『死んだ山田と教室』でデビューし、同作で本屋大賞にノミネートされた新鋭・金子玲介さんの最新長編『私たちはたしかに光ってたんだ』が4月9日に発売となりました。ド直球の青春バンド小説である本作の冒頭ためし読みをお届けします!


 15

「待って。一個だけ臓器まじってない?」

 私は話し続ける朝顔(あさがお)を遮って訊いた。

「え?」朝顔は一重のまぶたを少しだけ持ち上げ、「臓器?」率直に訊き返した。教室に西陽が差し込んで、プランクトンみたいな埃が舞って泳いで光っていたのを「臓器?」鮮明に覚えている。

「ベースだけ、臓器じゃん。今の説明」

「……あー」朝顔はわかったようなわかっていないような声で応えた。「んぁ?」わかっていなかった。

「ボーカルが? バンドの? なんだっけ?」私は訊き返した。

「顔」

「うん。バンドの顔ね。わかる。ギターが?」

「腕」

「なるほど。で、ドラムが?」

「脚」

「ベースが?」

「心臓」

「臓器じゃん」私はまた言った。「臓器じゃん、ベースだけ」

「……臓器だけども」朝顔は首を傾げ、困った顔をしていた。「つーか、え、そこそんな気になる?」

「気になるというか、単純に、一個だけ臓器だなぁ、と」

「臓器だけども」朝顔がほどけるように笑った。ずっと振り向いたままの上半身が、入学したばかりなのに元から傷だらけの私の机に、濃い影を落としていた。

三浦(みうら)さんは、」このときはまだ、苗字で呼んでいた。「腕になりたいってこと?」

「そうね。アタシはギター」

「で、私が心臓、やるの?」

「うん。瑞葉(みずは)がベース」朝顔はもう、私を名前で呼んでいた。「なんか、向いてそう」

「顔と脚は?」

「探す。これから」

「心臓って、めちゃくちゃ大事だよね」

「すげぇ大事」

「私が心臓に、なっていいの?」

「いいよ」

 朝顔がそう言ってにこっとしたのを、線みたいに細めた目が白く光って見えたのを、

「瑞葉、おもしろいし」

 今も覚えてるし、たぶんずっと、死ぬまで覚えてる。

 26

 だめだ。再起動しないとどうしようもない。

 シンクライアントを再起動させて席を立ち、山木(やまき)くんの椅子の背もたれに「ごめん」と言いながら触れると山木くんが「あ、すんません」と椅子を前に引き、壁との間のスペースを拡げてくれて、やっと廊下へ出られる。

 前までは広い会議室を貸してもらえていたけど、今週は空きがないとかで窓のない狭い会議室を割り当てられ、息が詰まる。空気が澱んでいる。まぁ朝から晩までいる会計士相手に、良い会議室を貸したくないという気持ちも、わからなくはない。

 部屋を出る直前、いちばん奥に座る黒野(くろの)さんが「また離席?」という目で私を見た気がした。再起動しなきゃなんだからしょうがないじゃん。その間なんもできなくなるし。トイレにでも行って少し休憩するのが、いちばん賢い時間の使い方だ。

 うちの監査法人は今年からシンクライアントを導入していて、ローカルのデスクトップではなく、常に仮想デスクトップ上で作業する形になっている。

 ときどき接続が不安定で、急にPCがまったく動かなくなる瞬間がある。そういうときは右上に〈再接続を試みています〉みたいに出るけど、諦めてシンクラごとぶちっと再起動させちゃったほうが再接続を待つより早い。作業自体は仮想デスクトップ上でやってるから、たとえ再起動しても、やり途中だった調書が消えることはないし。

 トイレの個室に入り、用を足す。

 というかやっぱシンクラだと、PCの挙動が遅い。前はもっとさくさく動いてた気がする。せっかくタイピングやらショートカットやらがんばったのに、私が文字を打つ速さにPCの処理が追いついてこないときがあって萎える。でも情報セキュリティ考えたらしゃあなしとは思う。仮想デスクトップ上で作業してればPC自体にデータが残ることはないから、もしPC紛失しても帳簿が流出しなくて安心だし。

 十七時のクロージングミーティングまで、あと二時間弱。

 間に合うかな。

 ちょっと際どい。ぎりぎり終わらないかも。てかなんで私の分担こんな多いんだ。過信しすぎだろ私を。スタッフぜんぜん足りないんだからマネージャーやシニアマネージャーがもっと手を動かせ手を。黒野さんも朝から現場いるなら一プロセスくらいやってくれ、まじで、あぁー、くそ。

 Twitterを見る。違うかXか。

 最新のツイートから、だらだら遡る。会議室にまだ戻りたくない。紅白の文字が目に入り、息が止まる。紅白出場歌手が、もう発表されている。

 指を滑らせる。心臓が高鳴る。あのひらがな五文字を見つけ、音が聞こえなくなる。

 さなぎいぬ(初)。

 じっと見る。目でその文字を、繰り返しなぞる。

 紅白。

 そっか。

 叶えたんだな。

 ついに。

 反射的に、またWikipediaを見に行く。このページ、もう何度見たんだろ。紅白出場、もう書いてある。

 メンバー
  柏葵(かしわ あおい)(ボーカル)
  三浦朝顔(みうら あさがお)(ギター・コーラス)
  広瀬緋由(ひろせ ひゆ)(ドラムス)
  小柴夢乃(こしば ゆめの)(ベース)
 旧メンバー
  室瑞葉(むろ みずは)(ベース) 

