文庫化を記念して市川沙央さん『ハンチバック』(第169回芥川賞受賞作)の冒頭8000字を特別公開いたします。


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<title>『都内最大級のハプバに潜入したら港区女子と即ハメ3Pできた話(前編)』</title>

<div>渋谷駅から徒歩10分。</div>

<div>(いち(りん)のバラが(かたむ)く看板を目印にオレは欲望の城へと辿(たど)り着いた。</div>

<div>どうも、ライターのミキオです。今回は、ハプニングバーの超有名店「×××××」に潜入取材してまいりました。ではさっそくレッツゴー。</div>

<div>ペアーズでマッチングしたワセジョのSちゃんと肩を並べて入店。(待ち合わせ場所に先に着いていたSちゃん、ニコッと笑った顔が在京キー局の最初から完成された新人美人アナみたいで可愛い。黒いタートルネックニットに包まれた胸はEカップ!)</div>

<div>実はミキオ、会員証を既に持っています。(ライター転身前に常連でした)</div>

<div>「×××××」は3フロアあり、1階はフロントとロッカールーム、2階がバーラウンジ、3階がプレイルーム。午後8時の店内バーラウンジはいいカンジに(にぎ)わっていました。男女比7:3ほど。</div>

<div>「×××××」のルールで、バーラウンジでは服を脱ぐのもお(さわ)りも禁止です。でもキスはOK。オレとSちゃんがボックス席で仲良くモヒートを飲んでいると、「相席いいですか」と同じモヒート飲みのカップルが。</div>

<div>自称32歳の体育会系商社マン、Sちゃんがワセジョと知るや同じ早稲田政経出身をカミングアウトして盛り上がり、その勢いでSちゃんと(のう(こう)キスをおっぱじめます。ハプバ慣れてるな? ……ちなみにミキオは駅弁大学出身ですよお(^^;</div>

<div>じゃあプレイルームに行っちゃう? ということで、3階へ。店員さんから許可をもらって、運良く()いていた部屋に4人で入室。</div>

<div>商社マンのツレ、港区女子のYちゃん26歳はハプバは初めてだそう。でも高校時代に5Pまでは経験アリとか。どんな高校生活だよ! 床に真っ赤なマットが()()められたプレイルームは一面がガラス張りになっており、リモコンでスモークガラスに変わる高級仕様。(くも)ったガラスの外にわらわらとタカる((ぞう)どもの((はい)を感じながら、まずはYちゃんにフェラしてもらう。あ、気持ちいい。さすが5P経験者はフェラがウマい。先走りをごっくんしてもらったところで(こう(しゆ)交代。オレは着衣が(せい(へき)なので背後からYちゃんのブラウスの中身を()みしだいて、耳の穴をねろねろと責める。</div>

<div>一方、Sちゃんはスモークガラスに立ったまま(もた)れて商社マンにEカップの胸を吸われていました。口元までずり上げられた黒ニットの中でくぐもる(あえ)ぎ声が(いん()で可愛い。こぼれたEカップは(なし)のように白く張りツヤがあってさすがの21歳女子大生! しかも全然()れてない美乳な巨乳です!</div>

<div>オレの腕の中で26歳のYちゃんが敗北感からくる(がん(しゆう)(ほお)を赤くして(うつむ)いたのもむべなるかな。実は巨乳が苦手なミキオは、ちょっと垂れ気味な平均サイズのYちゃんの胸がどストライクだったんですけどね。そんなYちゃんに(れつ(じよう)(さそ)われたミキオ。ショーツに手を入れてアソコをなぞると既に()れ濡れなYちゃん。「入れてもいい?」と耳元で()くと「うん♡」と快諾してくれました。ちょうどいいタイミングで(てん(じよう)からパラパラと降ってきたコンドームのパケを(つか)み、一回戦開始。正常位で突き上げたらYちゃんはマツケンサンバのケンさんの語尾がエキセントリックに裏返るところみたいな声で喘ぎはじめた。スモークガラスに手を突かせて立ちバックでSちゃんを何度もイかせている商社マンを横目に見ながら、踊り狂うサンバには観客が必要だ、と俺はリモコンに手を伸ばす。一瞬でクリアになったガラスの向こうには片手を忙しくする地蔵たちが群れをなしていた――。</div>

