ジェンガ、というゲームに苦手意識がある。ゴール、上がり、得点などの設定はなく、誰かがしくじって崩れることでしか終われないルールは意地が悪いし達成感に欠けると思っていた。ジェンガはスワヒリ語で「組み立てる」という意味の「クジェンガ」に由来する。危ういものを、危うさを承知で上へ上へと積んでいく。身体が縮んで、ぐらぐら揺れる積み木のてっぺんに立ったら、それは目のくらむような眺めだろう。
本書には、図らずも脆く稚拙な嘘を重ね、あるいは嘘に巻き込まれた「私たち」の物語が収録されている。
「私たち」の中にはロマンス詐欺にも受験詐欺にも関わっていない、有名人のなりすましなんて考えたことすらありません、という人も含まれている。出来事ではなく、そこに鮮やかに描き込まれた感情を確かに知っているから。「今までただの一度も嘘をついたことがない」なんて真顔で言う人がいたら、とんでもなく厚顔無恥な嘘つきだと思うでしょう。誰だって大小の嘘をつくし、他人もそうだという認識で生きている。テスト勉強してないとか、記憶にございませんとか、週明けには原稿送りますとか。
やっちまった、と後悔しても後戻りできない嘘もある。なら、本当にしてしまうしかない。嘘で嘘を補強し、お粗末な足場を作って必死に手を伸ばす。頭上には本当であってほしい自分、本当であってほしい人生の幻が浮かんでいる。
コロナ禍での苦境からロマンス詐欺に加担させられ、「カモ」としてメッセージを交わすようになった人妻に心惹かれていく大学生の耀太。
次男を中学校受験に合格させてやりたい、という親心につけ込まれ、お金を騙し取られた専業主婦の多佳子。
崇拝する漫画原作者のふりをしてオンラインサロンでファンと交流している「子ども部屋おばさん」の紡。
彼らが溺れた嘘は、側から見れば滑稽で哀れですらある。けれどぐらつく虚構の上で流した汗のつめたさを、私たちは知っている。そんなつもりじゃなかった。足元に明確なラインなど見えなかった。でも気づけば一線を越え、嘘の上にいる――。
辻村深月も、もちろん知っている。だから作者の筆は冷徹なほど克明ではあるけれど、人の弱さを見下したりはしない。誰のどんな感情も嗤うことなく、ただ「心の中にあるもの」としてフラットな目線で描く。私を含めた多くの読者は、辻村深月の眼差しのフェアさに絶大な信頼を置いていると思う。だから、身に覚えのあるずるさや愚かさを正確に言語化されて時にふるえ、いたたまれなくても、どこかで安心して読み進める自分がいる。結末がどうであれ、この人に、この物語に連れて行ってもらえば大丈夫、といつも思い、実際、裏切られたことはない。
「私たち」の物語だ、と感じる理由がもうひとつある。
『五年目の受験詐欺』を読んだ時、途中までは「へえ、大変ですなあ」とのんきに感心していた。東京の中受事情、夫婦関係、子育て。どれをとっても、地方、独身、子どもなしの自分とはまったく交わらない苦悩だと思っていた。
でも、成績に伸び悩む次男の大貴が多佳子に漏らしたか細いつぶやき。
あのひと言で、一瞬で、胸の中に熱い何かが飽和して涙が出た。この子のためなら金なんかなんぼでも払ったるわい、と心の底から思った。初めて味わう感情だった。もしやこれが母性ってやつ……? と驚き、おののいた。属性を超えてうっすら抱く共感という生やさしい情動ではなく、あの瞬間、吸い込まれるように多佳子に憑依させられてしまったとしか思えない。
「ほらぐっとくるでしょ?」と言わんばかりに大きく振りかぶった泣かせ文句でも、迸る心の叫びでもない、普段使いの言葉によって。
辻村作品を読んでいると、しばしばこういう衝撃をくらう。
『2020年のロマンス詐欺』で幼馴染の甲斐斗が耀太に言った「みんな、こっちがびっくりするくらい、自分に夢見てっから」という言葉。
『あの人のサロン詐欺』で、紡が母から「あんたも、名前だけは『紡』なんて、物作りに向いていそうな名前だったのにね」と投げられた言葉。
感情の針が、今まで振れたことのない方向にびよんと弾んでいく。ものの一行で今まで存在すら知らなかった急所を刺されるこの感覚を、私は勝手に「深月の一刺し」と呼んでいる。まじで急に刺してくるから気をつけて。はばかりながら同業者目線で書かせてもらうと、こっちが必死になまくら刀を研いでいる横で脳内深月は「使い方次第だよー、これで十分」とまち針片手に足取り軽く戦場へと赴いていく。
そしてその針は、極限まで膨らんだ嘘をクライマックスで突つき、ぱちんと弾けさせる。罪と恋心の板挟みでにっちもさっちも行かなくなった耀太の暴走。朝のダイニングで切り出す多佳子の懺悔。不測の事態で嘘がばれた紡の恐慌。どうするの、どうなっちゃうの、と物語を追いながら自分も追い立てられているような臨場感でページをめくる手が止まらなくなった。辻村深月が、言葉の使い手としてだけでなく、ドラマの作り手としても一流なのがよくわかる。そう、大前提として、三編どれをとってもめちゃくちゃおもしろい。「だって辻村深月だよ?」と当たり前みたいに思っている節があるけれど、すごいことだ。
特に『あの人のサロン詐欺』はオタクとしていちいちが身につまされすぎて悶絶度合いが高かった。憑依させられるまでもなく、紡の気持ちは何もかもが等身大で、私は紡とともに怒り、へこみ、僻み、羨み、びびり、叫んだ。読み終えた時真っ先に浮かんだのは「ありがとう」という言葉だった。こんなふうに書いてくれてありがとう、と思った。
さて、どの物語でも、嘘で保たれた均衡はやがて限界に達し、崩れる運命にある。それがジェンガの法則だから。虚構が破綻しても世界は滅びない。でも、世界の一部は剥がれ、登場人物たちは、見えていた景色が必ずしも「本当」だったわけじゃないことに気づく。その気づきが嬉しいものばかりでなくても、知る前には戻れない。嘘の残骸は消えずに転がっている。
嘘つきたちは、何もかもがリセットされるハッピーエンドを望まない。砕けた嘘のかけらが刺さっても、思いどおりにいかない現実へと歩み出していく。今までよりはほんのすこし視野を広げて。すべてが丸く収まるわけではないことに、私たちは安堵する。自分も、本を閉じた後の現実を生きていけるかもしれない、と思えるから。
嘘といえば、最後に。
レベッカ・ブラウンの「よき友」という短編に、こんな台詞が出てくる。
「腰抜けになってるときに話すのは嘘。でもよかれと思って話すのはおはなしさ」
「本当の話じゃなくても?」
「本当なのさ。よかれと思って話せば、本当なんだよ」
(『私たちがやったこと』レベッカ・ブラウン著
柴田元幸訳 新潮文庫)
小説を書く時、いつも自問している。いま、腰抜けになっていないか? わからなくて自信がない。
辻村さんの小説を読む時、いつも納得している。
ああ、これが本当のおはなしなんだな、と。







