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【第130回文學界新人賞受賞作】さそり座の火星

出典 : #文學界

文學界 2025年5月号

文學界編集部

文學界 2025年5月号

文學界編集部

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第130回文學界新人賞は、応募総数2404篇の中から5篇を最終候補とし、3月10日に青山七恵、阿部和重、金原ひとみ、中村文則、村田沙耶香の5選考委員による選考が行われ、浅田優真さんの「親切な殺人」、しじまむらさきさんの「さそり座の火星」が受賞作に決定しました。今回は、受賞作「さそり座の火星」の冒頭を公開いたします。

◆プロフィール

しじまむらさき
1989年生まれ。神奈川県出身、東京都在住。派遣社員。


 空高く放り投げた鞄が、桜並木の下にふわりと浮いて、緑のフェンスをかるがる越した。細い合皮のブレスレットを重ね付けした武骨な手で、やおらフェンスを掴んで二歩三歩、腰穿きの短足ながら軽快に登り、ゆうゆうと乗り越えて内側へ行ってしまう。そんな幻影を左手に見ながら、誰もいない朝の通学路を歩きつつ、マコトは口元に笑いをふくめた。歩道と校庭を分けるこのフェンスを無視できるのなら、あと二分はかかる校門までの道のりを省略して校舎へ直行できるのだ。高校生だった当時も毎朝それを思いながら、しかし決して革靴で砂を踏むことなく、順路通りに四角く歩いて校門をくぐり、下駄箱まで続くアスファルト舗装の道を歩いていた。そうしてときどき、これをよじ登ってかるがる越えてしまう人を仰ぎ見ては、身体の芯をゆらしていたのである。マコトは今日パンツスーツに外套をまとった身なりで歩きながら、当時感じたゆらぎの根源になにがあったのか考えた。吹奏楽部の規範意識の高さから見下ろす蔑視、あるいは不安だったかも知れない。連帯責任という言葉に縛られない人へ向ける羨望だったかもわからない。プリーツスカートの着用を義務付けられていない人に対する嫉妬だっただろうかと考えれば、育ちあがったはずの今日の心にもなにかひやりと一筋走った。

 マコトには意外なことだったが、学校の開く時間は遅くなっているらしい。校舎や校庭やスマートフォンを眺め、閉ざされている校門へ目を落とし、錆び具合や南京錠をしげしげと見ること三十分ほどか、轟くような声がマコトの背に「お早いですねえ!」と浴びせかけた。跳び上がるほどおどろいて振り向いたマコトの目に映ったのは、相も変わらぬ巨躯ながら記憶よりずいぶんと髪やひげの白くなった理科教師シムラー、ジャージではないスーツすがただ。先述のごとき横着者を見つけ次第、声を荒らげてその苗字を連呼し、とっ捕まえるまでいつまでも追い続ける生活指導部長といえばこの人だった。

 いくら正当な理由あっての来校とはいえ、早朝に校門の錠前を覗き込んでいたら、不法侵入目的の変質者かと警戒されても仕方あるまい。シムラーその人への畏怖と冤罪の恐怖、二種類の怯えに迫られつつ、マコトはただちに身分を明かそうとした。しかしその必要は全然なかった。

「あ、ちげーじゃん! 親御さんかと思ったわ、スーツだから! おまえアレだ、吹部で! 二組の! な!」

 と顔いっぱいに笑うシムラー、流石は素行の悪い者の名を瞬時に叫ぶだけのことはあって、すさまじい認識能力、及び記憶力だ。それにしても数年前の地味な一生徒のことまで憶えているとは偉大なものだと、肩をバシバシ叩かれながらマコトは心底おどろいてしまった。

「おまえ変わんねーなー、その男みたいにアタマみじけーの、」

 指をさして言いかけるうちにも目をまるくして口を結んだシムラーの、あまりに率直な怯えと後悔を見て取って、マコトとしてはむしろじぶんの反応に不備があったのではないかと心配した。そうしてギョッと顔を突き合わせたふたりだったが、シムラーがわたわたと鍵束へ目を落とし、すぐマコトに背を向けたため、にらめっこがそれ以上続くことはなかった。