 

 保存したWordPressのテキスト打ち込み画面を()じ、私は両手で持っていたiPad miniを腹のタオルケットの上に置く。集中して最後まで書ききってしまう間に気道に(たん)()まって人工呼吸器(トリロジー)のアラームがピッポパピペポと小煩(こうるさ)く鳴っていた。ホースを通って寄せて返す空気でかれこれ20分くらい(かく(はん)され泡立った痰に、吸引カテーテルを突っ込んでじゅうじゅうと吸い出し、呼吸器のホースのコネクタを気管カニューレに()めると、私は枕元からiPhoneを取ってビジネス用のチャットアプリを開く。

――ハプバ記事「×××××」前編を納品しました。フィードバックお願いします。

 奥から()いてきた痰をふたたび吸引して取りきると脳に酸素が行き渡って気持ちが、いい。

――ありがとうございます。引き続き(後編)と、それからナンパスポット20選福岡編と長崎編を週末までにお願いできますでしょうか?

――OKです。3記事とも土曜までに納品します。

 iPad miniを持ってもう一度WordPressにログインし、編集部がテンプレートにタイトルだけ入れて作成してある記事の中から福岡編と書かれたエントリをタップ。ここから編集権限がBuddhaに移る。Buddhaは私のアカウント名だ。私は29年前から((はん)に生きている。成長期に育ちきれない筋肉が心肺機能において正常値の酸素(ほう()度を(()しなくなり、地元中学の2年2組の教室の窓際で(もう(ろう)と意識を失った時からずっと。

 歩道に靴底を引き()って歩くことをしなくなって、もうすぐ30年になる。

 (かべ)の時計は正午を(うかが)っていた。(ぼう(こう)を意識すると尿意を感じたので、面倒だが仕方なくトイレに起きる。涅槃のお(しや()様だってたまには立って歩くだろう。カニューレのカフから注射器(シリンジ)で空気を抜き、呼吸器のコネクタを外し、アラームが鳴る前に電源を切る。

 右肺を押し(つぶ)すかたちで極度に(わん(きよく)したS字の背骨が、世界の右側と左側に独特な意味を与える。ベッドは左側からしか降りられない。寄りかかるのは右側が楽で、だが右を見ようとしても首が回らず、テレビは左前方にしか置かない。冷蔵庫の上段にも下段にも右手しか伸ばせない。左足は(つま(さき)だけが床につく。だから((こう)にも程があるといった歩き方になり、気を抜くとドアの左の(さん)に頭が(げき(とつ)した。

「――」

 今朝も気を抜いて頭を打ったが、悲鳴のための空気は声帯に届く前に、気管切開口にカニューレを嵌めた気道からすうすうと漏れるだけだ。

 トイレから戻って呼吸器を着ける。iPhoneの方でTwitterの個人アカを表示し、〈ハプニングバーで天井からコンドーム降らすバイトやってみたい〉とツイートした。特に誰からもいいねは付かない(れい(さい)アカウントだ。寝たきり同然の重度障害者女性が年がら年中〈生まれ変わったら高級(しよ(うふ)になりたい〉とか(つぶや)いているアカウントなんてそりゃ()んな反応に困るよな。

〈マックのバイトがしてみたかった〉〈高校生活がしてみたかった〉〈高身長美男美女でブラックカード持ちの両親の元に生まれた165センチの私は健常者だったら(てん()取れたのに(何の天下だよ)〉〈生まれも育ちも神奈川県だけど東京には数えるほどしか行ったことがない(町田を(のぞ)く)〉〈自動改札機が普及する前に歩けなくなったので(はさみ)で切符切る改札しか知らない〉〈新幹線も乗ったことないけど子どもの(ころ)の海外旅行はいつもビジネスクラスだった〉

