「必敗の戦争」を推し進めた戦略家、田中新一の論理とは
- 2025.01.23
- ためし読み
田中新一(一八九三年[明治二六年]― 一九七六年[昭和五一年])は、太平洋戦争開戦前後、参謀本部作戦部長を務め、当時の日本において重要な役割を果たした。彼は、開戦を最も強硬に主張し、それを推進し、陸軍を動かしていった人物である。
同時期に作戦課員だった高山信武は、田中について、「抜群な説得力」「指導力」と「比類なき迫力」で参謀本部内外に強い影響力をもっていたと回想している(松下芳男編『田中作戦部長の証言』)。また、高山は、田中作戦部長を中心に、部下の服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦課戦力班長の三人が、「開戦の強力な主唱者」だったとも述べている(同右)。
だが、田中には有力な対抗者がいた。一貫して日米開戦に慎重な姿勢をとっていた武藤章陸軍省軍務局長である。軍務局は軍政、予算などを担当する部局で、国防政策にも大きく関与していた。田中と武藤の二人は、しばしば陸軍の戦略をめぐって激しく対立した。
陸軍中枢にあって、対米戦回避を模索した武藤章については、前著『武藤章』(文春新書)に書いたが、現在の我々からすると、日米開戦を積極的に唱えた田中たちの論理、行動の方が、より理解するのが難しい、大きな「謎」であるように思われる。
さらにいえば、日米開戦の経緯については、これまで多くの研究がなされている。その多くは、当然のことではあろうが、「なぜアメリカとの戦争を避けることができなかったのか」という問題意識を共有している。田中のように、日米戦争を望み主導した者の視点から、日米開戦までの流れをみたものは多くない。そこにも本書の特徴のひとつがあると考えている。
対米最強硬論者として
開戦直前、日米交渉をめぐって田中は武藤と衝突した。
その時の様子を石井秋穂(当時軍務局高級課員)は次のように記している。
「けたたましいベルによって武藤から呼びつけられた私は、急いで[軍務]局長室に行った。中から鋭い大声が聞こえる。ドアーを開けると武藤と田中とが立ったまま睨み合っている。武藤は眼鏡をかけていない。さては武藤が止め役に私を呼んだんだなと直観した。田中はさすがに間が悪いのだろう。……顔を真っ赤に膨らましてつぶやきながら出て行った。」(「石井秋穂の手記」上法快男編『軍務局長武藤章回想録』)
田中が去ったあと武藤は、「アイツ[田中]との調整で精魂が尽きる。これでは何んにも出来ない」と漏らしている(同上)。二人の対立はそれほど激しかったのである。
対米開戦論の田中と慎重論の武藤との対立の原因と詳細については後述するが、田中の対米強硬論は陸軍内でも際立っており、強い影響力をもっていたのである。
後世の目で見ると、国力において格段の差があったアメリカとの戦争はいかにも無謀で非合理に思える。もちろんアメリカとの国力差は、田中をふくめ開戦時の指導者たちも認識しており、武藤のように、できうる限り対米戦を避けたいと考えるものは少なくなかった。彼らの懸念は一九四五年(昭和二〇年)の敗戦で現実となる。
太平洋戦争開戦に関わった軍人としては、東条英機や武藤章などがよく知られているが、田中こそ、開戦を最も強硬に主張し、陸軍を動かしていった人物だったのである。
では、なぜ田中は対米戦を強硬に主張したのか。本書の目的の一つは、その論理を確かめることにある。
田中は開戦前後のキーパーソンの一人であり、また当事者としての貴重な資料を多く残している。にもかかわらず、これまで田中の本格的評伝は書かれていない。
東京裁判において、慎重論の武藤はA級戦犯として死刑となり、開戦論の田中は戦犯指定を受けなかった。武藤と田中の運命の交錯も、陸軍と先の戦争を考えるうえで興味深いものがある。
まず、日米開戦前、独ソ戦直前の田中の議論をみてみよう。
