第131回文學界新人賞は、応募総数2725篇の中から5篇を最終候補とし、3月3日に青山七恵氏、阿部和重氏、金原ひとみ氏、町屋良平氏、村田沙耶香氏の5選考委員による選考が行われ、村司侑さんの「ソリティアおじさんがいた頃」が受賞作に、沓乃ようさんの「ドロップ」が佳作に決定しました。今回は、受賞作「ソリティアおじさんがいた頃」の冒頭を公開いたします。

◆プロフィール

村司侑(むらし・ゆう)
1979年生まれ。九州大学文学部卒業。京都府在住。


 ソリティアおじさんがいた頃のことを久しぶりに思い出した。今朝になって、みんな急に彼のことを話しはじめたのだ。はじめのうちは、退職しはってから今朝までだれも一言もなかったのに、と、ちょっとふしぎに思っていた。定年にならはったんは、えーと、おととしか。そっか、もうそんなんなるか、なつかしい、としか思っていなかった。

 朝、社員通用門の白味噌色の鉄扉を、かすれた三山味噌株式会社の文字をさけて、黒いニットの手袋でよいしょと押した。はあー。白いため息が長々と出て、淡く膨らんで、すぐ消えた。扉がちょっと重いのもあるけど、心持ちがなんとなしに白っぽくもやつく感じだった。思えば、ここのところいつもそうか。同居人の野郎のことを考えながら出勤して、朝から変に疲れるのが最近の定番だ。ほんま腹立つ。いつからこんななったんやろ、と、きのうも、おとといも、その前も思ったのだった。たぶん、あしたも来週も思うんだろう。今朝も思った。あかん、切り替えよう、と今朝もそう思った。マフラーに口まで埋めながら、まだ暗い倉庫の荷受け場の脇を通りかかった。

 そこで聞いたのが始まりだった。あたりに沈殿する酵母のにおいのなかで、男のひとの声が、低くくぐもって少し響いた。諏訪さんと井田さんだろう。姿は見えなかった。わざわざ探したりしないけど、この時間に原料倉庫にいるのはあのふたりだ。声は、黒野田さん、と聞こえた。ほかにも密やかにしゃべっていたけど、言葉としては聞こえなかった。でも特に気にしなかった。なつかしい名前が聞こえたからといって、前後が聞こえなかったからといって、わざわざ足を止めることはしなかった。なんの話やろ、とも思わなかった。ふたりは仕事に必要なこと以外はいつも野球の話ばかりしているから、あまり話しかけたくない。もし彼氏がそんなんやったら嫌やな、と思う。スポーツ全般興味ないし。興味あるなしというか、自分の趣味ばっか話されたら、かなんわ。その点、海史はまだましかな。趣味いうたら将棋ばっかりやけど、その話はあんましいひん。だいぶまし。まあ、そもそも諏訪さんと井田さんはだいぶ年上やし、お互いありえへん想定で、失礼は失礼やけど。それに、たぶん、彼女ができはったら野球以外の話もしはるやろ、知らんけど。などなど考えながら素通りした。

 荷受け場のどんつきの白い防火扉を引いて、狭いわりに蛍光灯の光が強い階段に入りしな、黒野田さんだれやっけ、と一瞬思った。すぐに思い出した。ソリティアおじさん。なついわ。ひとり言を人知れず階段に落とした。傾斜が急で二階に上がるともう息が切れかけていた。というか切れていた。ちょうど三階から降りてきたスリムな黒のパンツスーツで髪の長い、直営店店長兼品質管理課長の菅野さんが、低い声で何かつぶやいていた。菅野課長はええとこのお嬢さんがそのまま歳を重ねたみたいな感じのひとで、肩書が長い。肩書からすると直属の上司ということになるけど、直営店のほうはほとんど丸投げされているのに近い。それでもいつもいそがしいひとで、原料やら資材やら、ついでに備品やらの管理と手配を一手に引き受けて、たしかに普通だったらそれだけでパンクしそう。という、年中解けないパズルに悩まされている菅野課長が、黒野田さんがなあ、とつぶやいた。またソリティアおじさん? と思ったけど、菅野課長はいつもの早足なので、挨拶だけでも急いで言った。息が切れて声が変になった。事務所のグレーの扉に手をかけていた菅野課長は、ちょっとびっくりしたような、でもすぐに優しい顔になって挨拶を返してくれた。少し安心した。