「とにかく元気そうでよかった。顔が全然変わんねーわ」

 彼は無防備な様子で錠を外しはじめた。

「みんな顔変わるもんです?」

 マコトは訊き返しつつ、ツーブロックの前髪をつまんだ。高校生のころはくせっ毛のショートヘアを起き抜けのまま梳かしもせず、日焼け止めすら塗らない素顔を学校でも思うさま洗ってゴシゴシ拭いていたものだった。顔の造形は変わっていなくとも、ヘアアイロンで整髪し、オールインワンクリームを塗っておしろいをはたき、眉毛を描き足した現状は、見違えるほど爽やかになっている。

「変わるよ! 変わんないやつもいるけどなー!」シムラーはマコトに背を向けたまま大声で答え、「で、どうしたよこんな早くに?」

「あ、今度から実習助手で、」

「いやそうだけど、」

「今日は吹部の演奏見に来たんすけど、せっかくだから早めに来て校舎グルッと」

「あーなるほどね! なるほどなるほど! 見てもなんもないぞ! なーんも変わってないし、ふるくなっただけ!」

 シムラーは「フンッ」と気合を入れて校門を押し開き、

「さあ、おかえり」

 と、マコトをなかに入れた。

 三月はじめの土曜早朝、時が停まったかのような学校だ。足の裏の感覚が消えていくような底冷えを感じるが、陽のあたたかさには春のけはいもまじっている。無人の校舎をひとり歩いていればマコトは、なにか異世界へ迷い込んでしまったかのような不安に襲われた。ここにあふれる高校生たちの声や足音を想像するほど、その喧騒があってこそ完成する学校の今の静寂が虚構のように感じられ、どことなく自らの実存さえ疑わしくなってくるのだ。じぶんに彼らが見えず、彼らにじぶんが見えないだけなのではないかという気分になる。個人の持ちもの、机の間隔、掲示物などから、教室ごとの特色がありありとわかるのに無人であることがまた、夢路を行くかのように心細い。このまま人っ子ひとり見つけられず、あるいは見つけてもらえずに、孤独な彷徨を続けるような感じがする。

 廊下からちょっと身を乗り出して、最後に使った教室のにおいを嗅ぎ、じぶんの居た席を眺めて、マコトは踵を返した。他のどの教室に寄ることもなく四階へ上がり、屋上へ続く階段の前に立つ。これを上り切れば折り返しにもう十三段続き、四階建ての校舎においては最上階ともいえようか、屋上へ出る鉄扉しかない踊り場が存在する。

 黄昏時にはぼんやりと赤く染まるここが告白の名所であることを、マコトは在学当時聞いたけれど、今考えても眉唾物だ。すくなくともマコトの代、ここには一日通してちょっと悪い男子が居た。決まって三年生の特定の人物で、当代の卒業式の日にはもう次代が営巣しているような具合だった。そのような人がしばしば女子を膝に乗せてよからぬことをしている場所だと知っていてなお、ここを告白の舞台に選ぶまぬけもそうおるまい。

 同時期マコトが聴いたところによると、吹奏楽部第四十二代部長カスガもちょうどそういう男子だった。美男というわけではないものの整髪に余念がなく、長身で、首や耳や腕になんだかジャラジャラつけており、女子に人気だったとの話。彼が率いていた当時、吹奏楽部は全日本吹奏楽コンクールの本選に二度目の出場を果たしたばかりで、部員数も七十を超えており、全盛期であった。その勢力はといえば、パート練習の場所が足りないというカスガの訴えがすんなり通され、吹奏楽部だけに屋上の使用が許可されたほどだったという。そうしてカスガはまんまと屋上の鍵を複製し、その場を恋の用事に使っていた。そればかりでなく卒業時、鍵を後釜の新部長に託してしまうほどのやりたい放題だったそうだ。秘密の合鍵はその後連綿と受け継がれたが、吹奏楽部は弱体化の一途を辿り、マコトが入部した頃には部員数も三十を割っていた。創設より六十年は経つであろう今日となっても、四十二代が成し遂げた全日本吹奏楽コンクール銀賞という実績ひとつしか掲げるもののない弱小だ。それでマコトもいまだに、カスガが何代目部長であったのかだけは正確に憶えている。

