〈「太田と結婚したことは後ろめたくて報告できなかった」太田光代が明かす、爆笑問題の“掟破りの独立騒動”と「干され」の真相〉から続く
1993年、落語家・立川談志が主催するステージでネタを披露した若き日の爆笑問題。太田光の妻であり、所属事務所「タイタン」の社長でもある太田光代さんは、舞台袖でネタを見ていた談志の言葉を聞いて息を飲んだ。
「オィ、面白いのが出てきたな」
ここでは、光代さんが半生を綴った『社長問題! 私のお笑い繁盛記』(文藝春秋)より一部を抜粋して紹介する。憧れの談志師匠から打ち上げに誘われ、銀座のバーへ向かった爆笑問題の2人と光代さんが経験した“修羅場”とは……。(全4回の2回目/続きを読む)

◆◆◆
「飲めないって、お前…」
打ち上げには、出演した落語家や芸人、それに談志師匠の弟さん(当時、師匠の事務所の社長でした)や、メディア関係者も含めて20人以上が詰めかけて、美弥は満員。少し離れた通路には、師匠のお弟子さんたちが立ったまま待っていました。師匠と話したくても話せない弟子が何人もいる。そんな大勢の関係者を横目に、申し訳なく私たちは中に入っていきました。
通されたのは談志師匠のテーブルでした。談志師匠の横に太田、向かいに私と田中という夢のような席です。
席につくなり、談志師匠が語りかけてきます。
「ロック? 水割り?」
私は勢いよく、「水割りをください!」と答えましたが、太田は俯きながら、
「あの、すみません。僕たち飲めないんです」
実は爆笑問題は2人とも超がつくほどの下戸という珍しいコンビで、特に田中はおそらく体質的にもアルコールをまったく受け付けない人でした。

「飲めないって、お前、そんなことあるのか」
「いや、本当に飲めないんですよ」
「しょうがねえな。だったら3杯で許してやる」
お酒が大好きな私は喜んでお付き合いできるけれど、まったく飲めない太田と田中にとって「3杯」はキツい。でも、談志師匠と初めてお話しできるのだから、絶対に粗相のないようにしないといけない。私は店員さんに「ちょっと薄めでお願いします」と伝えました。
「みっちゃん、俺、もうダメだ!」
ウイスキーの水割りが席に運ばれてくると、師匠の横にいた太田は頑張ってチビチビ飲んでいます。顔を真っ赤にしながら1杯目を飲み干して、珍しく2杯目へ……。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「うん、今日は大丈夫だと思う」
よし、太田はなんとかなりそうだな。ホッと一息、胸を撫で下ろして隣を見ると、田中がすでに真っ青な顔をしています。談志師匠を前に、緊張もあったのでしょう。もう一口、水割りを飲んでみせるのですが、
「みっちゃん、俺、もうダメだ!」
と席を立ち、トイレに駆け込んでしまいました。
憧れの談志師匠の言った「3杯」はなんとか飲み切らなければならない――。後にも先にもあれほど頑張ってお酒を飲もうとしている太田と田中を見たことはありません。
これ以上飲ませると、本当に田中が倒れる。バーに救急車が来るようなことがあれば、楽しい打ち上げが台無しになってしまう。もう修羅場です。そんなことはなんとしても避けなければいけません。ファンとして話したいことは山ほどあったけれど、ここは社長業が最優先です。気を悪くするかもしれないし、せっかくの席に失礼になることを承知で私は言いました。
「師匠、申し訳ないのですけれど、田中はこれ以上飲ませると救急車を呼ぶことになってしまいます。私が田中の分まで飲みます!」
「これはこいつらに飲ませる酒なんだ。お前さんはお前さんで飲んでればいいだろう」
「いえ、ここは私が飲みます」
「なんだ、お前さんはマネージャーかなんかかい? 大丈夫かい」
私は師匠に挨拶らしい挨拶もできていませんでした。師匠は太田のほうを見て、「この人、大丈夫かい」と繰り返しました。すると太田はこう言います。
「これ、うちのカミさんなんです」
「え?」
「本当にカミさんなんですよ」
師匠は手で自分の頭を軽く打ち、舌をペロッと出して続けました。
「あっ、それじゃしょうがねえ。もう無理して飲まなくていいからな」

こちらをチラッと見て、そう言ってくれたのです。談志師匠はすべての話がつながった、という顔をしていました。高田先生が言っていた「爆笑問題を立て直そうとしている元タレントの奥さんが社長」という話と私が結びついたようです。バツが悪そうな顔をして、トイレに立った師匠は戻ってくるなり私の頭を軽くぽんぽんっと叩きながら「お前さんも大変だな」と労ってくれました。
太田よ、ついでに自分たちのマネージャー兼社長だって言ってくれよとは思いましたが、まぁそこはいい。私にとってのハイライトはここからです。
飲み慣れないウイスキーを飲んで顔を真っ赤にしている太田に対して、談志師匠ははっきりとこう言ったのです。
「お前さんはしょうがない。この道を行くしかない。才能があるからな」
太田はこういう場ではほとんど喋らない人ですが、神妙な顔をして黙ったまま聞いていました。

「才能は天が勝手に与えているものだから、それで身を滅ぼすこともあるもんだ」
そして、私の横でハンカチを口に当ててうずくまる田中を指さして、こう続けたんです。
「そこの小さいの……えーっと、田中か。こいつは“日本の安定”だ。いいか、絶対に切るなよ」
きっと師匠は庶民的キャラである田中が、太田の相方として絶対に必要不可欠な存在だと見抜いていたんだと思います。そして、ネタづくりで突出した才能を持つほうが相方に見切りをつけてしまうケースも知っていたのでしょう。爆笑問題に対して、最上のエールを送ってくれたのです。