 このページの、この私の名前を、私は何度見に行けば気が済むんだろ。

 16

 緋由(ひゆ)と朝顔がドリンクバーを取りに行った。

 私も行こうか迷ったけど、そうすると葵がひとりになっちゃうなぁとか思ってたら「瑞葉ってさ、」(あおい)が口をひらいた。「内進?」

「いや、」首を振った。「高校から」葵を見返す。私を見つめたまま、山ぶどうスカッシュをのんびり吸い上げている。「え、合ってるよね? 質問の意味」

「合ってるよ~」葵がようやく、ストローから口を離す。「そうなんだ、高校からなんだ」嚙んだのか、先が潰れている。

「中等部っぽい? 私」

「ん~、そうでもない! 高校からっぽいかも!」

(かしわ)さんは?」

「葵でいいよ~」

「葵ちゃんは?」

「葵でいいよ~」

「葵は?」

「あたしも高校から!」

「あ、そうなんだ」

「うん!」葵がストローでグラスの中身を搔き回す。紫色に浸った氷がじゃらじゃらと鳴る。「ぽい?」

「いや、どっちかと言うと、中等部っぽいかも」

「そう?」

「うん」頷く。

「どのへんが?」

「……なんか、雰囲気」ちょっと高貴な感じ。

「残念、」葵が歯を見せる。「高校受験してます~」矯正器具も見える。「なんで軽音なの?」急に訊いてくる。「ロックとか、好き?」

「いや、朝顔に誘われて」

「ふーん」葵の表情は変わらない。瞳が大きい。「そっか~」

「あ、でも、邦楽のはふつうに好き。チャットモンチーとか。洋楽のロックとかは、ほとんど聴かないけど」

「それはあたしもそうだな~」

「葵は、脚だっけ?」

 葵が口を半開きにして、まばたきを増やす。「……へ?」華のある顔。

「あれ? 朝顔から説明受けてない?」

「説明? なんの?」

「ギターが腕で、ボーカルが顔で、ドラムが脚で、ベースが心臓で、っていう」

 葵が私の目を見つめる。さっきからすごい、目を見てくる。じっと見つめ、私の言ったことを咀嚼し終えた後で、「それで言えば、」澄んだ声を出す。「顔だな、あたしは」はにかみ、また、矯正器具が見える。

「なるほど」かわいい。矯正してるのに。「じゃあ脚は広瀬(ひろせ)さんか」

「てか自分で顔っておかしいな、あくまでその分類だとって話ね!」顔全体がほんのり赤くなっている。「あたし、ボーカルだから。別に自分でバンドの顔って言ってるわけじゃないよ? ボーカルだから、その対応関係だと、顔ってことになるよ、ってだけで。そこだけほんと誤解しないでね、ほんと、それだと、痛い子みたいだから」

「何ごちゃごちゃ言ってんだ」朝顔がコーラの入ったグラスを両手に持って帰ってくる。もしかして私の分? 後ろに緋由もいる。緋由のグラスは、なんだろう、何かと何かを混ぜた色をしている。

「なんでもない!」葵が手を振る。朝顔が私の隣に、緋由が葵の隣に、お尻を滑らせる。入学して一週間ちょいなのに、朝顔のスカート丈は短い。

 緋由が不思議な色の飲み物を、ストローでひとくち飲む。

「なにそれ!」葵が指差す。

「山ぶどうスカッシュと野菜果物ジュースを混ぜたやつ」緋由が答える。

「おいしいの!?」

「美味しい。ふつうに」

 朝顔が持ってきたコーラの片方に「ありがとう」お礼を言って手を伸ばすと、

「は?」手のひらで蓋をされる。

「え」

 朝顔が目を見ひらき「窃盗?」

「窃盗? なんで?」どういうこと?「それ私のも取ってきてくれたんじゃないの?」頼んではないけど、状況からして、てっきり。

「ちげぇけど?」怪訝そうに、二杯のコーラを両手で包み込む。

「ちがうの? じゃあ何? 何用? それ」

「予備」朝顔が真顔で言う。

「予備? 要る?」私は氷だけになった目の前のグラスを手に取る。「また取り行けばよくない?」

「めんどくせぇじゃん」

「一理ある」緋由が斜め前から口を挟んでくる。葵はまだ最初の一杯の山ぶどうスカッシュをちびちびと吸いながら、手持ち無沙汰に微笑んでいる。

「えーじゃあ私取ってくる」私が立ち上がると、

「ま、これでも飲みな」朝顔が二杯目のコーラを私の前にスライドさせてきた。

「どっちなの」笑いながら着席して受け取る。

「そういう意味の予備でもあるから」

「今までの三十秒はなんだったんだ」もらったコーラにストローを移し、ひとくち喉を潤す。葵と緋由が笑い、私と朝顔もまた笑う。

 けらけら笑っていた朝顔が、急に姿勢を正し「つーことで、バンド名を決めます」

「急じゃない!?」紙ナプキンでグラスに付いた水滴を拭っていた葵が顔を上げる。「まだ自己紹介もちゃんとしてないのに!」白いカーディガンの袖が、手の半分くらいまで伸びていてかわいい。

「あれ? してねんだっけ?」

「してない」私は言った。「お互い名乗り合ったぐらい」

「ミラノ風ドリアのお客様ー」店員さんが来る。

「はーい。ここと、ここです」私と葵。

「キャベツのペペロンチーノのお客様ー」

「あ、はい」緋由。

「カルボナーラのお客様ー」

「うす」朝顔。

「ご注文は以上でお揃いでしょうかー」

「はい」「はーい」

「ごゆっくりどうぞー」

「じゃあ料理も来たっつーことで、」朝顔が手をぐいと伸ばしてフォークとスプーンを取り、「自己紹介でもすっか」いただきますも言わずに食べはじめる。

「誰から行く?」葵が緋由にフォークを、私にスプーンを配ってくれる。「緋由ちゃんスプーンも要る?」

「平気、ありがとう」

「ありがと」私は受け取って、朝顔を見る。「やっぱリーダーからじゃない?」

 朝顔がカルボナーラを嚥下してから「アタシ?」グラスに直接口をつけコーラを飲み「なんで?」

「そりゃあ、リーダーなんだから」

「てか自己紹介ってむずくね? 何しゃべりゃいいの?」

「名前の由来とか?」葵が楽しそうに言う。

「朝生まれたから」朝顔が即答する。

「朝って何時?」私は訊く。

「十一時」

「ほぼ昼じゃん」

「そうなんだよ、アタシもほぼ昼って思うけど、朝顔なんだよ」朝顔が苦笑する。「ふつうに好きらしい、親が。花のアサガオが」

「へえー」相槌を打ちながら、ミラノ風ドリアにタバスコを振りかける。

「昼顔じゃない?」緋由がフォークにパスタを巻く。「十一時はもう。朝顔っていうより」口に運ぶ手前で、ベーコンがはらりと落ちる。「ごめんやっぱスプーン要るわ」カトラリーケースに手を伸ばす。