 三度目に耳にしたのは、さらに階段を上って更衣室のある三階を目指す途中の踊り場だった。逆光の踊り場で、第一営業部長の平見さんが驚いたような悲鳴のような声を押しつぶして、黒野田さんの名前を呼んだ。びっくりした。踊り場には社長もいた。もうひとつ驚いた。偉い人は苦手だ。ふたりとも体格がよくて、通り抜けられそうにない。平見部長は実は社長と大学時代の柔道部の先輩後輩の間柄だ、と飲み会のたびにカミングアウトしていた。たしか社長が先輩、部長が後輩のはず。最近は飲み会自体ないから助かる。ソリティアおじさん、どうかしたん、と思う。そういえば黒野田さんも同じ大学と聞いたような聞かないような、うっすら記憶が、あるような、ないような。別のむかしの社員さんかもしれない。そのあたりで抑えきれずに、なんかあったんやろか、と思った。胸がざわざわした。とりあえず、へたった声でしないわけにいかない挨拶をした。ふたりとも太い声で、さん付けの挨拶を返してくれる。ふたり同時に手すりの側の腕を上げて、ごつい手をふくよかなあごや口元に当てた。それで通り抜ける隙間を作ってくれたつもりだろうか。セクハラとか嫌やで、と思った。ダッフルコートで手すりを拭きながら通り抜けた。あとでコートを見るのが怖い。手すり、天満宮の牛さんよりぴかぴかになるわ。

 四度目は更衣室だった。チェックの事務服の結子さんがいて、安心した。ボブでくりくりパーマの結子さんはトイプーっぽい。海史が転職したあとは、ゆーこんさんこと結子さんが一番歳が近い先輩だ。背も顔もちっこいけど、中途で入社してすぐの頃いろいろ仕事を教えてくれた師匠でもある。頼れると思うし、頼りにしている。更衣室の内側からドアを閉めた。ラッチのかかる音がくっきり響いた。ゆーこんさんはロッカーの戸をそっと閉めながら振り返った。

 おはようございます、と、なるべくいつもどおりに挨拶をする。

「おはよう瑠奈ちゃん、聞いた? 黒野田さんのこと」

 また、と思う。いえ、と答える。わー、と思う。いや、やっぱり何かあってん。そろりと息を吸って、恐る恐るつけ足す。何も、聞いてませんけど。

「うん、わたしもさっき聞いてんけどな、亡くならはってん、黒野田さん」いま閉めたロッカーをもう一度開ける。

 いちおう驚いて、えー、ほんまですか、と返す。吐く息が止まらない。けど、なんかもう知っていた気がして、逆に安心する。

「それがな」何を取り出すでもなくまたロッカーを閉める。「火事やってんて」

 ええー、それは、とだけ口走って、言葉に詰まる。それは話が違う。

「特に病気もなく元気にしてはってんけど、って。なあ、怖いなあ、火事は。じゃ、先、行くしな」

 声がうまく出ない。ただ、うなずく。うなずいたままドアの閉まる音を聞く。息を吸って、止めて、考える。火事で亡くなる人生って、どんなやろ。頭がぐるぐるする。これがもし病気だったら、心の準備ができるだろうか。自分だったら、できることなら準備しておきたい。少なくとも周りは助かる、はず。祖父のときは事前に準備ができて助かったし、父も、義理の娘である母も、その点はおなじだっただろう、たぶん。あれは、えっと、六年前か。本人はどうだっただろう。わからない。いま、ぱっと思い出せることが何もなくて、頭も回らないけど、たぶんそれはそれでつらいこともあるだろう。それでも火事と聞いたばかりだから、病気か事故かというと、どうしても事故のほうがきつく思える。そのうえ、火事。事故のなかでも、あっ、ってなってすぐ死ぬのではなくて、火に囲まれて、包まれて、だんだん。熱いし、やけどして、一酸化炭素? どうなるんだろう。怖すぎる。正直、想像もつかない。ただつらい。ソリティアおじさんなんて心のなかで呼んでちょっと小ばかにしてしまっていたけど、すごく反省している。知っているひとが亡くなるのは本当につらい。黒い髪ゴムで首の後ろに短い尻尾をひとつ作る。細く垂れた横髪を指でよりよりする。淡い花がらの手ぬぐいを頭に巻いて、息をつく。紺色のエプロンの紐を背中で結びながら階段を降りる。慎重にドアを開け、事務所に入る。

