場は大きく下落し、安全資産とされる米国債までもが急落した。こうした金融市場の混乱を受けてのことと思われるが、四月九日、トランプ政権は、二日に発表した相互関税を九○日間停止することとした。しかし、報復関税措置を行った中国に対しては、関税を一四五%にまで引き上げた。この九○日の猶予期間の間に、各国はアメリカと関税を巡って交渉を行うこととなった。
五月八日、トランプ政権は、イギリスとの貿易協定の締結に合意した。五月一二日には、アメリカと中国は、一二五%まで引き上げた相互関税率を三四%に戻した上で、そのうちの二四%の執行を九〇日間停止し、追加関税を一〇%とすることで合意した。
五月二八日、アメリカの国際貿易裁判所は、貿易を規制する独占的な権限は憲法により議会に与えているなどとして、トランプ大統領が課した追加関税の大部分の差し止めを命じた。ただし、翌日、連邦巡回控訴裁判所(高裁)は国際貿易裁判所の判断を一時的に停止させる判断を下した。
本書は、ここまでの経過を見ながら、書かれている。
元外務審議官の見解
本論に入る前に、一つの参照点として、元外務審議官の田中均に対するインタビュー記事を見ておこう。(1)なお、このインタビューは、二〇二五年四月二四日に行なわれている。
田中は、一九八五年から一九八七年に北米局北米二課長として、二〇〇〇年から二〇〇一年には経済局長として日米経済摩擦問題を担当した経験をもち、二〇〇一年から二〇〇二年にはアジア大洋州局長を務めた。
この経歴からも明らかなように、田中は、日本の対米外交に精通した有識者である。その田中が、トランプ・ショックをどう見ているのか。
インタビューの冒頭、「トランプ政権のやり方をどう見ますか」と問われた田中は、「通常の感覚で言えば『言葉を失う』」と答えている。彼も、トランプ・ショックに動揺を隠せないでいる。
その上で、田中は、トランプ政権による関税措置について「関税政策というだけではなく、一種の統治革命」だという見解を示している。
統治革命とは、どういうことか。
通常の外交は「複雑なコンテクスト(状況)の中で、短期的、中期的、長期的な利益を考えてやる」ものであるが、トランプは、既存の体制や規範の積み上げを無視し、自分の判断だけで、短期的な利益のために「取引」をする。これは「一種の統治革命」だと田中は言う。
日本は対米関税交渉にどう臨むべきかと問われた田中は、「無理に妥協せず、日本の利益にかなう合意をつくればいい」と応じている。田中は、トランプのやり方は経済難を引き起こして失敗するので、長くは続かないと見越しているのである。
いずれトランプの理不尽な行動は、どこかで挫折する。中国に高関税をかけてアメリカ経済が成り立つわけがない。アメリカ株は下がり、国債価格は落ち、金利は上がる。ドルの信任は落ちる。理不尽な政策を撤回させるには、アメリカの経済指標が変化するしかない。他の国がアメリカを叩いても、それで変えるようなトランプではない。
今のアメリカは過去のアメリカではない
田中は、アメリカはもはや覇権国家ではないことに注意を促し、かつてのようにアメリカの指導力に依存することはできないという判断を示す。
今のアメリカは過去のアメリカではない。過去には、圧倒的な力を持ち、軍事や経済だけではなく世界を率いる指導力があった。今は指導力がどんどん落ちている。
(略)
ヨーロッパでは首脳が集まり、いかにアメリカ依存を減らすか議論している。経済だけでなく安全保障面でもだ。ロシアが脅威として存在する中で、ヨーロッパにとってみれば一種の生き残りの問題であり、自分たちで守るしかないとなってきている。
アメリカの覇権が終わりを迎える中、ヨーロッパは、軍事的にアメリカから自立することを模索し始めている。それでは、日本は、どうすべきであるか。
日本は安全保障の面でアメリカ依存を脱却できるとは思わないが、アメリカの保護主義について「日本もそうだ」と言う必要はない。むしろ自由貿易の旗を掲げるべきだ。そうやって、ヨーロッパや中国との関係において、アメリカとの差を際立たせることが必要だ。