「要る?ってあたし訊いたのに~」

「とりあえず名前と、クラスと、担当楽器と、楽器経験と、好きな音楽とかじゃない?」空気が緩んできたので、私が軌道修正する。

「三浦朝顔、1年C組、ギター。三歳からヴァイオリン、五歳からエレクトーンやってる。ギターは高校の合格決まってからだから、歴は二か月くらい。ショパンとビートルズと民謡が好き」早っ。てか民謡?

「民謡!?」葵が訊いてくれた。「なんの民謡!?」

「スウェーデン民謡とか。でもなんでも好き。クラシックもポップスも。邦楽も洋楽もなんでも」

「すごっ」

「次だれ?」緋由が訊く。

「時計回り?」葵が訊く。

「じゃあ瑞葉」朝顔がこっちを向く。

 口の中のドリアを飲み込み「はい、(むろ)瑞葉、朝顔と同じ1年C組で、ベースです。楽器経験は、すみません、ありません。ベースもこれから買います。好きな音楽は、RIP SLYMEとか、ポルノグラフィティとか、チャットモンチーとか好きです。クラスで前の席の朝顔にバンド誘われて、部活もどこ入りたいとか特に決まってなかったから、これもなにかの縁ってことで、軽音に決めました。あ、ちなみに今日誕生日です。十六歳になりました。初心者だけど、これから一生懸命がんばるので、よろしくお願いします」

「いいねぇ。誕生日おめ」「瑞葉おめでと~!」「おめでとう。いいなぁ、四月生まれ」みんな口々に祝ってくれる。

「ありがと」

「じゃあ次、葵」

「柏葵、1年E組。あ、緋由ちゃんと同じクラスです、あとでまた言ってくれると思うけど。平仮名にすると六文字だけど、漢字だと二文字だけなので、いつも珍しがられます。漢字二文字でコスパ良いとか言われるけど、画数まぁまぁ多いからそんなにコスパ良くないっていうね。担当はボーカルです! 一応、昔、子役でミュージカルとかやってて、歌が好きなので、ボーカル志望で軽音部入りました。そしたら朝顔がバンドに誘ってくれました。がんばるので、よろしくお願いします!」

「元子役? すごくない?」そんな人はじめて会った。

「なに出てたん?」

「主役とかじゃ全然ないんだけど、」うつむき、ドリアの端の焦げ付きを、スプーンでカリカリこそいでから顔を上げ「アニー出てた」

「すげぇ」「すご!」「すごすぎ」

 場が沸く。どうりでかわいいわけだ。照れてまた目を伏せるのもいちいちかわいい。

「じゃあ最後、緋由」

「あ待って、」手を挙げる。「葵の好きな音楽、聞いてない」

「そうだ、忘れてた! バンプとかラッドとかアジカンとか、そういうのよく聴いてる! もしよければ『天体観測』とかコピーしたいな~、なんて」

「おっけ、コピーしよう。じゃあ最後、緋由」

「えー、広瀬緋由、葵と同じ1年E組です。ドラムです。あとなんだっけ?」

「楽器経験と好きな音楽」

「えー、楽器経験は、ありません。わたしだけ初心者だったらどうしようとか思ってたけど、室さんが同じ初心者だったので安心しました」私も。

「んぁ?」朝顔が眉を上げ「室さん?」

「だってほら、」緋由がちらっと私を見てから、朝顔に目を戻し「室さんだけ、初対面だから、今日」

「まだ私たち、室さん広瀬さんの間柄だよ」朝顔はとっくに朝顔だし、葵はさっき葵になったけど。

「じゃあ今から、瑞葉緋由の間柄で」朝顔が手を叩く。「ごめん腰折った、はい、続き、どうぞ、」綺麗な音が響いた。「じゃんじゃん打ち解けてくれ」

「えー、そう、だから、瑞葉と同じ初心者だけど、一生懸命がんばります」軽く頭を下げ、食事に戻る緋由の肩を、

「いやいや好きな音楽!」葵が触る。「みんな忘れる~」

「忘れた。えー好きなのは、」フォークとスプーンを置く。「オレンジレンジとかスキマスイッチとか。お父さんの影響でジャズもちょっとだけ聴くかな。あとたぶんわたしだけ中等部から、だと思う。だよね?」

 みんな頷く。

「だよね。で、中学のときは陸上部だったんだけど、なんかいろいろあって、中三の秋にやめちゃって。で、高校でなんか新しいこと始めたくて、バンドとかちょっと興味あったから軽音部の説明会いったら、そこで葵と仲良くなって、」緋由が葵を見る。葵もにこにこと見返す。「で、ドラムってなんか足でもドコドコやってるイメージあって、短距離で鍛えた足が活かせるかな、とか思ってたら、ちょうどドラム空いてるって話だったんで、ドラムにしました。まぁ、よろしくお願いします」ぺこっと頭を下げる。

