その別れはもはや伝説である。1998年5月7日午後、築地本願寺(東京都中央区)で執り行われたのは人気ロックグループ「X JAPAN」のギタリストで、ソロアーティストでもあるhideの告別式だった。5日前に33歳で急逝していた。

hideが書いた手紙には… ©︎時事通信社

 参列者は約5万人で、その数は歌謡界の女王、美空ひばりの時よりも多かった。

ひつぎに寄り添った難病少女

 急死の翌日から出棺の日まで、ひつぎに寄り添うファンがいた。当時17歳の貴志真由子だった。難病の真由子をhideが励ましたのをきっかけに、交流が続いていた。真由子の母和子が言う。

「危篤になってもhideさんの声を聞くと、元気になったんです」

真由子さん

 告別式が終わり、遺体が寺を出た。真由子の乗ったマイクロバスも続く。ファンの悲鳴が真由子の車を包んだ。その時だった。真由子が大声で泣き出したのは。横にいた和子は鮮明に覚えている。

「ずっと泣かなかったのに、突然でした。自分だけはすぐ横でお別れができた。それもできないファンを思うと、可哀そうで泣けたんだと思います」

ダメもとだった「hideさんに会いたい」の連絡

 真由子とhide。年齢も境遇も違う2人を結びつけたのは、昨夏がんで亡くなった大野寿(ひさ)()(享年73)だった。難病の子どもたちの夢をかなえるボランティア団体「メイク・ア・ウィッシュ」日本支部(MAWJ)の元事務局長で、生涯で3000人を超える子どもの夢を実現しようと奔走した。

昨夏亡くなった大野寿子さん

 寿子は生前、「メイク(MAWJ)が大きくなって、多くの子どもの夢を実現できたのは、真由子ちゃんとhideさんのお陰でした」と話した。

 和子がMAWJを知ったのは、hideが亡くなる3年前の95年秋だった。骨髄移植関係の会報で連絡先を知り、電話をした。

「骨髄移植の前に思い出を作ってやりたいんです」

 電話を受けた寿子が和歌山市内の自宅で夢を聞くと、真由子は答えた。

「hideさんに会いたい」

 断られても仕方ない。寿子はそう思いながら、hideの事務所を訪ねる。真由子の思いを和子が綴った手紙を渡すと、事務所側は「hideはやると思います」と言った。本人は米ロサンゼルスにいた。

 寿子から「会えそうだ」と連絡を受けた時のことを和子が回想する。

「電話を受けながら、すぐ横にいた真由子と2人で、『うそ? うそ?』って。信じられなかったです」

目の前で『紅』のイントロを…

 真由子が東京ドームで「X JAPAN」の公演を楽しんだのはその年の大みそかだ。公演後、真由子たち家族と寿子が控え室で待っていると、hideは舞台衣装のまま入って来た。

「どうだった?」

「うれしかった」

 真由子が答える時、hideは自分の耳を軽く真由子の方に傾けた。和子は思った。

「hideさんはあの手紙を読んでくれたんだ」

 手紙には、「病気の真由子は大きな声が出せない」と記していた。

 報道陣が囲む中、真由子は自分で編んだマフラーを手渡した。hideは首にくるっと巻き、用意した黒いギターにサインをする。『紅』のイントロをつま弾き、そのギターを真由子に贈った。

世界で23例目の難病

 真由子は81年3月、父政人、母和子の次女として生まれている。姉の(ひと)()とは2歳半違いである。和子によると、子どものころからよく転んだ。

「変だなと思って、お医者さんに相談していました」

 しかし、異常は見つからず、「早生まれだから、成長が遅く感じるのかも知れません」と言われた。

 小学校5年生になると、座っていてもすぐに体を横たえる。和子はより詳しく検査してもらおうと、日本赤十字社和歌山医療センターなどいくつかの病院を訪ねた。最終的にたどり着いたのが「GM1ガングリオシドーシス(Ⅲ型)」という難病だった。

 医師によると、当時世界で23例目、真由子が最年少の患者である。脳をはじめ全身の臓器に糖脂質などが蓄積し、話しづらくなったり、運動機能が低下したりする。20歳までに亡くなる可能性が高い。

 米国の非営利団体「メイク・ア・ウィッシュ」が沖縄に日本支部を作ったのは92年だ。事務局を東京に移した94年、寿子はスタッフとなる。

大野寿子さん ©文藝春秋

 課題は知名度の低さだった。寿子はhideと真由子の出会いを、メディアに取り上げてもらおうと思った。それには真由子の了解が必要だ。和子によると、本人は当初拒否した。

「病気の体を撮影されるのが嫌だったようです」

 それでも最終的に取材を了承する。院内学級の先生から言われた言葉が決め手となった。

「その仕事は真由子ちゃんにしかできないの。お母さんにも、お父さんにも、ボランティアの人にも無理なの。あなたは神様に選ばれて難病になった。それはあなたなら、この病気をみんなに知らせてくれると神様が信じたからなんだよ」

真由子さんを励ましたhideの手紙

 東京ドームでの2人の交流は、民放テレビなどで紹介された。

 寿子がつないだ縁をきっかけに真由子とhideは頻繁に連絡を取り合っていく。96年3月末、15歳になったばかりの真由子は一時、危篤になる。それを知ったhideは病床に駆けつけ手紙を書いた。

〈がんばらなぁ……ね。

 それからそれから チーズケーキな

 チーズになるかと思う位、すっごいの喰おうな……〉(一部抜粋)

 真由子は死の淵から生還した。

 2人はなぜ、これほど深く交流できたのだろう。hideは96年、記者会見で真由子の魅力についてこう語っている。

「あんなちっちゃい体でね、そんなおっきな病気と闘っているっていうとこ、(中略)そういう闘ってる姿にやっぱり惹かれますよね」(遠藤允著『hide「がんばんだぞ」』)

大野さんの奇跡のような人生の最期を克明に描いた『かなえびと 大野寿子が余命1カ月に懸けた夢』(文藝春秋刊)

「約束のチーズケーキ」は今も続く

 和子は2人の性格に似た面を見ていた。

「共に過去よりも将来を見ていたと思います」

 それを示すエピソードがある。病院で隣のベッドの子が9歳の誕生日を迎えた時、真由子が母に依頼した。

「私のお小遣いで花を10本買って、あの子にプレゼントしてほしいの」

「9歳の誕生日なのよ」

「10歳に向かって生きてほしい。だから10本なの」

 和子は色とりどりのガーベラ10本を贈った。隣の子が息を引き取ったのは1週間後である。子どもの母が言った。

「真由子ちゃんのお陰で、10歳に1週間だけ近づけました」

 真由子は2007年ごろから体力が低下し、ほとんどの時間を病院で過ごした。09年夏からは熱が下がりにくくなり9月30日、28年の生涯を閉じる。寿子は自宅(千葉県)から駆けつけ、遺体を前に「顔を見られて良かった」と言った。

 和子は今、神奈川県藤沢市でカフェ「約束のチーズケーキ」を開いている。3年前に和歌山市から、長女の暮らすこの地に移った。店名はhideが真由子に書いた手紙からとった。

 hide、真由子、そして寿子。3人が東京ドームの控え室で顔を合わせて、30年の秋である。「約束のチーズケーキ」の壁には今もあの時の黒いギターがかかっている。

(文中敬称略)

(おぐらたかやす/1964年滋賀県生まれ。88年、毎日新聞社入社、現在論説委員兼専門編集委員。近著に週刊文春連載をまとめた『かなえびと 大野寿子が余命1カ月に懸けた夢』(文藝春秋刊)。)