(略)
日本の国会では、(略)、国のために短期、中期、長期にどういう方向でいくかということを考えてもらいたい。もう少し全体を見てもらいたい。大きな構図の中で考えないと間違える。最初に日本が相手にされたことを多として進めるのは好ましくない。淡々とやるべきだ。
田中の言う「大きな構図」とは何か。それは、日本がルールに従った自由貿易の枠組みを提示し、その枠組みに「中国や韓国やインド、それから台湾も入れる。日本は自由貿易をコアに貿易を拡大していく。そうしていると、EUも『入れてほしい』となっていく。大きなチャンスがある」という構想である。
そのような構想をアメリカは不快に思うのではないかという懸念に対し、田中は「仮にアメリカがそう思っても、『それがどうした』『自由貿易の拡大が悪いことですか』と言えばいい」と一蹴している。
インタビューの最後に、田中は、次のような見通しを示している。
トランプは、過去の合意や国際的な多国間の協調を無視して進めることは、自国の利益にならないことを知らないといけない。それ次第で、中間選挙の勝敗が変わってくる。4年後に「トランプ的な人」が引き続き大統領につくかどうかにつながってくる。他国が何と言おうと彼の認識は変わらない。何が変えるかというと、すでに申し上げたように経済指標だ。トランプは商売人だから。
問題は関税ではなく、通貨である
トランプ・ショックを受けての田中均の見解は、次のようにまとめられるであろう。
第一に、ルールに従った自由貿易という既存のリベラルな国際経済秩序は、アメリカを含む世界各国に利益をもたらすものであり、これを堅持すべきである。
第二に、トランプ大統領は、「取引」により短期的な利益を達成することしか考えていない「商売人」に過ぎない。
トランプ・ショックは、トランプという特異な性格の者が大統領になったがゆえに引き起こされたものであるから、大統領が代われば、アメリカはリベラルな国際経済秩序へと戻ってくる可能性がある。
第三に、リベラルな国際経済秩序に反するトランプ政権の理不尽な行動は、株価や米国債あるいはドルの急落という結果を招く。経済指標が悪化すれば、トランプ大統領はリベラルな国際経済秩序がアメリカの利益になることを悟って翻意するかもしれない。
おそらく、このような見解は、田中だけでなく多くの有識者にも共通する認識ではないかと思われる。
しかし、本書では、こうした認識とはまったく異なった主張が展開される。あらかじめ、その要点を示せば、次の通りである。
まず、既存の国際経済秩序には致命的な欠陥があり、その欠陥こそがトランプ・ショックの原因である。
そして、(トランプ大統領自身の見解はともかく)第二次トランプ政権が企てているのは、この既存の国際経済秩序、とりわけ国際通貨体制を再編することである。
しかし、第二次トランプ政権の企ては必ず失敗する(その点に関しては、田中に同意する)。ただし、第二次トランプ政権の失敗は、リベラルな国際経済秩序を復活させるのではなく、その崩壊を決定づける。戦後のドルを基軸通貨とする国際経済秩序が終焉を迎える可能性すらあるのである。
実は、この世界の歴史的な構造変化の中軸にあるのは、通貨である。トランプ・ショックによって、人々は関税に目を奪われている。しかし、トランプ・ショックの本質は、関税にではなく、通貨にある。したがって、通貨というレンズを通して見れば、世界で何が起きているのかが、よりはっきりと見えてくるであろう。そのためには、通貨の本質を正確に理解することが決定的に重要となる。
これが、本書を貫く中核的な主張である。
※本書は筆者個人の見解である。
(1) 田中均が語るトランプ関税交渉の突破口「日本は自由貿易の旗を掲げ、中国も含めて推進するべきだ」(東洋経済オンライン2025年5月4日付)
https://toyokeizai.net/articles/-/874921
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