「いいね。いいメンバーだ。いいバンドになりそう」朝顔がほくほくする。「じゃあバンド名決めっか」

「早い! でもそうだよね、決めなきゃだよね」葵がドリアの白い部分をスプーンで掬う。

「んー、」私もドリアを口へ運ぶ。「どうやって決めよう」私はミートソースの部分とホワイトソースの部分が均等に減っていくように食べてるけど、葵はなぜかミートソースの部分ばかりが残ってる。

「やっぱかわいい系がいいかなぁ?」葵がまた、白い部分を食べ進める。ミートソースが好きで、最後に多く食べたいから残してるのかな。それか逆で、ホワイトソースが好きだから、そっちの減りが早いのか。「女の子四人だし」

「リーダーはどういう系がいいの?」緋由が訊く。

「なんだろう」朝顔は腕を組み「なんだろうな」視線を上へ逸らしてから「ダセェのじゃなけりゃなんでもいいよ」意地悪っぽく笑った。

 ダセェのじゃないの、か。

「んー」

 むずかしい。

「じゃあかわいい系じゃないほうがいいかな?」葵が申し訳なさそうに言う。

「いや、ダセェ=かわいい系じゃないから、かわいい系でもいいよ」

 しばらくみんな考え込む。壁の天使の絵を見つめる。なにも出てこない。むずい。

「むずい」声に出してみた。「むずくない?」

「ダサくないかわいい系ってどういうの?」緋由。

 朝顔がまた腕を組み「そう言われると、むずいな」

「え~」葵がミートソースの部分を嬉しそうに口へ運ぶ。好きだから残してたパターンかも。

 ふと思いつく。「レミオロメン方式は?」

「なにそれ」「どういうこと?」

「たしかレミオロメンって、三人でじゃんけんして、勝った順に一文字二文字三文字を決めて並べてバンド名にしてた気がする」

「へぇ」

「いいんじゃん? それで」朝顔が身を乗り出す。「じゃあじゃんけん、最初はグー、」「待って早い」葵が言うし私も思ったけど「じゃんけんぽん」みんな手を出す。私と葵と緋由がグーで、朝顔がパー。「お、勝った」朝顔が手をひらひらさせ「で、なんだっけ? 一文字言やいい?」

「あれ?」緋由が不思議そうに「勝った人から文字数多いのではなく?」

「いや、たしか、勝った順に一文字、二文字、だった気が」たしかそう。

「つまりバンドの頭文字はリーダーのアタシが決めるってこった!」朝顔が口の端についた白いソースを舐め「どうすっかなー」携帯が震える音。「ん?」朝顔のカバンから?「アタシか」取り出し、ひらく。「親父からじゃん。ごめん出てくる」立ち上がり、去り際に「三浦の『み』で」

 朝顔の背中を見送ってから、顔を見合わせる。

「……オヤジ」葵がぼそっと。

「思った」緋由が噴き出す。「珍しくない? 女子で、お父さんそう呼ぶの」

「朝顔っぽいよね、めっちゃ」私も笑う。女子でその呼び方、初めて聞いた。

「残りも決めちゃう?」緋由の手がもう、最初はグーの形になっている。

「待って」葵。「上から一文字二文字三文字四文字だと、バランス悪くない?」

「たしかに」五・五のがいいか。「じゃあ、一文字四文字、二文字三文字にしよっか」

「天才!」「いいね」

「じゃあやるよ。最初はグー、じゃんけんぽん」私がチョキ、葵がパー、緋由がグー。「あいこでしょ」私がパー、葵もパー、緋由もパー。「あいこでしょ!」私がチョキ、葵がパー、緋由もパー。「勝っちゃった」

「負けた~」

「あれ? これ私が四文字?」

「勝った人から順だと、そうなる」

「私が文字決めてから、次じゃんけんする?」

「あー、どうしよ、」緋由がフォークでパスタを弄んで「なんか一斉に出したほうがおもしろそうだから、紙に書くか」紙ナプキンに手を伸ばす。遠いので、私が取る。

「了解、考えとく」カバンから筆箱を取り出し「じゃんけんしてて」筆箱からボールペンを取り出す。

「は~い」えー、どうしよ。「最初はグー、」朝顔が自分の名前にしたから、私もそうする?「じゃんけんぽん」むろみず? でも四文字は多いな。「あいこでしょ」私の好きなものがいいかな、なんだろ、栗?「あいこでしょ」二文字だな。「あいこでしょ」マロンでも三文字だ。「勝った」「また負けた~」緋由が勝って、葵が負けた。

「あたし最後だから三文字ね!」葵が紙ナプキンを二枚取って、一枚を緋由に渡す。「何がいいかな~」

「悩む」緋由の筆箱、ひよこだ。かわいい。

「みんなどういうのにする~?」葵の筆箱、意外とシンプルだな。

「ここからはもう、相談なしで」緋由がぴしゃりと手を立てる。「そのほうがおもしろい」

「え~」葵がシャーペンの先を、紙ナプキンに当てる。「どうしよ~」

 どうしよう、私も考えなきゃ。……四文字って重要だよね。文字数が多いから、あんま私を前に出しても微妙だな。なんだろ、この四人の共通点とかかな。私と朝顔はC組で、葵と緋由がE組だっけ。わりとみんな背低い? あーでも緋由がそこそこ身長あるな。んー。どうしよう。それこそ啓栄大学附属女子高校ってくらいしか共通点が……。でもそれ入れたら母校愛強すぎるみたいになって恥ずかしいか。母校とか言って、まだ入学したばっかだけど。母校って言葉、卒業した学校にしか使えない? 在学中も使える? ってどうでもいい、考えなきゃ。なんだろう。なんにしよう。サイゼリア? 初めての会合がサイゼリアだから、サイゼリアにちなむ? 違うか。サイゼリヤか。おしぼりの袋にサイゼリヤって書いてある。いつもどっちかわかんなくなるんだよね。あ、でも四文字だからどっちにしろ関係ないか。サイゼリ、かな。イゼリヤ、でもいいか。でもやっぱサイゼリにする。書く。