 むかし、良かった時代には社員も多かったのだと、たまに聞かされる。黒野田さんはソリティアおじさんになる前、有能おじさんか有望おにいさんで、そのまわりに社員も多くて、事務所のスペースも机もたっぷり必要だった時代があった、らしい。それで、いまはいくつかの共用デスクとむだに広くて暖房の効きにくい事務所が残っている。きょうはその広い事務所のところどころに、二、三人ずつ固まって、みんな丸い背中の向こうで何やら話し込んでいるから、余計に閑散として見える。ああ、と思う。倒産とか廃業とかの日の朝はこんな感じなんやろうな。知らんけど。

 この事務所が狭く感じられるほど活気があった頃、ソリティアおじさんになる前の黒野田さんは、どんな仕事ぶりだったのか。仕事中にソリティアなんかするはずはなかっただろう。だれの目にも、自分自身でも、あんなふうになるはずがなかった。パソコンはあったのかな。みんな黒野田さんがソリティアおじさん化する前もよく知っているはずで、そう思うと、隙間風みたいな疎外感がして、少し寒気がする。くしゃみをがまんする。

 音を立てないように出入り口のすぐそばの自席に座る。電話もパソコンもないデスクだ。下のお店には電話と電卓があるし、始業後は休憩以外ずっとお店なので、事務所のデスクに何がなくて不便ということはない。ただ、居場所という感じもしない。余っているから割り当てられただけの、借り物という感じ。まあ別にどうでもいい感想だけど。それで、まあ普段だったら座ってぼーっとしたり、ゆーこんさんかだれかとしゃべったりしているうちに始業になるけど、きょうはこの五分間がやけに長い。といってどこかの話に加わるのも気が引ける。途切れ途切れ聞こえる会話は、みんなソリティアおじさん化する前の黒野田さんが主人公だ。ソリティアおじさんになった最後の五年くらいは、当時みんなため息をついたり、顔をしかめたり、「また」「なあ」なんて目配せしあったりしていたのに、きょうの会話はそのずっと前から直結して、ソリティアおじさん時代はなかったことになっているみたいだ。そうやってその期間を削除してしまうと、中途入社から一年に満たないくらいしか残らないのが寂しい。いや、こっちの年表まで一緒に削る必要はないし、なんなら聞き役だけしていればいいというのはわかるけど、とにかく、黒野田さんのことをだれかと話す資格がない気がする。

 ちょっと考えて、軽い引き出しを開ける。案外大きな音がしてびっくりする。大丈夫。きょうは英会話本ではなく、さらの領収証をデスクに出す。こっそり歩いて文具コーナーから社名スタンプとスタンプ台を持ってくる。席に戻って、領収証にスタンプをついていく。こうしておくと、あとで少しだけ楽できる。ゆっくり丁寧に押していく。

 いつの間にか諏訪さんと井田さんも上がってきていて、文具コーナーの前に並んで立っている。でこぼこコンビで、ふたりとも工場では衛生白衣だけど、そこ以外では白のワイシャツに黒のスラックスで、ちょっとぶかっとして、歳がいった中学生みたい。叱られているみたいに、珍しく押し黙って立っている。沈痛な表情が逆に漫才のはじまりっぽい。ソリティアおじさんとの絡みは見たことがないけど、当然、いろんな積もる話があるんだろう。少し羨ましい。

 定時には全員揃う。館内放送でむかしの歌謡曲をオルゴールにしたような曲が響く。それが始業のチャイムの代わりで、社長の趣味らしい。普段だったら持ち回りのようにだれかが小声で、みんなおるっちゅうねん、と毒づくところだけど、きょうはだれも何も言わない。すでに黙祷のようだ。

 赤味噌色のベストというかチョッキの平見部長にうながされて、朝礼当番の諏訪さんがぎくしゃくした足取りで前に出る。何もかも細長いひとだ。ちらっと横のほうを見ると、丸っこい井田さんは近くの床を見つめている。諏訪さんによると本日は木曜日で、休暇、病欠はないそうだ。よかった、と、珍しく何かしらの感想が湧く。あとから知らされるひとがいなくて、よかった。それで日常五心の唱和に乗り遅れそうになる。別にそんな大きな声は出さないけど、経験上、いちおう発声しておいたほうが調子がいい。