 吹奏楽部の部長にはしばしば見られるフルートのパートリーダーでありながら、副部長ですらなかったマコトがなぜ、カスガの鍵のことを知っているかといえば、一年生だった当時、三年生の部長より貰い受けたからだ。彼女がなぜ次代部長へ鍵を引き継がなかったのか、マコトはそれだけははっきり解る。高校生よかくあるべしと設計された清さと正しさを背骨にしているような次代部長に屋上の鍵など見せれば、大ショックを受けてただちに先生に報告するにちがいなく、とても託せなかったのだ。しかし先輩が鍵を処分することなく、別に親しかったわけでもない一年生のじぶんに譲った理由はなんだったのだろうか、マコトはいまだに訝しんでいる。受け継がれてきたものを、じぶんの代で止めてしまうわけにはいかないと思ったのだろうか。一年生でいちばん展望のあるフルート奏者に握らせれば、おそらくこれが一年後の部長となるだろうから、一代抜かしとはいえ継承の義務は果たせるはずと見込んだのかも知れない。マコトとしては、このもっともらしい案を真実にしておきたい反面、より有力な説を思いついてしまっている。それは常のごとく、公然と口にできないような後ろ暗いなにかを、どうしてか共有させられてしまうじぶんのつけこまれやすさが呼び寄せたものだったのではないか。

 ともあれマコトはそうして鍵を落手してから卒業するまで、屋上へ行く妄想上のじぶんにたくさんの夢を託して過ごした。むかし一段たりとも登れなかったこの階段を、今めでたく踏みつけて、しかし腹の内側からへそを引っ張られるかのような心地である。この場所に染みついたままのじぶんの想念が「行くな」と必死にすがりついてくるかのようだ。マコトは筋肉で押すようにさくさくと上り切りすぐ振り向いた。おばけがいないことを確かめるような振り向き方だった。階段の下からうらやましそうに見上げてくるじぶんに、なにか言ってやりたい気がした。

 誰にも託せず、捨てることもできないまま、とうとう今日まで持ち続けてしまった秘密の合鍵で、マコトは重い鉄扉を開錠した。

 屋上はマコトが思っていたような打ちっぱなしのコンクリートではなく一面みどりだった。みどり色の塗装だ。といってもところどころ剥げ、ひび割れており、黒い雨だれの跡を残す室外機やタンクがある他なにもない。マコトはぽかんと立ち尽くした。感慨もなにもないけれど、最初で最後なのですぐには戻らず、空の様子や床の剥げ具合をいっしょうけんめいに見た。そのうち“早起きしたけど無駄足だった”という気持ちが芽生えたもので、それが育たないうちに現実へ続く扉へ向かった。「これで気ぃ済んだね。すんだすんだ、気は済んだ」歌いながら鉄扉を押し開け、その間に顔を強張らせる。真ん前に人が坐っていたのだ。あぐらをかいてスマートフォンを眺めていたその人が、突如強烈な陽光に打たれ、おどろいて顔を上げかけるのを、マコトは見た。同時、力任せに引かれて戻る鉄扉の落とした直線的な黒が、その人にかかる一切の光をのみ込んでいった。その闇が顔に迫る直前、朝の白い光のなかで、ふたりは目を合わせた。

 そうして鉄扉が閉ざされた。

 取っ手に全体重をかけたまま、マコトはくちびるに力を入れた。今の今「やばい」これしか頭にない。せっかく得た職をこんなことでふいにしてしまったらどうしよう、どうやってこの場を切り抜けよう、マコトは考えようにも頭を真っ白にしたまま停止した。あまつさえ、あぐらをかいていた件の人物。ただ一瞬とはいえ確かに見えた、肩ほどまであるくせの強い髪、がっしりした肩、膝上丈のプリーツスカート、そこから伸びる毛だらけの太い脚――マコトからすればそれは“卒業式の余興に女装ネタを用意しているカスガ系男子”に他ならない。