 午後1時に玄関から入ってきたヘルパーが食事を用意し、私は本格的に呼吸器から離れて起床する。ワンルームマンションを一棟丸ごと改造した施設、グループホーム・イングルサイドは、両親が私に(のこ)した(つい)(すみ()だ。十畳ほどの部屋と、キッチン・トイレ・バスルームが私の足で行ったり来たりするスペースのすべて。365日、ほかに私が通うところもなければ、ヘルパーとケアマネと訪問医スタッフと呼吸器レンタルの業者以外は訪ねてくる者もない。西向きの()き出し窓から晴れた日は(()(いただき)がかすかに見えるけれど、西は右にあるから首が回らない。バルーンシェードの降りる出窓を背にしたワイドデスクの奥を定位置に、午後は座ったきりの生活を送る。正面の壁に50インチのテレビが()えてあって、しかし(めつ()に私はそれを()けず、(となり)の入居者の部屋から壁越し聞こえるテレビの音に時々耳をそばだてた。午後2時頃の隣人はいつもNetflixでトップ10入りしているような韓国ドラマを観ているらしい。

 (のど)のど真ん中に穴を開ければ原理的に((こう)で呼吸するより(()が下がると、14の私に病棟主治医は説明した。以来、私が人工呼吸器を必要とするのは(ぎよ(うが)時のみだった。「ミオチュブラー・ミオパチーは進行性じゃないからね」が両親のお(だい(もく)だった。――ありがたそうに(とな)えているばかりで、内容・実質のない主張、と(だい((りん)の【御題目】の(こう)にはある。何しろ遺伝子エラーで筋肉の設計図そのものが間違っているのだから、劇的な進行がないと言ったって、維持も成長も老化も健常者と同じようにはいかない。

 曲がった首に負荷のかかりにくい姿勢をつくるために椅子の上で両脚をパズルのように折り(たた)んで、デスクの左側のノートパソコンを起動させる。3年前から在籍する某有名私大の通信課程は、オンデマンド動画を視聴したあと30人弱のクラスメイトとフォーラム討論をして1コマ分の出席点になる。通信大学は二つめだった。私は中卒だから一つめの大学は高卒資格なしでも事前に単位を取れば入れる特修生制度のあるところに(もぐ)り込んだ。学歴ロンダリングと自ら(わら)いながら通信大学のハシゴをしているわけだが、私にとって社会的なつながりと言える場はコタツ記事ライターのバイトを(のぞ)けばここにしかなく、世の中に一言で通用する肩書き、例えばプルダウンから選ぶご職業の(らん)に設定された選択肢、つまり会社員とか主婦とかになれない私は、40を過ぎても大学生の3文字にお金を払ってしがみついていた。

 首に負荷をかけない姿勢は腰に負荷をかけるので、30分経つと足を下ろして腰を(なだ)める姿勢に移る。また30分もすれば首が(しび)れてくるから両脚を所定の位置に折り畳む。そうしている内にも重力は私のS字にたわんだ背骨をもっと押し潰そうとしてくる。硬いプラスチックの(きよう)(せい)コルセットに胴体を閉じ込めて重力に抵抗している身体の中で、湾曲した背骨とコルセットの間に(はさ)まれた心臓と肺は常に(きゆ(うくつ)な思いをパルスオキシメーターの数値に(()した。息苦しい世の中になった、というヤフコメ民や文化人の(なげ)きを目にするたび私は「本当の息苦しさも知らない(くせ)に」と思う。こいつらは30年前のパルスオキシメーターがどんな形状だったかも知らない癖に。