 最後の、ありがとうという感謝の心、のすぐあとに続けて、「ええ」と社長が声を張りあげる。うっかり音量が大きくなりすぎたらしい。咳払いをして、渋い声で続ける。

「本日は、みなさんに、大変、大変残念なお知らせがあります。当社の元社員で、現役の頃には大変な貢献をしてくださいました黒野田さん、黒野田郁夫さんが、一昨日夜、突然の火災で、他界されました」少し訛って、くろんださん、と聞こえる。その響きもなつかしい。「ついこの前まで一緒に仕事をしていたのに、あまりに突然で、あまりに早く、残念でなりません。ご連絡をいただきましたご遺族の方からおうかがいしたところでは、火元は、着衣着火といわれる、ええ、ガスコンロの火など、といいますか、消防の検証の結果、今回の場合はまさにガスコンロだったそうですが、その火がお召し物に引火して、あっという間に燃え広がるという現象だそうで、ええ、みなさんにおかれましても、ご家庭等で、今後十分に注意していただきたいと思います。先ほどちょっとAIに質問してみましたところ、日本で年間百名ほどの方がこの被害に遭われているそうで、ご家族の方にも、しっかり注意していただいてほしいと」

 話が迷子になりかけている。数人がささやき声で「うん」とか「なあ」とか言い交わす。低いざわめきに、はなをすすって嗚咽する声がひっそり混じる。ゆーこんさん。それを残して、みな静まる。

「ええと、それで、お通夜が」ごつい社長は、おつうや、と発音する。おつや、おつうや。まあ、ええけど。「お通夜が、今晩行われるそうです。ご葬儀は明日ですが、そちらはなるべくお身内でというご遺族のご意向もありますから、少しご無理を申しあげて、社を代表してわたし三山と平見部長の二名のみ参列させていただきます。お通夜も、みなさんお気持ちはそれぞれおありでしょうが、大勢で押しかけてご迷惑になってもいけませんので、それでも、ぜひともという方だけ、わたしか平見部長にお声がけいただければ、斎場の名前と住所をお伝えします。以上です」

 平見部長にうながされて、諏訪さんが朝礼の終わりを告げる。すぐに首を伸ばして右奥の事務島を見る。菅野課長が正面から結子さんの両肩に手を置く。何か声をかける。しっかりしなあかんで、だけ聞こえる。ほかは聞こえない。

 背後の扉からひとりでするりと事務所を出て、階段を降りる。高校時代のことを少し思い出す。お父さんを亡くした友達がいて、忌引きのあと学校で休憩時間のたびに泣いていた。そんなことがあったから、だれも亡くなってほしくなかった。

 坪庭のように狭い中庭に出る。晴れているけど、かえって空気が冷たい。地面も冷たい。冷蔵庫か。ニットのカーディガンにエプロンでは、ちょっと涼しい。きょうの予報を思い出す。気温はあまり上がらないとあった。ていうか朝一より寒ない? 白い不織布のマスクをつけて鼻と口を覆い、さむ、さむ、さむ、と小走りで、直営店の裏の勝手口へ急ぐ。煤黒い戸板に緑の塗料のはげた金具がついていて、そこに南京錠がかかっている。ピッキングどころかドライバー一本で外せそうで、だいぶ心もとない。まあ勝手口自体が会社の塀に囲われた敷地のまん中だし、泥棒さんに入られたことはないけど。速い風が吹いて背中が勝手に震える。足踏みしながら震える手をエプロンのポケットにつっこんで、鍵、鍵、鍵を出す。焦りながら氷みたいな南京錠を外し、引き戸を開く。

 お店の中もやっぱり寒い。外と変わらんやんけ。むしろ外より寒いし。暗いせいで余計にそう感じるのか。夜の冷気がシャーベットになって残っているようだ。町家風、というか、会社のとなりの古い町家造りの本物を先代の社長の時代に買い取ったそうで、それで店舗の部分を広く取るために柱だけ残してずぼっと広い空間にしてしまったから、なおのこと寒い。勝手から入ってすぐの照明のスイッチではなく、その横の操作パネルに手を伸ばす。頭上のエアコンに小さな緑のランプが光る。うんともすんともいわない。エプロンの中に両手を隠して、その場で小刻みに跳ねる。足踏みをする。マスクの中でくしゃみする。くそう。やがてエアコンがワープしそうな大仰な音を立てて、ようやく暖かい空気を吹き出してくれる。もう少し温度が上がるまで何もできない。