「書けた」緋由が紙ナプキンを折り畳みながら言う。

「私も」ペンを置く。

「あたしいま書いてる~」葵が左手で紙を隠すようにして、何かを書く。「ちょっとシャーペン書きづらいかも」私のボールペンを渡す。「ありがと!」ささっと書く。「書き終わった~」

「じゃあ発表しますか、一斉に」緋由がにやにやと四つ折りの紙ナプキンを掲げる。「せーの、」

 葵が『うなぎ』で、緋由が『ポン』で、私が『サイゼリ』。

 うなぎ……。ポンも何? なんのポン?「とりあえず並べますか」私はもう一枚紙ナプキンを取って、『ミ』と書いてから、四枚並べてみる。「あ、真ん中に点あったほうがいいかな」もう一枚に『・』を書いて、間に挿し込む。

「ミサイゼリ・ポンうなぎ」葵が読み上げる。

「ミサイゼリ・ポンうなぎ、か」復唱する。

「どうなんだろうね」緋由が難しい顔をする。「ミサイゼリ・ポンうなぎ」

「これはこれで、」葵が不安そうに微笑む。「あり、なのかな……?」

「バンド名決まった?」朝顔がすたすたと席に戻ってくる。「どれ? これ?」五枚並んだ紙ナプキンを指さす。「ミサイゼリ・ポンうなぎ?」腰を下ろし、三人の顔を見回す。「ミサイゼリ・ポンうなぎで合ってる?」三人目配せをしながら、それとなく頷く。「ミサイゼリ・ポンうなぎは、ダセェから却下で」朝顔が豪快に笑う。却下してもらえてほっとした。葵も緋由も、ほっとした顔をしている。

「サイゼリってなに? 誰?」

 おずおずと手を挙げる。

「あ、サイゼリアか。サイゼリアにいるから、サイゼリなのか」朝顔が紙を手に取り、私の筆跡を見つめる。

「あの、サイゼリヤ、らしいよ」いちおう訂正する。

「ん? あ、そうなん、サイゼリアじゃなくてサイゼリヤなんだ、どっちでもいいけど」朝顔が笑う。「まぁこれはいいや。わかる」紙をテーブルに戻す。

「ポンは?」手に取る。「なんのポン? つーかこれ誰? 葵?」

「あ、わたし」緋由が縮こまって手を挙げる。

「なんのポン?」

「それは、その、フルーツポンチが好きだから、それのポン」

「シロップのやつ? あの甘い、」

「じゃなくて、芸人のほう」

「あ、そっち」

「緋由ちゃんフルーツポンチ好きなんだ~」葵がドリアの最後のひとくちをスプーンに搔き集めながら言う。やっぱミートソースで締めるんだ。

「好き」緋由が恥ずかしそうに下を向く。「おもしろい。あとかっこいい」

「そうなんだ! あたしも好きだよ!」葵がドリアを食べ切り「かっこいいは、ちょっとわかんないけど」ほぼ氷だけになった山ぶどうスカッシュで喉を潤す。

「なるほど」朝顔がうんうんと頷く。「フルポンうざおもろいよな。アタシも爆笑レッドカーペットたまに見る」私は比較的はんにゃ派。

「じゃあ最後、」『ポン』を戻し、『うなぎ』を手に取る。「葵、うなぎ好きなん?」

「好き~」葵も照れくさそうに視線を落とす。「うなぎも好きだし、ウナギイヌも好き!」

「ウナギイヌ?」朝顔が細い目を見ひらく。「あの、バカボンの?」

「そう」もじもじと頷く。「かわいくない?」

「たしかに、言われてみれば、かわいいかもしれない?」緋由が語尾にハテナを滲ませながら同調する。

「ウナギイヌ好きって人、初めて見た」ウナギイヌという単語、久しぶりに発声した。

「ウナギイヌ、いいんじゃね?」朝顔が手をぽんと叩き、目を輝かせる。「バンド名に」まじ?

「え~!?」葵が目を丸くする。「ダサくない!?」

「ダサくはない。意外と」朝顔が葵を見つめる。「響きにまとまりあるし、キャッチーだし」そう言われればたしかに、悪くないかも?

「でも、検索とかしづらいかもね。すでにある言葉だし」緋由がそれとなく『ポン』の紙を丸めながら言う。「造語のがいい気も」グラスの水滴で濡らしてから、ぎゅうううと潰し、ビー玉みたいな大きさにする。

「一理ある」朝顔が私のボールペンを手に取り、『うなぎ』の後ろに『いぬ』と書き加える。「んー、どうすっか、響きはけっこう気に入ってんだよな、うなぎいぬ」

「ウナゼリヤは?」葵が提案する。「瑞葉のサイゼリヤと混ぜて」

「ん~、いやぁ~、」朝顔が顎に右手の指を当て、天を仰ぐ。「ギーヌの部分がいいんだよな、ギーヌの部分が」左手の先で、とんとんとテーブルを叩く。「ヌがいいんだよ、たぶん。女バンドだし。語尾にヌがついてるとそれっぽくね? パリジェンヌ的な」

「サナギイヌは?」私が言った。

 私が最初に、その五文字を口にしたのだ。

「あり!」朝顔が叫ぶ。「完全にあり。サイゼリヤのサ?」

「そう」頷く。「サナギとも掛かっていいかな、って」

「あー、なんか、しっくりくる」緋由。「これから蝶になります、的な」

「最高!」葵。「グッズとかも作りやすそう!」

「たしかに」朝顔が指をパチンと鳴らす。「キャラクターとしても売り出せんじゃね」

 葵が新しい紙ナプキンを取り、私のボールペンを使って、犬の顔にサナギの胴体を付けた絵を描く。「どう?」

「かわいい」「あり」「いいね」

「ひらがな? カタカナ?」葵が訊く。

「ひらがな」朝顔が即答する。

「了解!」絵の下に、丸っこい文字で『さなぎいぬ』と書く。「うん! いい感じ!」ほんとにいい感じになってきた。

「というかグッズとか作るんだ?」緋由が言う。低めの声が、さっきより弾んでいる。

「作る」朝顔が力強く頷く。「ゆくゆくだけど。まずは演奏のレベルを上げんのが先。でもゆくゆくは武道館でライブして、ドームでもライブして、グッズも売り出して、紅白も出る」

