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個人情報のディストピア小説を政府マイナンバー担当者が読んでみた

個人情報のディストピア小説を政府マイナンバー担当者が読んでみた

文:楠 正憲 (内閣官房番号制度推進管理補佐官)

『ビッグデータ・コネクト』 (藤井太洋 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 パソコン遠隔操作事件で明らかになったサイバー冤罪や、通販業者から漏洩した個人情報を闇で売買する名簿屋、ウィルス感染したパソコンで構成されたボットネットを駆使して迷惑メール対策を巧みにすり抜ける振り込め詐欺犯、街に散在する監視カメラと顔認証を組み合わせた監視……藤井太洋氏が最新作「ビッグデータ・コネクト」で描くのは少し先の日本、官民で蓄積された個人データが勝手に名寄せされ、犯罪に悪用される世界だ。

 個人情報を巧みに悪用した振り込め詐欺<サンマル名簿>を追っていた京都府警の万田警部は琵琶湖のほとりで建設中の官民複合施設<コンポジタ>のシステム設計・開発を指揮していた月岡の誘拐事件の捜査に駆り出される。犯人の送ったメールの送信元が、万田が追っていた<XPウィルス>事件で不起訴処分となった武岱のアドレスだったからだ。大連から帰国した武岱は濡れ衣を晴らすために万田の捜査に協力するが、そこで目にしたのは重層的な下請け構造をはじめとするシステム開発を取り巻く矛盾と、厳しい環境の下でも使命感に駆られて責任を全うしようとする技術者たちの姿だった。施設の規模に不釣り合いなシステムに秘められた真の目的と、彼らがそれを知った時にとった行動とは。

 デビュー作『Gene Mapper』で遺伝子工学、『Underground Market』で仮想通貨、前作の『オービタル・クラウド』では民間宇宙開発を取り上げた藤井太洋氏の小説の隠れた魅力のひとつは、ソフトウェア開発やWebサイトの運用を克明かつリアリティーある筆致で描くところだ。ソフトウェア開発やビッグデータ活用を描く本作はこれまでの作品以上に、最近まで3D CGソフトウェア開発を指揮してきた氏のエンジニアとしての現場感覚が活きた作品となっている。

 コンピュータを使った顧客データの収集・蓄積・活用は今に始まった話ではないが、ここ数年「ビッグデータ」をキーワードに改めて注目を集めている。個人情報保護法が施行された10年前は、個人情報の悪用というと顧客名簿を使ったダイレクトメールの送付が主要な社会問題だったが、この10年ですっかり様変わりしてしまった。

 スマートフォンからは持ち主のリアルタイムの位置情報が収集され、会員管理・広告技術の進展で組織を超えた購買履歴の名寄せが容易となり、監視カメラは顔認証ソフトウェアと組み合わせることで瞬時に被写体の識別が可能となった。これらの技術やデータを活用することで、ひとりひとりの嗜好に最適化されたおもてなしを実現できるが、悪用されれば振り込め詐欺などの犯罪の成功率を高めることにも繋がりかねない。

今年10月から始まるマイナンバー制度

楠 正憲(くすのき・まさのり)
ヤフー株式会社 CISO Board 1977年熊本県生まれ。インターネット総合研究所、Microsoftを経て2012年ヤフー入社。技術調査室 室長、ID本部長などを経て現在はCISO Boardとして全社の情報セキュリティー戦略を立案。内閣官房で2011年から番号制度推進管理補佐官、2012年から政府CIO補佐官としてマイナンバーを支える情報システムの調達支援に従事。

 ばらばらに収集・管理された個人データが名寄せ突合され、本人の関知しないところで利用されかねないことに対する懸念が広がっている。昨年夏のベネッセ個人情報流出事件で明らかになったのは、こうした個人情報の多くが雇用の不安定なエンジニアによって運用保守されており、不当に持ち出された個人情報が名簿屋を通じて勝手に売買され、様々な営業活動に使われている現実だ。

 こうしたプライバシーを取り巻く環境の変化や、度重なるプライバシー侵害事案に対する国際的な懸念の高まりを受けて、2013年にOECDのプライバシーガイドラインが改定された。今年に入って米国ではオバマ大統領が1月にFTCでID詐取や個人情報漏洩と闘うと演説し、2月に消費者プライバシー権利章典法案を公開、EUはデータ保護規則の大幅な改訂を準備している。日本も3月に個人情報保護法の改正案を閣議決定したばかりだ。

 本書では官民複合施設<コンポジタ>での個人番号カードの不適切な利用が登場する。実際に2013年5月にマイナンバー法が成立し、今年10月から個人番号の記載された通知カードが全ての住民に配布される。2016年から社会保障・税・災害対策の分野での利用が始まり、身分証として利用できる個人番号カードの取得が可能となる。

 施行前で情報が限られていることもあり、実際の制度や情報システムの仕様とは所々異なる記述も散見されるが、サイエンスフィクションとしてはありがちなことだ。情報システム業界における重層的な下請け構造や、海外オフショア開発の危険性、自治体での旧バージョンのソフトウェアの継続利用、自治体個別に100万文字を超える外字をつくってしまったために組織を超えた氏名での検索や名寄せが難しい実態など、関係者の間では知られた現実も描かれている。

 縦割りの組織に手足を縛られ、年輪を重ねて腐ったデータと不条理な仕様に直面する中で、自分の信じる理想や正義とどう折り合いをつけて前に進むのか。武岱や月岡がシステム開発で直面した隘路や不条理は、歴史ある大規模システムに携わった者であれば、多かれ少なかれ誰もが直面したことがあるのではないか。

 現に業務が回っている中で、既存のシステムやデータを簡単に捨てることはできず、その時々の制約条件の下で合理的な判断も時を重ねるにつれて設計負債として蓄積される。そしていつしか数多ある依存関係に絡め取られてしまい、個別のシステム改修では身動きが取れなくなってしまう。そういった困難に直面しても絶望せず、ほつれた糸を解きほぐすように改善のため地道に尽力する人々がいても、一朝一夕で解決できる問題ではない。

 ジョージ・オーウェルの古典『1984年』をはじめ、映画「マイノリティ・リポート」など、技術の進歩でプライバシーが丸裸にされる未来はSFとして定番ジャンルのひとつだ。本書が監視対象としての主体だけでなく情報システムの作り手側の情熱と葛藤を描く視点からは、技術者に対する愛情と思い入れを感じる。個人情報の利活用を巡る様々な論点について考え直す契機になると同時に、エンジニアであれば思わずニンマリしてしまう記述を見つけられるだろう。

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