一九四一年(昭和一六年)四月一六日、大島浩駐独大使から、ドイツが対英戦を行いながら、並行して対ソ開戦を企図しているとの極秘情報がもたらされた。日ソ中立条約締結の三日後である。
その後、五月一三日、坂西一良ドイツ駐在陸軍武官からも、「独ソ開戦必至」を知らせる電報が届いた。
四月二三日頃、大島大使からの情報を知らされた参謀本部作戦部長の田中は、次のように考えていた。
独ソ開戦の可能性が強くなり、いずれ日本は三国同盟と日ソ中立条約との「矛盾」に直面することになる。いったんは三国同盟と日ソ中立条約の連動によって、対米牽制の効果をもちえた。だが、今や独ソ関係が危機的状況にあり、三国同盟と日ソ中立条約の連鎖は「内部崩壊」の状況にある。それゆえ対米牽制効果はもはや期待できない。また中国重慶政府に対する効果もほとんど認められない。
「独ソの関係が曲がりなりにも不可侵条約の精神を堅持しておれば、その実を期待しうるともいえようが、独ソの関係が今日の如く危局に立ち、しかも独逸側が認むる如く、英米のソ連誘引が効果を挙げつつある事情を考慮に入れるならば、三国条約と中立条約の連鎖はすでに内部崩壊の状にあるといわなければならず、従ってアメリカに対する政治的効果も多くを期待し得ざるべしと思わる。従って重慶に対する効果もたいしたものと認められぬようである。」(田中新一「大東亜戦争への道程」第五巻、防衛省防衛研究所所蔵。「大東亜戦争への道程」は田中自身の当時のメモ「参謀本部第一部長田中新一中将業務日誌」をもとに、戦後、田中自身が自らまとめたもの。以下とくにことわりのない限り、田中の意見や判断はこれによる。なお、「大東亜戦争への道程」が書かれたのは敗戦後であり、戦後の視点からの改変が疑われうる。だが、内容的には、戦前に書かれたメモ「参謀本部第一部長田中新一中将業務日誌」を読みやすい文体でほぼ正確に踏襲している)
同日(四月二三日)の田中のメモ「日米会談に関する見解」には、
「米が参戦せざれば本会談[日米交渉]は相当期間継続すべき論理的根拠を有す。然れども米の参戦にして[=アメリカの対独参戦の場合]、本会談の趣旨に副わずと認めらるる以上、本会談は一切無効となるべし。即ち日本は参戦し武力南進するの自由を獲得し得べし。」(「参謀本部第一部長田中新一中将日誌」八分冊の三)
として、アメリカが対独参戦すれば、日本も参戦(対米戦)し、軍事力を行使して南方に進出すべきだと主張している。
この田中の主張は、独ソ開戦を前提としても、アメリカが対独参戦した場合には、対米英開戦・武力南進に踏み切るべきとの積極的対米開戦論だった。
独伊枢軸か米英親善か
しかし、一方で田中は、国策の方向性について、別の選択肢も検討している。
それは、独伊枢軸との同盟に代わって、米英との提携の可能性を考慮していたことである。
田中はこう考えていた。
日本は今、「三国枢軸」の維持か、「対米英親善」への国策転換かという国家の命運のかかる「根本問題」に直面している。もし、独伊との枢軸を脱して米英と親善関係を結べば、おそらく日中和平は成立し、その後、独伊が屈服するか、そうでなければ世界大持久戦争となる可能性がある。
だが、いずれにせよ事態が決着すれば、日本はあらためて米英ソ中による挟撃にあう危険がある。また、不介入の立場を貫く中立政策も、空想といわざるをえない。それゆえ、現時点では枢軸陣営において国策を実行するほかはない、と。
「日本が若し枢軸を脱して英米と親善関係を結ぶことになれば、おそらくは日支和平は成立し、遂に独伊の屈服もしくは世界大持久戦争の展開を見るに至るべきも、その結果として日本が改めて米英ソ支の挟撃に会う危険は決して杞憂とは言えず。
予[田中]は如何にしても枢軸より米英陣営に移る危険を冒すことに賛成するを得ず。又日本の中立政策への還元も空想と謂わざるを得ない。結局枢軸陣営において国策を遂行するの外なし。」(田中「大東亜戦争への道程」第五巻)