 ただの男子ではない“カスガ系男子”なればこそ、今にも力任せに鉄扉を開き、録画状態のスマートフォンを突き出すにちがいないと、マコトはもう決めてかかってドアノブを握りしめた。背後から声が聴こえる。子供みたいな高く幼い声色で、言うことといったら「……来ないっぽいね。うわマジ相手ひとりでまだよかったよー、もし二人組だったらやばかったじゃん、ぜったいニヤニヤ笑いながらこっち来たよ、うちらに触ってきたかも知んないし、」とこんな調子だ。薬指から親指、指の付け根、てのひら全体という順番で肩の後ろに触れてきて、最後に思いもよらないような圧力で押してくる少女の手を、おそろしいほど実存的に感じながら、マコトは微動だにせず扉を見つめた。やがてドアノブから手を離し、虫でも追うように肩や背を払ったけれど、のしかかった重みはそこに張り付いたままだった。こんな年齢になってもまだ出るのかと、先に襲来したまぼろしのことを考えれば、じぶんの不運よりも今もうじぶんの幼稚さにため息が出た。それというのは中学生のときの“親友”である。進学の機を利用して突き放し、やっと解放されたと思ったのも束の間、右のごときまぼろしにまとわりつかれるようになったのだ。フルートに夢中になったころには見なくなったので、今の今まで忘れていたが、そういえばこんなのを引きずって、マコトは高校一年生の春を過ごしていた。

 たっぷり五分以上待って、マコトは今一度鉄扉を開けた。“カスガ系男子”はもうそこに居なかった。

 

 実習助手というのはマコトが思っていた以上に過酷な仕事だった。早朝よりたのまれ仕事に奔走し、実習授業に馳せ参じ、生徒の昼休憩には図書室へ行って司書を手伝い、放課後は水曜を除いて毎日二時間の部活動、会議などに出つつやりきれなかった業務をこなして、校門を出るのは早くとも二十時過ぎという日々だ。そうして土曜日は九時から十三時まで部活動なので、週休は一日ということになる。これで月収が二十万円ちょっとと思えば、マコトは帰路に時間外手数料を払って生活費を引き出しながら、ため息といっしょに魂まで抜けていきそうな心地になった。

 卒業生が抜け、新入部員獲得合戦も落ち着いた今、吹奏楽部は部員二十五名に落ち着いている。腕前は決して悪くはなく、卒業式における入退場時のマーチや校歌の演奏を聴いたマコトが“これはひょっとするかも? 県大会くらいならいけるんじゃないか?”と思ったほどだ。リズム隊に巧い子供が三人もあり、これらが息ぴったりに全体を引っ張るため、とりあえず演奏が破綻することはないのである。とはいえ主旋律が弱いため、全体としては“会話中、耳に入っては来るものの聴き取れはしないBGM”という具合で、心に引っかかる瞬間がない。音程や表現以前の問題で、とにもかくにも音がちいさいのだ。伸びて来ない。フルートなど存在しないといっても過言ではなく、なんなら吹いている本人たちにも全く聴こえていないのではないか。そこでマコトとしても指導するべく色々と策を練ったのだが、「楽器を触らせないような練習内容にすると辞められちゃうし、保護者から苦情も来ちゃうから」と弱気な顧問にすべてを却下され、次の瞬間には工夫することをやめた。以後はもう教え子たちが勝ち進むとは思っていない、それを望んですらいない、とにかく八月初旬の地区大会さえ過ぎれば楽になると、その日を待つような心持ちで、週休一日の労働に耐えるばかりだ。“全教員に共有される小間使い”も同然の有様で、増えるばかりの業務と残業時間を無感動に眺めながら、丁寧語すら使わず指図してくる教員に「はい」と応え、心を殺すようにして働いた。気づけば進路情報などなにも知らないというのに、水曜日十五時半から十七時半まで進路指導室に詰めていなくばならなくなっていた。

