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過去に拘らず、いまを生きろ!――忘却力発揮のススメ。

過去に拘らず、いまを生きろ!――忘却力発揮のススメ。

土屋 賢二

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #随筆・エッセイ

 歳をとって記憶力がなくなったと嘆くあなたへ――哲学者であり、ユーモアたっぷりのエッセイで知られる土屋賢二さんの最新作『記憶にありません。記憶力もありません。』に書き下ろした「まえがき」を特別公開。過去にこだわらず「いまという瞬間」を軽やかに生きる、とっておきの方法。を説こうとしたが、最後まで覚えていられなかった。いまでは何を書いたか記憶にない。

◆ ◆ ◆

夫婦はなぜ喧嘩をしなくなるのか

 遠くのベンチに座っている人を見て、だれに似ているか言い争いになることがある。次の老夫婦の会話がその一例である。

「ほらあの俳優に似ているわね。俳優、何という名前だっけ?」

「そう、おれもそう思ったよ。映画館で昔見たよね。池袋だった? 有楽町だっけ?」

「池袋じゃないわ。帰りに喫茶店でピラフだったかスパゲッティだか食べて、まずかったじゃない。池袋にはそんな喫茶店はなかったわ」

「そうかなぁ。その喫茶店、花の名前じゃなかった?」

「違うわよ。都市の名前だった」

 記憶の断片をもとにして推理をするが、すぐに迷宮入りして、謎は深まるばかりとなる。すでにこの段階では、そもそも謎が何だったのか、ふたりとも分からなくなっている。ちなみに、最初に俳優に似ていると言ったとき、夫が思い浮かべていたのは日本の時代劇俳優、妻が思い浮かべていたのはハリウッドの女優だったから、絶対に合意に達することはない。こうして、何一つ合意に達しなくても喧嘩になることはない。ちょうどペットとは意思疎通がほとんどできなくても、いやできないからこそ、喧嘩にならないのと原理は同じである。

 老夫婦が喧嘩をしなくなる大きい原因は、喧嘩のタネになることを覚えていられないからだ。

 だから記憶力がなくなるのは、悪いことばかりではない。人から借りたことは忘れる代わりに、貸したことも忘れるが、いまのうちに借りられるだけ借りておけば大損をすることはない。

 約束もトラブルのもとだ。だいたい、未来の行動を縛る権利はだれにもない。約束がなくなれば人間は自由闊達に生きられる。電車が時刻表通りに来るのは便利だが、五分遅れようが、二時間遅れようが、人生全体からみればたいした違いはない。

 予定もそうだ。人の行動を縛るのは行事だろうが式典だろうが、すべて廃止すべきだ。予定のいいところは、飲み会に誘われたとき、「予定がある」と言って断る口実になることぐらいだ。記憶力がなくなれば怖い物なしだ。卒業式があろうが自分の結婚式があろうが、好きなところに行けばいい。連絡があっても、「いま沖縄に来ています。何かご用ですか」と言えば問題ない。

 さらに記憶力がなくなれば精神衛生によい。クヨクヨすることもなくなる。クヨクヨしているうちに、何にクヨクヨしているのか分からなくなり、すぐに立ち直れるのだ。ちょうど冷蔵庫の前に行って何を取りに来たのか思い出せなくなるのと同じだ。そのたびに食べなくてすむのだから、ダイエットにもなる。ただし食べたばかりなのに食べたことを忘れてもう一度食べることがあるから要注意だ。その場合でも、家族が「お父さん、さっき食べたでしょう?」と嘘をつけば、一食でも二食でも抜き放題だ。

人生をナマのまま味わうには

3歳のときの土屋氏。記憶力全盛だったころ。このころのことはほとんど記憶にない。

 こうしてみると、記憶がなくなるとトラブルの大半は回避できるが、それだけではない。

 何よりも、人間の生き方の根本に影響する。人間は、ともすれば過去に拘泥して、人生を見失いがちだ。だから「いまという瞬間を生きろ」と叫ばれたりするのだ。だがそれを実行するのは至難の業だ。どうしても過去にこだわってしまうからだ。

 だが記憶力がなくなれば、簡単に「いまという瞬間を生きる」ことが実現し、そのとき人生をナマのまま味わうことができる。

 

 最後に本書の楽しみ方だが、本書を買ったら、忘却力を発揮して、買ったことを忘れていただきたい。そうすれば、購入時の喜びを何度も味わうことができる。これこそ最高の読書の楽しみ方だ。

 なぜかというと、何事も、必要なものを買うときほど、心ときめく瞬間はない。教科書でさえ、入学時に新しい教科書を手にしたときの興奮をピークとして、時間とともに低下するし、ゴルフの道具でも楽器でも買うときが一番胸ときめく瞬間だ。時間がたつと、教科書も楽器もゴルフの道具も見飽きてしまい、最後には見るのもイヤになってしまうのがふつうである。

 娯楽本も例外ではない。本書を購入したときの喜びをいつまでも味わうために、購入したことはさっさと忘れ、すぐに再購入することをおすすめする。

著者プロフィール
土屋賢二●岡山県玉野市生まれ。お茶の水女子大学名誉教授。哲学者。『週刊文春』で「ツチヤの口車」を長期連載中。2020年には、連載をまとめたエッセイ『無理難題が多すぎる』が本屋大賞の発掘部門を受賞。2025年7月に『記憶にありません。記憶力もありません。』を刊行。

文春文庫
記憶にありません。記憶力もありません。
土屋賢二

定価:792円(税込)発売日:2025年07月08日

電子書籍
記憶にありません。記憶力もありません。
土屋賢二

発売日:2025年07月08日

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