 遅いブランチを消化して頭がクリアになってきた頃、私はMoodle上でメディア・コミュニケーション科目のフォーラムを開き、課題に答える意見を書き込んでいった。

〈考えてみれば、あらゆる活字には書き手がいる――通販カタログの商品説明の欄や写真のキャプション、住宅・求人情報のチラシの文章も、必ずそれを書く誰かがいて、対価が発生しているんですよね。クラウドソーシングに登録してライティングのバイトをするようになって私はそれを今さら認識しました。検索((せん)が問題化して久しいいわゆるコタツ記事と呼ばれるSEO系WEBメディア記事のライターの対価は1文字0.2円~2円くらい。コタツ記事というのは、取材をせず、ほとんどネット上の情報のつぎはぎで((せい(らん(ぞう)されたPV(かせ)ぎの記事をいいます。私が雇われているWEBメディアでは、男性向けは風俗店体験談やナンパスポット20選といった記事+マッチングアプリの広告の組み合わせ、女性向けは圧倒的に復縁神社20選+電話占いの広告が()られた記事が人気です。どれだけ復縁ニーズがあるんだよ別れた恋人なんか(あきら)めなよという感じですが……。1記事3000円(もら)えるので、介護や子育て中の方、私のような重度障害者など、家から出られない人たちにとっては良いバイトです。私はお金目的ではないので、いかがわしい記事で稼いだ収入は全額、居場所のない少女を保護する子どもシェルターやフードバンクやあしなが育英会に寄付していますけど。〉

 ふりかけさえあればお米が食べられるなどと、いじましいリクエスト理由がフードバンクのウィッシュリストに書いてあったから、Amazonからせっせとふりかけを送りつづける日々だ。グループホームの(あじ()ない給食にもふりかけは欠かせないので、お金があってもなくてもふりかけの救世主みは変わらない。

 このグループホームの土地建物は私が所有していて、他にも数棟のマンションから管理会社を通して家賃収入があった。親から相続した億単位の現金資産はあちこちの銀行に手付かずで残っている。私には相続人がないため、死後は全て国庫行きになる。障害を持つ子のために親が頑張って財産を残し、子が(けい(るい)なく死んで全て国庫行きになるパターンはよく聞く。生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりと(りゆ(ういん)を下げてくれるのではないか?

 トイレに行ってインスタントコーヒーを作って戻ってきた私は酸素飽和度が97に戻るのを待ってからiPhoneを手にする。

〈中絶がしてみたい〉

 (しばら)く考えてみて、そのツイートは下書き保存する。私はノートパソコンのブラウザからEvernoteを開く。(えん(じよう)しそうな思いつきは取り()えずここに吐き出して冷却期間を置くのだ。

(にん(しん)と中絶がしてみたい〉

〈私の曲がった身体の中で(たい()は上手く育たないだろう〉

〈出産にも()えられないだろう〉

〈もちろん育児も無理である〉

〈でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから〉

〈だから妊娠と中絶はしてみたい〉

〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉

 

 COVID-19が(たけ)り狂っている時期は個室に引きこもるが、せっかく改装費をかけた設備を活用しないのも開設者の娘として無責任な気がして、夕食は2階の食堂に降りてくることにしている。ヤマハの電動ユニットを付けた車椅子には外出用の吸引器(OB-Mini)を常時()んであった。人工呼吸器から離れている間も、痰を引く吸引器は片時も手放せない。気管カニューレというプラスチックの異物が喉に突っ込まれている限り、(ねん(まく)は勝手に戦うし、設計図を間違えている呼吸筋はまともな(ふん(しや)力のある咳すらできない。

「1階の徳永さんのご家族が((どう)をいっぱい差し入れてくださいました」

 ヘルパーの須崎さんが私の前に食事のトレイをサーブして言った。

 (きよ(ほう)とピオーネが3(つぶ)ずつ()った小皿がデザートに付いている。(さば)(()煮とマカロニサラダとわかめのお味噌汁とごはん。部屋からふりかけを持ってくるのを忘れた。

 マスクの上の両目を笑いモードにして須崎さんに(うなず)く。――葡萄かあ、秋ですねえ、ありがとうと伝えてください、くらいの意味を一つの頷きで表す。ありがとうは後で入居者のグループLINEにも入れるけど。

