「人は血管とともに老いる(A man is as old as his arteries)」
これは十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍したカナダ出身の内科医ウィリアム・オスラー(一八四九─一九一九)が残したとされる有名な言葉です。オスラーは「近代医学の父」とも呼ばれ、ジョンズ・ホプキンス大学医学部の創設に携わり、現代の医学教育の基礎を築いた人物でもあります。
医学の世界では常識とも言える言葉ですが、一般の方にはあまり知られていないかもしれません。でも実は、この言葉こそが私たちの寿命と健康を理解するための最も重要な鍵を握っています。
ちょっと怖い話から始めましょう。厚生労働省が発表した二〇二三年の日本人の死亡原因を見ると、実に興味深いことが分かります。
第一位は悪性新生物(がん)で二四.三%、約三十八万三千人。これは皆さんの予想通りでしょう。
第二位の心疾患が一四.七%(約二十三万一千人)、第三位が老衰で一二.一%(約十九万人)、そして第四位が脳血管疾患で六.六%(約十万五千人)。
ここで注目すべきは、第二位の心疾患と第四位の脳血管疾患を合わせると二一.三%になることです。これだけでもがんの死亡率に迫る数字ですが、さらに腎不全(一.九%)や大動脈瘤および解離(一.三%)など、血管に関連する疾患を含めると、がんを超えてしまい、実に日本人の死因の約二五%が血管の病気によるものだということが分かります。
「えっ、そんなに多いの?」と思われるかもしれません。しかし、これが現実です。しかも、これは直接的な死因だけの話。糖尿病の合併症や、血管障害による多臓器不全など、間接的に血管が関与する死亡を含めれば、その割合はさらに高くなります。日本人はがんよりも血管の病気で死んでいるのです。
動脈硬化とは何か──血管に起こる恐ろしい変化
そして、これら血管に関する病気の原因の多くが動脈硬化です。つまり、血管が老化するというのと動脈硬化になるというのはほぼ同義と考えてよいのです。
動脈硬化という言葉は聞いたことがあると思いますが、実際に何が起こっているのかご存じですか。
簡単に言うと、血管の中にゴミがたまって、血管が狭くなったり、硬くなったりすることです。このゴミのことを医学用語で「プラーク」とか「粥腫」と呼びます。お粥みたいにドロドロしているからです。
私は四十年以上、心臓外科医をやっていますから、手術でずいぶん多くの血管を見てきましたが、動脈硬化の血管は、まるで古い水道管のようでした。内側にサビやカルシウムがこびりついて、ガチガチに硬くなっている。あとで詳しく述べますが、最初はお粥のようだったプラークがいろんなものと混じって沈着することで、硬くなるのです。正常な血管は弾力があってゴムホースみたいですが、動脈硬化が進んだ血管は土管みたいに硬い。
血管が傷つくメカニズム──なぜ動脈硬化は起こるのか
では、なぜ動脈硬化が起こるのでしょうか。少し専門的になりますが、できるだけ簡単に解説します。
血管の壁は三層構造になっています。一番内側が内膜、真ん中が中膜、外側が外膜です。動脈硬化は、このうちの内膜から始まります。

第一段階で起こるのは、この内膜を作っている血管内皮の損傷です。高血圧、高血糖、高LDLコレステロール、その他ストレスやタバコ、いろんなものが血管を傷つけます。
第二段階では、内皮の傷ついたところから、LDLコレステロール(いわゆる悪玉コレステロール)が血管壁に入り込みます。血管壁に入ったLDLは酸化され、酸化LDLとなります。
第三段階では、酸化LDLが異物として認識され、白血球の一種であるマクロファージがこれを食べようとして炎症反応を引き起こします。しかし、マクロファージは酸化LDLを処理しきれず、残念なことに自らが泡沫細胞となって血管壁に蓄積します。
第四段階では、泡沫細胞が集まり、さらに、通常は中膜にいる平滑筋細胞というものが内膜に移動してきて混ざり合い、プラークを形成します。
最終的に第五段階として、血管の狭窄または破綻が起こります。プラークが大きくなると血管が狭くなり、血流が悪くなります。これは狭心症などを引き起こします。また、プラークが破れると血栓ができ、血管を完全に詰まらせることもあります。これは心筋梗塞や脳梗塞などの原因になります。
これが現在、最も支持されている「血管内皮障害説」です。
やっぱり難しかったという方は、血管の内側がいろんな原因で傷つけられるので動脈硬化が進んでいくんですよという理解で大丈夫です。
活性酸素という新たな悪者──NOは救世主か
最近の研究で分かってきたのは、動脈硬化の進行に「活性酸素」という悪者が深く関わっているということです。
活性酸素とは、通常の酸素よりも反応性の高い酸素のことで、細胞や遺伝子を傷つける作用があります。DNAを傷つけて内皮細胞の老化を起こしたり、LDLコレステロールと結びついて酸化LDLを増やしたりします。
活性酸素が生まれる原因は多岐にわたります。
喫煙(最も強力な活性酸素発生源)
過度の飲酒
激しすぎる運動
精神的ストレス
紫外線
大気汚染
食品添加物
思い当たることがありすぎて怖いですね。
一方で、血管を守る物質も存在します。その代表がNO(一酸化窒素)です。一九九八年、NOの作用機序の解明により、三人の科学者がノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
NOは先ほど出て来た中膜の平滑筋細胞に作用して血管拡張を起こす物質として有名ですが、それ以外にも次のような働きがあります。