 足踏みしながら、なんやろ、と思う。ちょっと疲れてきたので足を止める。なんなんやろ。服に火が着いて火事になって、って、そんなことある? それがあったて話で、もちろんかわいそうやし、つらいし、頭ではわかるけど、ひとりになってみると、もうひとつ現実感がない。というか、そもそも亡くならはるのに、かわいそうな方法とか、かわいそくない方法とか、あんねやろか。事故と病気で心構えとか準備とか違っても、けっきょくあんま変わらんというか、それ以外の要素があるというか、そのひと次第というか、うーん、わからん。病気と事故でもようわからんのに、なあ。ただの火事と、着衣着火やっけ? の違いって、けっきょく、周りがどんだけショックを受けたかの違いでしかないような、いやー、想像力が死んでるだけかもわからん。わからへん。わかりません。ひょっとすると、みんなのリアクションで逆に冷めただけかも。実際、つきあいも短いし。そやね。考えてもしゃあない。お店のあいだは切り替えていこ。

 いくらかエアコンが効いて温まってきた。開店準備、はよせな。両頬を自分で叩いて、よし、と気合いを入れる。壁のスイッチに手を伸ばして明かりをつける。天井の蛍光灯がしぱしぱまたたきながら白く灯る。おはよう、ガラスのショーケース。おはよう、昔からあるレジ。POSシステムにしてほしい。おはよう、古い味噌樽を二つ並べた陳列棚と、商品の山を覆う白い布。おはよう、去年の秋に書いたささやかなPOP。ほうきとちりとりを左右の手に持って売り場を抜ける。おはよう、ここが職場。外の光はなく、真夜中みたいに蛍光灯だけがあたりを照らす。表の戸の手前でほうきとちりとりを足元に置いて、シャッターの内側の鍵を開ける。片膝をついて、下から、おらー、とシャッターを開ける。ばりばり割れそうな音がして、表の通りの光と冷えた空気がすばやく流れてくる。

 外は明るい。ほうきを拾って表に出る。外から戸を閉め、その辺を軽く掃く。ごみは全然落ちていない。ちりとりを持ってきて、ちょっと集まった砂埃を掃き入れる。掃除を終える前に、もう一度確認。ごみ、なし。通りにはだれも出歩いていない。向かいの眼鏡屋さんはまだ開いていない。大ベテランのご夫婦がやっていて、地図アプリのレビューの平均点がめちゃめちゃ高い。その二軒となりの洋食屋さんも好評だ。土日はちょっと行列ができるらしい。扉が開け放ってある。あっちも掃除かな。

 さて、とお店に戻って白い覆いを外す。おはよう、パック入りの味噌。布を小脇に狭いバックヤードに引き返して、ごみ箱にちりとりのちりを捨てていると、急に勝手口が開く。びっくりして息が止まる。油断していた。

「ちょっとええか、古井瀬」と、珍しく小さな平見部長の声。重低音はいつもどおりだけど。儀式めいた折り目正しさで勝手の戸を閉め、またこちらへ向き直る。体格がいいから、お店が狭く感じる。少し身をかがめて、密談のように薄くささやく。

「きょうの、黒野田さんのお通夜な、自分、行くか?」

 え、いえ、わたしは、大勢押しかけるなって言ったはったんで、遠慮しよかと。

「そか。ええよ」

 用はそれだけかと思ったが、すぐには出ていかない。なんやろ、と思う。

「川上くんは、どうやろか」

 海史? と思いながら答えを探す。え、いや、どうでしょ?

「すまんけどな、スマホ使ってええさかい、ちょっと訊いてくれへんか。言うたら、あいつ、最後の愛弟子やさかいな、黒野田さんの。ああ、お通夜は七時からや。斎場は」と、名称を教えてくれる。息継ぎをして、急にかすれていく声で「あいつ顔出したら、喜ばはるやろ、黒野田さんも」とつけ足す。


(続きは、「文學界」2026年5月号でお楽しみください)