「まじ?」

「まじ」朝顔がふいに真面目な顔をする。それから三人の顔を、目を、かじりつくように見回し「だからそのつもりでよろしく」

 16

 扉の隙間から、お父さんのためらうような顔が覗く。

 PCで流していた動画を止め、ベースをスタンドに立て掛け「ごめん、うるさかった?」

「いや、」お父さんが呟き、首を振る。隙間はそのままで、何かを考えているような、半分だけの顔が見えている。「そこまで」

「そこまでってことは、ちょっとはうるさい?」

「いや、」また首を振る。「うるさくないよ」

「起こしちゃった? もしかして」

「いや、起きてた。元から」

「ごめんね、動画のほうイヤホンにしちゃうと、自分が弾いてる音よく聞こえなくて」PC画面右下の、時刻表示が目に入る。もう十二時半だ。本当は起こしちゃったのかも。「あ、こっち? もしかして」ベースを指差す。「弦はじく音がうるさい? アンプ通してないから平気と思ってたけど。生音が実はうるさい?」

「だからうるさくないよ」お父さんの表情が和らぐ。「練習、えらいな、と」

「……お子さんが元気でよろしおすなぁ、みたいなこと?」

「なにそれ」

「婉曲表現」

「違うよ。ストレートに言ってる」お父さんが声を抑えて笑い、ずれた眼鏡を直す。「入っていい? 部屋」遠慮がちに訊いてくる。「瑞葉がベース弾いてるとこ、せっかくだから、見たくて」

「まだ見せられるレベルじゃないよ」

「でも見たい。お父さん楽器とかやったことないから、どんな感じか見たい」

「えー、ライブまで待てない? 秋の文化祭でやるはずだから」

「初心者の段階でしっかり見ておいてから、文化祭のライブを見て、瑞葉ベース上手くなったなぁ、と我が子の成長を実感したい」なんだその親心。

「お母さんはいいの?」

「お母さんは、もう寝ちゃった。僕だけ寝付けなくて」

 部屋を見回す。わりと片付いていて、見られて困るものはない。演奏はまだ見せていいレベルじゃないけど、仕方ない。お父さんお母さんから誕生日に買ってもらったベースだし。「いいよ。入って」

 お父さんがドアを広く開け、後ろ手に閉める。

「おぉー、かっこいいね、やっぱり」立て掛けたベースを見て、お父さんが感嘆の声を漏らす。「これにしてよかったね」

「うん」本当にそう思う。一か月前、駅ビルの楽器屋にお父さんお母さんと行って選んだ、エピフォンのサンダーバード。ぐにゃっとした形がかっこよくてかわいいし、ダークブラウンの色合いが渋すぎて惚れ惚れする。ストラップとケースとシールドとスタンドとチューナーと小型のアンプも全部ひっくるめて六万円くらいしたけど、めちゃくちゃ練習するしめちゃくちゃ勉強もするのでお願いします買ってくださいお願いしますと土下座する勢いでおねだりしたら買ってくれた。「ありがとう。すっごい気に入ってる」

「それはよかった」お父さんが微笑んで「ちょっと弾いてみてよ」

「えー」と言いながら心は決まっていて、ベースをスタンドから持ち上げて構え、勉強用の回転チェアに座る。「もう夜だし、生音であれだけど。アンプから出る音が本来の音だけど」

「アンプ繫いじゃだめなの?」お父さんがカーペットの上に体操座りをして、私を見上げる。

「だめでしょ。お母さん起きちゃうでしょ」

「そっか」お父さんが残念そうに言ってから、レンズ越しの目を輝かせる。「なに弾いてくれるの?」

「まだ曲は弾けないから、なんか練習用のやつ」

 ベースをぶつけないよう気を付けながら椅子を回し、動画を少し巻き戻す。オクターブ奏法の解説動画で、どこの誰かよくわかってないけどベースの上手いお兄さんが弾いているフレーズを、お父さんに見えない角度でちょっとだけ練習する。「えー見せてよ」と背中から聞こえる声に「ちょっとだけ待って」と返しながら何回か弾き、お父さんに向き直る。

「いきます」左手でネックを摑み、三弦の5フレットを人差し指で、一弦の7フレットを小指で押さえる。右手の親指をピックアップに置き、人差し指の先を三弦に、中指の先を一弦に当てる。

「おーそれっぽい」

「はい、いきます」お兄さんの手つきを思い出しながら、右手は三弦と一弦を八分音符のベタ弾きで交互に、左手は人差し指を7フレット、4フレット、9フレットと移動させ、同じタイミングで小指も9フレット、6フレット、11フレットと移動させていく。「あーだめ、ぜんぜんだめだ」

「だめなの?」お父さんが目をぱちくりさせる。「かっこいいけど」

「いや、だめ。右手も左手もがちゃがちゃしてるし、ぜんぜんだめ。小指とかぜんぜん力入んなくてうまく押さえられてないし。あー」左手の小指の先を、右手の中指でさする。「毎日ベースさわってるし、だいぶ硬くはなってきたんだけどなぁ。もっと手が大きければなぁ。まぁ練習あるのみだね。ベースはさわればさわるほど上手くなるらしいから。もっかい弾いていい?」同じフレーズを、二度、三度、繰り返す。「んーだめ、だめすぎる。最後の、D♭からG♭のとこが、めちゃぎこちない。音と音の隙間が空いちゃってる。切れ目なくベターって弾くからかっこいいのに。あとやっぱ、右手を動かしすぎてるかも? もっと最小限の動きで当てなきゃ。だめだ、こんなんじゃ朝顔とかみんなに迷惑かけちゃう。どうしよう、やばい。ぜんぜん弾けてないよね?」