あの夜の私たちは言いようのない高揚感に包まれていました。田中は水を飲んでは吐くの繰り返し、太田も完全に酔っ払っていましたが、自分たちが認められた嬉しさで胸がいっぱいになっていたのです。とにかく3人全員が上の空でした。
「お前さん、上まで送ってくれ」
私は師匠についていくように地下1階にあった美弥の階段を上ります。そして車の傍まで付いていくと、
「これからも出てくれよ、俺のところで。次からはお前さんに電話すればいいんだろう?」
「ありがとうございます。本当に今日はすみません!」
「いいよ。飲めねぇんだから」
そう言って、師匠は去っていきました。爆笑問題があの談志さんと初めて同じ舞台に立った、長い1日がようやく終わったのです。それから、3人で乗ったタクシーも頻繁に止まっては田中が吐く、太田も酔っているというとんでもなくカオスな空間になり、結局、空いていたカラオケ店に入って横にさせて休ませた記憶があります。その時も田中は幸せそうに「えへへ、俺って日本の安定なんだって~」と繰り返していました。
これからも出てくれ、という師匠の言葉は酒の席での社交辞令かなとも思ったのですが、その後、事務所には本当に頻繁に電話が来るようになりました。
「談志だけど、社長いる?」
第一声はお決まりで、仕事の連絡をくださるときもあれば、「離婚だけはするなよ」とかなんとか言って私には理解不能な話を続けたり、ふざけた師匠の大好物のドリアンをタイタンに送り付けられることもありました。あのときは事務所中にドリアンのニオイが充満して、談志さんのイタズラには本当に参りました。
談志師匠のマスコミへの発言で、私の身内がちょっとした騒動に巻き込まれたことも今ではいい思い出です。とある記者会見で、師匠が爆笑問題を贔屓にしている理由を聞かれて、こう答えてしまったのです。
「そりゃあ、太田光は俺の隠し子だからな」
それが面白おかしく取り上げられ、本気にした真面目な記者の方から、「太田さんが立川談志の隠し子って本当なんですか」といった問い合わせを受けたりもしました。そんなのは師匠がよく言うような冗談ですし、私たちだって笑って否定しましたが、一般の方でも躍った見出しだけを見て勘違いする人が続出してしまったのです。

メディアでの騒ぎはすぐに落ち着いたのですが、もう一人真に受けた人がいました。太田の父、つまり私の義父です。私は念のため、騒動のお詫びの電話を入れることにしました。すると、お義母さんが電話に出て、言うんです。
「私はいいんだけどねぇ、お父さんがさ……」
女の勘で「これはまずいことになった」とすぐにわかりました。
「談志となんかあったのか」
おそらく、お義父さんが本気にして怒っているんだ! その日、たまたま仕事がなかった太田を連れて、急いで彼の実家に行くことにしました。太田と両親、そして私の四人での“緊急家族会議”です。私と太田が着いたとき、お義父さんはすでに怒り心頭でした。お義母さんに対してこんな調子なんです。
「お前、談志となんかあったのか」
「何言ってんの。そんなことあるわけないでしょ」
「本当に何もないのか!」
「あんな有名人に会ったこともないわよ!」
太田と義父はあまり言葉を交わす感じではなかったのですが、この時ばかりは太田も「ありえないでしょ」と言ってなだめていました。私は内心、「あんな話を信じるのか。やっぱり一人息子がかわいいんだな」と笑いを堪えるのに必死でした。なんといっても若いときのお義父さんと太田の顔は本当に瓜二つなんです。結婚したばかりの時、実家に飾ってあった義父の写真を見て、うっかり太田と勘違いしたくらいなのです。どう見ても遺伝子はつながっているはずなのに、お義父さんは本気で太田が談志の子かもしれないと疑っているのです。しまいには全員の反論攻勢にすっかりいじけてしまって、「光くんだって、本当は俺のこと嫌いなんだろう」なんて言い出してしまうのです。
後日、談志師匠にも電話をかけて、事の顛末を話すと「それは悪かったな。社長から謝っといてくれよ」と、申し訳なさそうにされていました。あまりに詳細まで伝えたためか、師匠は晩年までこの話を高座でネタにしていました。悪びれているようで、本当は「家族会議」のいきさつを面白がっているようでした。
師匠らしくとても粋に、騒動を面白くネタにして笑わせるまでが芸人の責任の取り方だと背中で示してくれたのです。
当時の私は、社長になって2年も経たず、まだまだ素人同然でしたが、芸人にとってライブがいかに大切なのか、身に染みてわかりました。やっぱり芸人はお客さんを前にネタを披露してみせる。これも談志師匠を見ていて学んだことです。だから、事務所主催のライブをやることになったわけです。

タイタンライブこそ、談志師匠に教わったことです。芸人がいつでも現役であり続けるためには、常にお客さんの前に立ち続けなければいけないのです。売れていったらコンビでのネタは披露しなくなり、MCや冠番組を持つだけにした方が芸人としての成功だと見る人もいます。ですが、私たちはそういう考え方はとりません。生涯、自分の高座に満足せずに精進を続けた談志師匠の教えてくれた言葉の数々は私たちの宝物です。
〈「あれは親じゃないな」太田光もボーゼン…“宗教2世”として育った太田光代が明かす、10代半ばで一人暮らしを始めた理由〉へ続く