近年のミステリー・ランキングの常連であり、『嘘と隣人』が第173回直木賞候補となった芦沢央さん。芦沢さんの社会派ミステリー作品『夜の道標』が、9月14日からWOWOWにて連続ドラマ化されます。実は『夜の道標』で事件を追う窓際刑事、平良正太郎の退職後を描いた作品が『嘘と隣人』です。ドラマ化を記念して、芦沢さんに作品について聞きました。
◆◆◆
【ドラマあらすじ】
1996年、横浜市内で学習塾を経営する講師・戸川勝弘が殺害された。被害者の元教え子で軽度の精神障害を抱える阿久津弦(野田洋次郎)が容疑者として捜査線上に浮かぶが、事件発生から2年たった今も足取りはつかめない。捜査が縮小する中、窓際刑事の平良正太郎(吉岡秀隆)が刑事課長・井筒勲の指示で、若手刑事・大矢啓吾(高杉真宙)とともに戸川殺しの再捜査をすることにーー。

――完成したドラマをご覧になっていかがでしたか。窓際刑事の平良正太郎役に吉岡秀隆さん、1996年の殺人事件の容疑者・阿久津弦役にRADWIMPSの野田洋次郎さん、阿久津をかくまう同級生・長尾豊子役に瀧内公美さん、平良の相棒の若手刑事役に高杉真宙さんと豪華なキャスト陣が揃い踏みです。
芦沢央(以下、芦沢) とても幸せなドラマ化だと思いました。
本当にキャストの皆さん一人ひとりが登場人物について深く考えてくださっているのが伝わってきて、私が原作で書いていたシーンでも、そうかこの人はこのときこんな表情をしていたのか、と教えてもらったように感じることも。
ストーリーは全部知っているはずなのに、想像以上に感情を揺さぶられて圧倒されました。
吉岡秀隆さんがドラマについてのインタビューで「WOWOWのドラマは映画でもあり、テレビドラマでもあり、全話でひとつの作品になっている」とおっしゃっていましたが、まさにその通りで、すべてのシーンが見逃せない緊迫感を持っていると思います。

――ドラマ化のお話を初めてお聞きになったときはどのように思いましたか。
芦沢 原作は、一人ひとりの切実な人生の断片が絡み合うことで浮かび上がる光景、奇跡的な化学反応のようなものを、私自身が見たくて書いた物語です。
実は、執筆前には絵コンテのようなものを描いてそれぞれのシーンのイメージや視点の距離感をつかんでいっていたので、正直なところ、映像化されることへの不安もありました。
でも、WOWOWの製作陣の皆さんとお話をする中で、この方々にお任せすれば大丈夫だ、映像のプロの皆さんの化学反応の結果どんな光景に出会えるのかを楽しみにしよう、と心強く感じたのを覚えています。
「事件が起きた日に何があったのか」をあえてすべて書かなかった原作
――ドラマならではの楽しみ方や、見どころを教えてください。
芦沢 原作では、「事件が起きた日に何があったのか」をあえてすべては書いていません。正確には、第一稿では阿久津自身が語るシーンを書いたものの、阿久津という人物はその日の出来事や、そのときの感情を言語化するだろうか、「真相」として提示するのは作者である私の都合でしかないのではないかと考えたため、削りました。
わかりやすい形で提示することで、読む人が何となくわかったような気持ちになってしまうのも嫌で、わからない部分が残っているからこそ思考を深められるのではないか、と読者を信じる決断をしました。

刊行後、読者の方一人ひとりのご感想を読んで、その決断は正しかったのだと胸が熱くなりましたが、映像では阿久津自身が言語化しなくてもその日の出来事を描くことができるので、製作陣に私の手元にあった第一稿をお渡しして、それを参考に事件当日のシーンも作っていただきました。今度は製作陣を信じようという判断です。
抑制の効いた脚本と、野田洋次郎さんの余白のある素晴らしい演技によって、映像でしか表現できないシーンにしていただいたと感じています。

――「かつて現実にあった社会問題」がドラマの謎を解く鍵となります。差別や偏見に繋がることが問題となったこの“社会問題”をテーマにされたのはなぜでしょうか。
芦沢 数年前から「正しさが変わること」について考えるようになりました。今、自分が信じている正しさが、いつか正しくないことになるかもしれない。そのとき、他でもない自分が自分自身を許せなくなるかもしれない。そんな恐怖を抱く中で、長い期間残る「本」という媒体で物語を書くことに抵抗を覚えるようになりました。
けれど私は結局、物語を書くことでしか思考を深められないんですよね……延々と考え続けていくうちに、以前から関心があったこの社会問題が、まさに正しさの変化と深く関わっていることに気づき、改めて向き合いたいと考えました。
窓際刑事・平良正太郎のその後
――窓際刑事ながらも犯人に迫っていく平良正太郎の退職後を描いたのが『嘘と隣人』です。平良のその後を描こうと思った理由を教えてください。また、『夜の道標』と比べて、テーマや読み心地の違いなどで意識された点はありますか。

芦沢 実は、私が最初に書いた平良正太郎の物語は、『嘘と隣人』に収録されている「アイランドキッチン」でした。
定年退職後の元刑事が、日常の中で過去の事件に向き合うことになる話を書きたいと思い、短編として書き上げたのですが、その後『夜の道標』のアイデアを練っていくうちに、ちょうど正太郎が現役時代の頃だなと気づき、彼ならこの1996年の事件にどう向き合うのか知りたくなった、という流れです。

『夜の道標』では、組織で生きる刑事として苦悩しながら捜査をしていくのに対し、『嘘と隣人』ではしがらみがなくなった代わりに捜査権限もなくなっています。
「仕事でもないのに調べる資格があるのか」と葛藤しながら、それでも謎や他者の悩みに寄り添わずにいられない――『夜の道標』をお楽しみいただいた方には、ぜひそんな正太郎が描かれる『嘘と隣人』もお手に取ってみていただけたら嬉しいです。