永田鉄山は、いわゆる陸軍統制派の指導的中心人物として、満州事変以降の陸軍を主導した。永田が心血を注いだのは、第一次世界大戦で現実のものとなった総力戦に対応した国家体制の整備だった。
永田鉄山による国家総力戦体制論(国家総動員論)に示されるのは、ジレンマに満ちた国家像である。ひとたび総力戦が開始されると、国家の存続、国民の安全のためには、その国の軍事、経済、政治、社会生活、文化などのすべてを動員して戦わなければならない。これが「総力戦」の出発点のはずである。ところが、総力戦を前提とすると、「国民と国家を守るための戦争」であるはずのものが、「戦争のための国家」へと反転してしまう。それは、「国家総力戦」自体がもつ不条理の反映でもあった。国家の全てを賭けて戦わなければ生き残れない、という過酷な現実にいかに対応するか、という難問が、永田のテーマだった。
そして、この永田の国家総力戦体制論を広く世に問うたのが、一九三四年(昭和九年)一〇月、陸軍省新聞班が発行したパンフレット『国防の本義と其強化の提唱』だった。
実は、この「総力戦」という問題は、けっして過去のものとなったわけではない。第二次世界大戦後の「冷戦」も形を変えた総力戦の継続という面があり、今もなお大国を中心に、軍事、経済、外交など、国としてのプレゼンスをかけたせめぎ合いが続いている、といえるだろう。
史上最初の総力戦
本論に先立って、国家総力戦論、国家総動員論がどのような経緯で論じられるようになったのかを簡単にみておこう。
第一次世界大戦(一九一四年―一九一八年)は、史上最初の国家総力戦となった。そこでは、兵員のみならず、兵器・機械生産工業とそれを支える人的物的資源を総動員し、国の総力をあげて戦争遂行がなされた。
そして、今後、近代工業国間の戦争は不可避的に国家総力戦となり、また第一次世界大戦と同様、その勢力圏の交錯や同盟・提携関係によって、長期の世界戦争となっていくことが予想された。
そのような事態に対処するには、国家総力戦を遂行するための国家総動員体制の構築が必須だと考えられていた。このような認識は列強諸国の軍事部門において共通のものだった。
ここから日本軍部とりわけ陸軍のなかから、国家総動員体制の構築に向けての動きがでてくる。その代表的なものが、本文で詳しく述べるように、永田鉄山の国家総動員論だった。
その永田の構想を軸に、一九三四年(昭和九年)一〇月、前にも触れた陸軍パンフレット『国防の本義と其強化の提唱』が発行された。これは、陸軍の国家総動員体制構築への強い意欲と具体的なプランを示したもので、これ以後の陸軍の行動指針ともいうべきものだった。
その概要は、国家の人的物的資源を綜合・統制し、来たるべき国家総力戦に対処する方向での国策の強化を主張するもので、具体的には、軍備の充実、経済統制の実施、必要資源の確保など、国家レベルでの総動員体制の構築をせまるものだった。そして、その国家総動員体制は、戦時のみならず平時においても必要なものとされていた。
また、このパンフレットでは、近年、世界は列強諸国によるブロック経済によって、国際的生存競争が白熱状態となり、国家総動員によらなければ、軍事のみならず経済においても国際的な落伍者になるとの認識が示されている。したがって、戦時のみならず平時においても国家統制が必要だとされる。
つまり、戦時総動員から平時をも含めた総動員、いわば恒久的総動員体制となり、そこでは戦争準備が常態化した国家が想定されている。ここにおいて国家のための戦争準備が、戦争準備のための国家へと逆転しているのである。
資源の決定的不足
また、当時陸軍内部では、次期大戦は不可避的なものと考えられており、その点からも国家総動員体制の構築は必須のものだとされていた。しかも、帝国内(日本・朝鮮)の資源では国家総力戦のために必要な資源が決定的に不足し、それが国家総動員体制の構築にとって、最大の問題だと強く意識されていた。このパンフレットでは明言されていないが、永田ら陸軍主流は、その不足する資源を中国から獲得することを考えていた。
したがって、このパンフレットでも、中国や列強の対日政策の動向に強い関心を示しており、中国をめぐって、国際的に日本の立場からみて危機的な状況となれば、外交的手段のみならず、武力に訴える場合もあり得る、とされている。また、このことと関わって、中国に強い利害関心をもつアメリカの海軍力に対して、日本は対等なレベルのものを保有する必要がある、としている。
さらに、パンフレットでは、「国防と思想」の項目が設けられ、国家全体のために、個々人はその私的利害を棄て、自己を滅却して犠牲的精神を涵かん養ようしなければならない、とされている。このことは、国家総動員体制を、人々の内面から支える上で欠くべからざるものとして重視されていた。
このように永田を中心に陸軍の国家総動員論が形成されたのである。
その永田の国家総動員論に、根本的に対立する、本質的な批判を加えたのが、天皇機関説の美濃部達吉(貴族院議員、東京帝国大学名誉教授)だった。一九三五年(昭和一〇年)二月に始まる天皇機関説事件よりも先に、永田対美濃部の戦いは始まっていたのである。
だが、永田が同年八月に、陸軍省内で斬殺される、という形で命を落とす。そのため、二人の議論の対立が、永田の死の前後から翌年にかけて進行した国体明めい徴ちょう運動と重ねて論じられることは少なかった。
そこで、永田鉄山の国家総力戦体制論のなかでの天皇の位置付けを確かめつつ、それが、国民の自発的な(国家への、さらには軍への)服従、という国家総力戦体制、国家総動員体制の本質的なジレンマに直面するなかで出てきたことを論じる。さらに、美濃部の天皇機関説は、それに対する本質的な批判(国家論)であったことを示す。そして、そのことが、陸軍の主導権争いともあいまって、天皇機関説事件につながること、それが陸軍と議会、内閣など、国家構造に何をもたらしたかを検討する。
これまで軍部と天皇の関係については、一般には、統帥権による軍部の独立性、二・二六事件の青年将校にみられる天皇との一体化(重臣など夾雑物の排除)、天皇の無謬性への信仰などが注目されてきた。しかし、ここでは、それらとは別の角度から、軍部と天皇について論じてみたい。
国家総力戦体制と天皇の関係について、これまで一般には、天皇親政を標榜する皇道派に対して、国家総力戦体制の議論は、よりシステム志向の統制派によるものと位置づけられてきた。
しかし、かならずしもそうとはいえない。統制派と呼ばれる昭和の陸軍中枢を担った軍人、ことにそのリーダーといえる永田鉄山は、後述するように、国家総力戦体制を築き、戦ううえで、「天皇」を必要としたのである。
なお、引用文は読みやすさを考慮して、旧字・旧かなづかいは、すべて現行のものに、また一部の漢字はひらがなに改め、句読点を補った。
「はじめに」より