この時点であらためて独伊提携か米英提携かを問いなおしたうえで、自らの情勢判断によって独伊提携の維持を選択し、英米に敵対する方向、ひいては対米英戦の方向へと国策を引きずっていったのである。
これが、田中が太平洋戦争への道を主導した論理だった。
実際には、日本はアメリカの対独参戦を待たずに開戦することとなるが、それはアメリカの対日全面禁輸という、日本の指導部にとって思いがけない事態などが起き、武藤、田中ら陸軍の指導者たちも大きく揺れ動いた。冒頭に紹介した田中と武藤の衝突も、一九四一年(昭和一六年)一〇月一日のことである。
後に詳しく述べるように、独ソ戦は第二次世界大戦の様相を大きく変え、日本、ことに陸軍の対外戦略に大きな影響を与えた。その独ソ戦前夜、田中新一が、参謀本部作戦部長として考えていた戦略はこのようなものだった。ここから八ヶ月足らずで日米開戦となる。
その前に、本書では、太平洋戦争開戦期を中心に、彼の思想と行動を明らかにしていきたい。
作戦立案を担う
まず、田中の略歴を簡単に記しておこう。
田中は、一八九三年(明治二六年)三月、北海道釧路に生まれた。田中家は、代々越後松村藩に使える武家であったが、祖父の代に北海道に渡り、父寅五郎は釧路に定住して農業を営み、新一が生まれた。
一九〇六年(明治三九年)、仙台陸軍地方幼年学校に入学する。田中の軍人志望は、父と親交のあった北海道江部乙の屯田兵大岡大尉の影響によるものだった。
一九一三年(大正二年)、陸軍士官学校を卒業。同期に冨永恭次、武藤章らがいた。卒業後、弘前歩兵第五二連隊所属となる。その後、一九二三年(大正一二年)一一月、陸軍大学校を卒業。原隊復帰後、翌年一二月から教育総監部に勤務することとなる。一九二八年(昭和三年)から一九三一年(昭和六年)まで約三年間、ソ連、ポーランドに駐在する。ソ連のグルジアやアゼルバイジャン周辺の情報収集が主な任務であった。
帰国後、教育総監部に復帰するが、翌年(一九三二年)関東軍参謀として満州に渡る。そこで作戦参謀として石原莞爾の下につき、強い影響を受ける。石原は、陸軍大学在籍中の教官であり、満州への赴任は彼の推薦によるものだった。
一九三四年(昭和九年)、欧州視察のため、ドイツ、ポーランドに派遣される。この時、陸士同期で統制派の冨永恭次と同行することとなり、これを契機に統制派の影響下に入る。統制派については、後にふれたい。帰国後、宇都宮第五九連隊勤務をへて、一九三六年(昭和一一年)、陸軍省兵務局兵務課長となる。抜擢人事だが、その経緯は明らかでない。
翌年(一九三七年)、陸軍省軍務局軍事課長に任命される。この軍事課長期間中に日中戦争が始まり、陸軍省の政策決定において、重要な役割を果たす。第一章で詳しく述べるが、この時、田中は武藤とともに、上司である石原莞爾とも対立する。
その後、一九三九年(昭和一四年)、駐蒙軍参謀長として陸軍中央を離れるが、翌年、参謀本部作戦部長として、陸軍中央に復帰する。そして、この作戦部長在職中に、太平洋戦争開戦となるのである。その間、開戦を最も積極的に推し進めたのが田中であった。
だが、一九四二年(昭和一七年)一二月、東条首相と衝突し、南方軍総司令部付に左遷される。翌年三月、第一八師団長としてビルマに派遣されるが、在職一年半で、ビルマ方面軍参謀長となる。
一九四五年(昭和二〇年)五月、内地帰還途中に搭乗機が墜落。重傷のためサイゴン陸軍病院に収容され、そこで終戦を迎える。終戦とともに帰国するが、東京裁判では証人として出廷したのみで、戦犯指名はされなかった。
一九五五年(昭和三〇年)に、『大戦突入の真相』を出版するなどの活動を行っていたが、一九七六年(昭和五一年)九月、死去。八三歳だった。
「はじめに」より
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