 指板から目を離し、お父さんを見る。

 ぽかんと口をあけ、私を見上げている。

「久しぶりに見た」眩しそうに、目を細める。「こんな楽しそうな瑞葉」

「えっ、噓、」そう?「ぜんぜん弾けなくて大変なのに?」

「弾けてるし、楽しそう、すごく」

「いやいやぜんぜん弾けてないよ」会話を続けながら、こっそり運指の練習をする。「こんなんじゃ朝顔に怒られちゃうよ」この運指パターンを毎日最低五回は繰り返せってベースの上手いお兄さんは言ってたけど、二十回はやってる。

「もうみんなで合わせたりしたの?」

「まだ。朝顔以外みんな初心者だから、まず個人練をがっつりやって、来月からスタジオで合わせるんだって」

「そうなんだ」お父さんがあくびを嚙み殺す。「楽しみだね」

「眠いじゃん」

「眠いよ。もう一時過ぎてるんだから」お父さんが乾いた笑いを漏らす。今度は嚙み殺さずにあくびをしてから、涙まじりの目を向け「瑞葉ももう寝なね」私を包み込むように見つめ「ベース楽しいのはわかるけど、あんま飛ばし過ぎないようにね。高校生活もバンドも、まだ始まったばっかりなんだし」

 16

 教室棟から音楽棟へは徒歩二分くらいだけど、渡り廊下がないから傘を差さないといけなくて、でも「ベースが長すぎて傘をどう差せばいいかわからない」

「もっと上に持てばいいんじゃん? 傘を」朝顔が振り返る。いいなぁ、ギターは短くて。私は濡れる。どうがんばっても。

「吹き込むでしょ、横から」雨が顔に当たって冷たい。「そんな高く持つと」

「あたしボーカルでよかった~。めちゃ身軽!」いいなぁ、ボーカルは、持ちもの特になくて。

「わたしもドラムでよかった」いいなぁ、スティックは、カバンにギリ収まって。

「昼まで晴れてたのにな」朝顔が黒い傘の裏地を見上げる。

「梅雨って毎年こんな雨降ってたっけ~?」葵が雨音をものともしない声量で言う。

「毎年こんな降るから、梅雨とか言われてるのでは」緋由の低い声は、やや聞き取りづらい。

「みんなずるい。ベースだけ長いし重いし不利。なんで今日こんな雨降るの」

 こんな日に、こんな大雨じゃなくても、と拗ねたくなるけど、わくわくが余裕で勝っている。

 さなぎいぬを結成して二か月。

 ついに、初めて、四人で合わせる日が来た。

 昨夜は楽しみで楽しみでほぼ眠れず、珍しく四限の数学で少し寝てしまった。

「あぁー、やっと着いた、しんどかった」

 音楽棟に入ってすぐのところにあるスタジオ ――ってほどじゃないけど、いちおう一通りの機材と防音性能がある、通称バンド部屋 ――を朝顔が予約してくれた。

 葵がもう靴を脱いで廊下に上がり「リーダー、鍵~」楽しみでしょうがないという感じで身体を揺らしている。

「はいはい今出すから待っとけ」朝顔は念入りに傘を振って「ほい、」ポケットから鍵を取り出し「お年玉」葵に手渡す。

「よくわかんないけどありがと~」葵が鍵を開け、

「あーやばいベースケースけっこう濡れてる」四人でバンド部屋に入る。ここに来るのは部活の説明会のとき以来。「やばいなー」ちょっと埃くさいけど、でもそれがバンドって感じで高まる。ベース大丈夫かこれ。

「外はあれかもだけど、」緋由がカバンを床に置き「中身は大丈夫なのでは?」スティックを二本取り出す。

「そうだといいけどなぁ」二か月毎日さわってきたサンダーバードが一回も合わせずに水没したら死ねる。「あ、でもなんか、大丈夫そう」中身は濡れてない。よかった。

「よっしゃー」朝顔がマーシャルのアンプの前で「そいじゃ各自、」ギターケースを肩から下ろし「速やかにセッティング」さっそくチューニングを始めている。

「了解」「は~い」「おっけー」緋由がドラムセットへ、葵がマイクミキサーへ、私がベースアンプへと足を進める。

 雨と埃のにおいの中で、それぞれの機材と格闘する。四弦から順に、チューニングを済ます。シールドの先をチューナーから抜き取り、いよいよ、私のサンダーバードをこのアンプに接続するときが来た。ずっと家のミニアンプで練習してきたから、大きいアンプに繫ぐのは初めてだ。この日をどれほど待ちわびたことか。ほんとはもっと早くみんなで合わせたかったけど、基礎練習みっちりやって、曲もカンペキに覚えてからだから、最短で六月な、と朝顔に言われていた。

 やっと。やっと合わせられる。

 かわいくて、かっこいいにもほどがある、愛しのサンダーバード。独特のフォルムの、木目調のボディが、つやっつやに輝いてる。この子の音色が、でっかいアンプで増幅され、大空へ羽ばたくときが、ついに……! はぁやばい、緊張してきた。どうしよう。繫いだし、そろそろ電源入れるか。よし、「ねぇねぇ誰か~」葵の声。「これのやり方覚えてる人いる~?」見回すと、緋由はタムの高さと角度を首をひねりながら調節しているし、朝顔は足元のエフェクターに覆い被さって自分の世界に没入している。