 ここは商業高校、進学する人は三割くらい――とマコトは思っていたのだが、今日では就職する人の割合がその程度だった。そしてふしぎなことに、進学する人は六割くらいとなっている。あとの一割はどこへいってしまったのだろう、大きな病気とか少年院とかそんな感じか、とマコトは思ったものの、二百人超の一割だから二十人くらいは“その他”だ。“本校の進路状況”とか“卒業生の進路状況”とかと題された、書式もばらばらな資料を色々読むうちに、より詳しい内訳を記載したものを見つけたけれど、件の一割のうち半分が“進学準備・就職準備”の人々であると知れただけで、あとのおよそ十人くらいは“その他”のままだった。それも例年、男性より女性の方がよほど多く、ゼロ対十五人という年すら見て取れる。これだけの情報で「こんだけの人数、全員が全員妊娠ってこたないよね。家事手伝いってやつかなあ。とにかく少年院ってことはなさそう」というのも極めて差別的な発想だが、マコトにとっては背後の“親友”の口から飛び出してくる、聞くに堪えない誹謗中傷だ。

 五月も中旬の中間テスト直前になれば、部活動停止となることもあり、毎日進路指導室へ出向かねばならなくなったが、マコトはこの指示をありがたく感じるようになっていた。教員生徒共に、説明会などへの出張やテスト準備に忙しいところ、マコトにとってはこの業務が、ひとり落ち着いて居られる安息の時間となっていたのだ。なにしろ職員室に居ると「あ。木ノ下さん。コピー。三十七部」とだけ言って紙の束をずいと突き出してくるような者が後を絶たない。

 膝上丈のスカートの裾をゆらめかせ、ノックに適さない引き戸をガタンガタンと二度鳴らし、渡辺ルルナが進路指導室にやって来たのは、中間テストを翌日に控えた月曜日のことだった。マコトは“進路指導室だより”なる目的なき通知書を“いい感じ”に書くべく、今日もひとりここに居た。来月は体育祭後にすぐ一二年の進路希望調査があり、日商・全商簿記検定も控えているので、内容には困らない。

「はい」マコトはノックに応えて次の瞬間、やおら引き戸を開けてそのドア枠に、節くれ立った手をひっそりと添えた大柄な子供を見れば“運悪く難しい客に当たってしまった”と感じた。と同時に「うわなんの用? うちらのこと仲間だと思って来たんじゃない? 全然ちがうよ、帰んな!」と騒ぎ出す背後霊。

 これが二か月早ければマコトは、“すわ、屋上でのことを言いに来たにちがいない”と警戒していたかも知れない。けれど今もう、相手が“カスガ系男子”とは似ても似つかないキャラクターであることははっきりしている。急に決まった移動教室の情報を分けてもらえないほど孤立しているわけではないが、かといって友人が在るわけでもない、いつ見てもひとりぽつねんとスマートフォンをスワイプしている渡辺さんだ。グループワークでは毎度女子バスケットボール部の佐藤さんに迎えられ、邪魔にならない位置について、お手々はお膝、背筋ピン、恐縮しながらだいたい肯定。なお体育ではいつも見学。

「こんにちは!」マコトは、まずは大きな声で挨拶した。

「あ、こんにちは……」渡辺ルルナは戸の向こう側へ引っ込んでいきそうな調子に、顎を引きながらかぼそく応えたが、「失礼します」と続けてていねいに入室した。そのしずかに戸を閉める所作、腕を殆ど動かさないままパタパタッと寄って来る様、座っていいのか目で問う表情、もう一度「失礼します」と言って椅子を引き、膝を揃えて座る様子、見ていてマコトはJKだよなあと再認識した。それだけに、よそ行き仕様にも思えない鼻詰まりみたいな低い声や、洗いっぱなしの頭、あぶらとにきびにまみれた素顔、毛だらけの手足に違和感を覚えるような、そうでもないような、じぶんはどうだったかと記憶を辿れば、強いて無神経かつ粗暴な言動を心がけていたような節あり、腋の毛は剃っていたけれど腕や足には構っておらず、化粧はおろか日焼け止めすら塗っていないていたらくであった。この程度の美意識が標準なのだと思い直すのなら、目の前のJKの風貌にめずらしい点は見つけられない。スカートは膝上丈だが折ったり切ったりしているわけではなく、ファスナーを上げられるところまで上げてベルトで無理矢理留めているだけだ。シャツは男性用と見えて苦しそうではなく、リボンもゆったりつけている。ただ、春先まではこの上にジャージと厚手のカーディガンを着込んで過ごしていたので、もしかするとブレザーはもう着られないのかも知れない。