血小板の凝集を抑制する抗血栓作用
白血球が血管壁に付着するのを防ぐ抗動脈硬化作用
活性酸素を中和する抗酸化作用
NOは主に血管内皮細胞で作られますが、運動時には筋肉でも産生されます。筋肉の収縮と弛緩で発生し、半減期は数秒です。運動するだけで血管を守ることができるとしたら、これは非常に有効な対策になります。こうした対策については、後でまとめて述べようと思います。
血管の驚くべき構造と機能
全身の血管を一本につなげると、約十万km、地球を二周半する距離になります。この壮大なネットワークが、私たちの三十七兆個の細胞すべてに命を届けている。まさに体の中の高速道路網です。
それでは血管の主な役割を詳しく見てみましょう。
酸素の運搬 肺で酸素を取り込んだ赤血球を、全身の細胞に届けます。脳は特に酸素を必要とする臓器で、体重の二%しかないのに、全身の酸素消費量の二〇%を使います。脳への血流が五分間止まると、脳細胞は死に始めます。
栄養素の配達 腸で吸収された栄養素を、必要とする細胞に運びます。ブドウ糖、アミノ酸、脂肪酸、ビタミン、ミネラルなど、生命活動に必要なすべての物質が血管を通って運ばれます。
老廃物の回収 細胞で生じた二酸化炭素や代謝産物を回収し、肺や腎臓、肝臓などの排泄器官に運びます。
ホルモンの輸送 内分泌腺で作られたホルモンを標的臓器に運びます。インスリン、甲状腺ホルモン、成長ホルモンなど、体の調節に欠かせない物質の輸送路です。
体温の調節 皮膚の血管を拡張・収縮させることで、体温を一定に保ちます。暑いときは皮膚の血管を拡張させて熱を逃がし、寒いときは収縮させて熱を保持します。
免疫機能 白血球や抗体を全身に運び、病原体から体を守ります。炎症が起きた場所には、血管を通じて免疫細胞が集まってきます。
血管はこれだけの機能を持っていますから、重要でないわけがありません。
一度ダメになった血管は元に戻らない現実
「一度ダメになった血管は元に戻らないのか」という質問をよくされます。
コレステロールを下げるスタチンという薬を強力に使えば、動脈硬化の初期ならば一部は戻ってくることがあると言われています。しかし、ある程度進行してしまうと、残念ながら、ほとんどは戻らないと思います。
動脈硬化が進んでしまっている人、例えば狭心症で血管が狭くなっている人がコレステロールを一気に下げたからといって、狭くなっている部分が改善される可能性は、ゼロではないけれども、あまりないということです。
「パイプみたいに掃除することはできないんですか」と聞かれることもありますが、現実的には難しい。足の血管であれば、アテレクトミーといって、動脈硬化によって血管内に蓄積したコレステロールや組織の塊(プラーク)をドリルのようなもので血管の内壁から直接削りとるという治療法もあります。水道管についたゴミや汚れを削って細かくして下水に流してしまうようなものです。ただし、この治療法は足の血管などに限られるうえ、今はあまりメジャーではないと思います。

今は血管をバネの力で拡げる金属製の筒、ステントや、風船を膨らませて血管を拡げるバルーンなどに薬剤を塗ったものを入れるというのが一般的です。この薬剤は血管の内膜の増殖を抑えるもので、一般的には抗がん剤などの類です。この治療は狭くなった血管を無理やり拡げるわけですが、同じ場所に内膜が増殖してくると元の木阿弥でまた狭くなってしまうので、それを抑えるために免疫抑制剤や抗がん剤を塗ってあるのです。
これらは一般的に「手術」と呼ばれ、健康保険の区分でも手術ですが、心臓の手術の場合でも、実際は手首の血管からカテーテル(医療用のやわらかい管)を冠動脈(王冠のように心臓に巻き付いて栄養を送る動脈)に入れて、そこを通じてステントやバルーンを入れる治療がほとんどで、胸をメスで切開する必要がないため術後の回復も早くなっています。これらの治療は外科でなく、循環器内科の先生が施術することが多いです。
このように治療法は進んでいるのですが、そういう事態にならないほうがよいのは当たり前です。「一度ダメになった血管は戻らない」と肝に銘じてください。
同じように、血管を若返らせることはできないのかという質問もあります。私は基礎の分野が専門ではないので、そうした研究の進捗度などは分からないのですが、もう少し時代が進んだら、細胞が若返るようなものができてくる可能性はあるのではないかと期待しています。しかし、今のところは残念ながら、若返らせることはできないと考えてよいと思います。
血管こそが生命の鍵
オスラーの「人は血管とともに老いる」という言葉は、百年以上経った今でも色あせることがありません。むしろ、現代医学の進歩により、その正しさがより明確に証明されています。
「長寿の家系」というものがあります。それは、遺伝子的に血管内皮細胞が老化するのが遅い家系なのかもしれません。
また、動脈硬化は脳の血管にも影響を及ぼすはずで、一般的には動脈硬化の進行が遅いと認知症になりにくいのではないかと考えられます。認知症の原因の一つは、脳内で作られるたんぱく質の一種・アミロイドβなどが溜まることと言われていますが、疾病は単一のリスクだけで起こるわけではないので、動脈硬化との関係は注目すべきではないかと思います。
長寿を楽しむためには、できるだけ認知症や他の病気にならないでいたいものです。
しかし、血管の健康は一朝一夕には改善できません。毎日の小さな積み重ねが、将来の大きな違いを生みます。まずは自分の血管を知ることから始めましょう。
「序章 日本人の四分の一は血管の病気で死ぬ」より