 立ち上がり、ミキサーのところまで行く。「電源入れて繫ぐとこまではやったんだけど、そっからわかんなくなった!」ほとんど進んでないじゃん。

「待って、説明会のときに一通りメモったやつがあるから、」カバンのたしか内ポケットに、「それ見ればわかる」あれ? あったあった。「えー、まず、マスターフェーダー、一番右の赤いやつ、を、0dBまで上げます」

「0でいいの?」

「0でOK。現状マイナスだから、とりあえず0まで上げる。で、次に、マイクが繫がってるチャンネルのGAINツマミを回しながら、いちばん大きい声出したときにピークランプが一瞬点灯するくらいまで上げます」

「声出すの?」

「うん。出してみて」

「いきます」葵が息を吸い「あーーーーーーーーーーーー」声にする。ちょうどランプが点灯するくらいまで回してから、声を止める。

「良い声してるね」透明で、伸びのある声。

「照れる」一瞬目を伏せてから、すぐに戻し「次は?」

「チャンネルフェーダーを上げ、一旦0dBに合わせます。その後、他の楽器との兼ね合いで、音量を微調整します」

「なるほど」葵が再びマイクに声を吹き込む。「あ、音になった」

「よかった」

 ベースアンプの前まで戻り、深呼吸をする。電源のスイッチを押す。ざらついた低音が、黒い箱の全体から溢れ、からだが痺れる。VOLUMEのツマミをとりあえず5まで上げ、あとは動画のお兄さんが言ってた通り、BASSを3、MIDDLEを7、TREBLEを8に合わせ、抜けの良いサウンドに。立ち上がり、四弦を開放のまま弾いてみる。背後から撃たれたように音が鳴る。すごい、音が、物理的に骨身に響く。気持ちいい。三弦を、二弦を、一弦を鳴らす。気持ちいい……!

「用意できた?」

 朝顔の声で、我に返る。「できた」

「できたよ~」「できてる」

「あたしどこ立って歌えばいい?」

「四人で向かい合うか。せっかくだし」朝顔が少し左にずれ、窓際のドラムセットに座る緋由を十二時とすると、三時の位置に来るようにエフェクターボードを動かす。「あ待った、アタシ、コーラス入るんだった」ミキサーにもう一本マイクを繫ぎ「で、瑞葉がそこ、あ、もうちょい右、そう、その位置」マイクスタンドをセットし「そんで、葵がそこ。そうそう。いい感じ」葵が六時、私が九時の位置に立つよう指示する。

「そういえば緋由ちゃんって、」葵が口をひらき「本物のドラム叩くの初めて?」

「いや、四回目」緋由がスティックを構えた状態で答える。

「あれ?」マイクに向けてしゃべる。「電子ドラムで練習してるって言ってなかったっけ?」

「家ではそうだけど、幼馴染にドラム叩ける人がいて、スタジオで教えてもらった」

「幼馴染」

「そう」緋由が頷く。「幼馴染」

「男の子?」

「……まぁ、一応」歯切れが悪い。

「お!? 彼氏的な!?」葵の声だけが、マイクを通して二つのスピーカーから聴こえてくるのが、ちょっとおもしろい。「友だち以上恋人未満的な!?」部屋の隅から、対角線で葵の声が耳に飛び込んでくる。

「そういうのじゃない」緋由が首を振って否定する。

「あれ? もしかして、」なんか葵のラジオ聴いてるみたいだな。「その男の子がいるから、ドラム選んだ?」

「いや、そういうんじゃ全然ない、」首と、さらにスティックを振って否定する。「そもそもわたしがこのバンド入ろうとしたとき、ドラムしか選択肢なかったし」苦笑し、「まぁ、だから、」改めてスティックを構える。「ちょうどよかったと言えば、ちょうどよかったんだけど。身近にコーチがいて」

 葵と朝顔と私で、顔を見合わせる。

「はい、にやにやしない、始める」ドッ、ドッ、ドッ、ドッと等間隔でペダルを踏み、バスドラを鳴らす。ドッ、ドッ、ド「いいよね?」音を止め「始めちゃって」不安そうに、朝顔を見る。

「OK」カポタストを1フレットに装着しながら、朝顔が答える。緋由、私、葵を順番に見て「たとえ間違えても、絶対に演奏をやめないこと。周りの音をよく聴くこと。楽しむこと」にかっと笑い「以上三点、よろしく」

 緋由の目を見る。葵の目を見る。朝顔の目を見る。緋由の深呼吸の音がして、ドッ、ドッ、ドッ、ドッが聴こえ出す。最初にコピーする曲はチャットモンチーの『シャングリラ』。四分でバスドラを八回刻んでから、ハイハットを表拍でクローズ、裏拍でオープン、二拍目と四拍目の表でスネア。ドンチーパンチチドンチーパンチー、ドンチーパンチチドンチーパンチー、ドンチーパンチチドンチーパンチー、ドンチーパンチチドンチーパン四拍目から私がグリッサンドでぐぅーんと入る、入った、決まった、緋由の刻むリズムに合わせ、練習した通りに、オクターブ奏法でぐりぐり八分音符を鳴らしていく、背後のアンプから私のベースの音圧、手前から緋由の四つ打ち、絡み合って、楽しい、気持ちいい、楽しい、私が入って六小節目で、緋由がスネアとタムをドコドコ鳴らして、ここだけ変拍子の五拍目で、私の三弦の6フレットと緋由のスネアとバスドラの四分音符が重なる、楽しい、すぐあとに朝顔が、ジャージャジャージャジャンて綺麗にコードを鳴らして、私と並走する、私のルート音に乗っかる、重なる、揺れ動く私のオクターブを、ぴょんぴょんと乗りこなして、朝顔が進んでいく、楽しい、また変拍子の五拍目で、今度は三人、朝顔緋由私が四分音符をせーので重ねる、気持ちいい、楽しい……


『シャングリラ』演奏シーンはまだまだこれから! つづきは本編でお楽しみください。