「えっと、就職のことが知りたくて……」

 と顔まわりのあちこちに手をやるルルナ曰く、じぶんは二年生なので進路決定はまだまだ先なのだが、就職したいと考えており、インターネットで色々調べて就活の流れなどは理解している。そうして学校のサイトで“就職先一覧”というのは見たのだが、いかんせん何年度のデータなのか記載されておらず、よもやすべての記録からなるべく大きな企業を抜き出して書いたのではないかとも疑われ、とりあえず去年どうだったのか実態を知りたくて来た。

「なるほど」

 マコトが頷いた時、もうその背後に“親友”の影はなかった。もちろんのことそれを想像するに要する機能と容量を他へ割り振る必要があったからだ。

 六割の生徒を進学させている実績上、突然進路指導室に放り込まれたマコトとしても現代の大学受験の流れから確認し直しており、就職についての情報には全然手をつけられていない。それでも去年の求人票を探し当てることくらいはできたが、百枚はありそうな量だ。一枚一枚めくって眺めても目がすべってしまい、“去年どうだったのか”という全体像はいまいち把握できなかった。スマートフォンで写真を撮って帰りたいと言っていたルルナとしても、それを膝に置いてしまい、困った顔で次々紙をめくるばかりだ。

「えっとー、でも、とりあえず、去年就職した人数が、ほら、六十四人だから、」ルルナは学校のサイトのスクリーンショット画像をスマートフォンに表示させて指しながら「就職したいのに仕事がないってことはなさそう、ですよね?」

「うん、なさそうだね。でもうーん……ちょっとどうだろう、たとえばほら、これなんか運送会社で、職種はドライバーだよ」

「あっ、ドライバーはちょっと、私、ちがう……」ルルナは覗き込み、すぐ背筋を伸ばして、首を横に振った。

「そういう、希望とはちょっとちがうかもっていうのがこのなかに五十枚くらいあるとしたら、それはちょっとね」

「そうですね。ちょっとパーッとでも全部見て行っていいですか」

「どうぞどうぞ。でもまあ、七月のを見る方が参考になるかも知れないけど」七月一日に、その年の就活生へ向けた求人票が公開されるのだ。ルルナにとってはそれが“前年度の求人状況”となる。とはいえその第一週は期末テストに費やされるので、ゆっくり見られるとすれば二週目以降か。

 ルルナは時間を気にしながら求人票をめくり、ときどき写真を撮って、スマートフォンにメモをした。その間、去年度の総括的な資料をさがしつつ、マコトも必死に情報を頭に入れていた。「ひとり一社しか受けらんないんですもんねー」とか「内定出たら辞退できないんですもんねー」とかと言われて都度「うーん」と低く唸りながら、内心“ええッ? そうなの? そんなむごいことある?”と半信半疑、とりあえずじぶんの無知を隠すていたらくだった。そんなむごいことあるのが学校斡旋の高卒就活で、併願不可だ。内定辞退などすれば二度と求人票をもらえないということで、学校側としてもかなり抑圧的な囲い込みをする。

 多様性と自由を謳う虹色のコマーシャルが彩る世の中と、一人一社制にて出荷される商業高校生ルルナの前に用意されている選択肢との落差が激し過ぎて、マコトは眩暈を起こしそうになったが、ともあれじぶんの勉強のためにも、もうすこし踏み込んだ情報を仕入れるべきだと思った。

「具体的な話は進路希望調査のあと、担任の先生とすることになるけど、よかったら体育祭の後もう一回おいで。確約はできないけど、たとえば学校の推薦をもらえた人の成績や出席日数がどの程度だったのかとかさ、調べられそうなら調べてみるよ」

 これを受けてルルナは「ありがとうございます」と頭を下げ、きっかり十七時二十分に退室した。“難しい客”だなんて全くの見当違いだったな、と反省しながら見送ったマコトの後ろで“親友”が「なんでじぶんから仕事増やすの!」と声を尖らせた。


(続きは、「文學界」2025年5月号でお楽しみください)

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