 カニューレの穴を(ふさ)げば声を出せるが、喉に負担がかかって痰が増すので私は(ほとん)(しやべ)らない。首を(たて)か横に振るだけでは伝達できない(こと(がら)のみ音声言語を使う。センテンスが長くなると息切れしてしまうから、込み入った話は結局LINEを介することになる。

 3列向こうの対角線上の席では、(せき(そん)の山之内さんがヘルパーの田中さんの介助を受けながら食事している。私はそちらに顔を向けて2回、角度をずらして(えし(やく)した。それぞれから浅い会釈が返ってくる。優秀な車の営業マンだったという50代の山之内さんはお喋りな人で、ベテランヘルパーの須崎さんを相手にとりとめもない世間話を続けていた。

「でもまあ、デジタルなんかが(たい(とう)してくる前に現役社会から放り出されて良かったのよ。パソコンなんて腕が動いた頃も打てなかったもん」

 (そし(やく)の合間に遠慮なく声を発する山之内さんの顔の前でマカロニサラダを盛ったスプーンがさっきから浮遊待機している。

「今は車の運転席も全部タブレットですよ。あたしも息子の車借りても全くわかんない。ラジオも点けられないの」

 語尾がいつもウフっとした笑いで終わる須崎さんは空気の調べを明るい長調(メジヤー)にするムードメイクのベテランだ。

「でもVR? あれはやってみたいね。メガネでどこでも好きなとこ行けるんでしょ」

「ああいいよね、あれ。(しや()さんて、VR、やる?」

 須崎さんから水を向けられた私は首を横に振った。

 筐体(きよたい)にしろソシャゲにしろゲームに手を出して長続きしたためしがないのと、段ボールを開けて潰すのが面倒なので――。

「釈華さんの部屋、新しい機械いっぱいあるもんねえ。こないだ買ったのは本のスキャナ? だっけ。卒論、たいへん?」

 私は頷いた。――やっとテーマが固まってきたくらいですが。

「田中君もああいう機械欲しいんじゃない。いつもスマホで漫画読んでるもんね」

「休憩室で? あら、おれにも読ませてよー。カイジとか、まだやってる?」

「読んでないです」

 福本伸行を読んでいないのか休憩室で漫画をそんなに読まないのか判然としない答え方だった。30代半ばの田中さんなら、所有にこだわるよりも漫画アプリとか。待てば0円、とかいうやつかもしれない。縦スクとか?

 マスク越しだが至近距離で一言喋った田中さんを山之内さんがとっさに「コロナ、コロナ」と(とが)めた。自分は物を()む口でべらべら喋っているのに。

 田中さんは黙ったまま、山之内さんの好みに従いスプーンに(すく)ったごはんを味噌汁に(ひた)してから椀ごと口元に持っていく。

 お喋り好きの山之内さんの食事介助は根気がいる。((えん)して肺炎になられたりしても困る。とはいえここはグループホームだから、管理規則ガチガチの前時代的な施設みたいな抑圧は(げん)(つつし)まねばならない。

「でも、おれは漫画よりパチンコやりてーなあ」

「連れてってあげたいけどねえ。遊べなくても、(ふん(()だけでも」

「雰囲気! 雰囲気じゃーなあ」

 当事者公認の(じぎ(やく)的笑いどころが来た。「ま、今じゃー自分の(タマ)もハジけないんだからしゃーねーよな」

「やめなさい。うら若い女性の前よ、山之内さん」

「あ、ごめんねえ」

 私は真面目な顔で首を少し(かし)げながら平然と味噌汁を飲んだ。1979年生まれはとっくにうら若い女性ではないにしろ、初潮が19歳だった私はまだ40代に見られる姿形を獲得していない。あるいは私の成長曲線も標準の人生からドロップアウトした時点で背骨とともにS字に湾曲しているかだ。

 ひとしきり(なご)やかな空気を(じよ(うせい)すると須崎さんは食堂に来ない利用者の配膳のためキッチンに引っ込んで盛り付けをした後、トレイを持って(ろう()に出ていく。

 空気の調べが短調(マイナー)に変わり、静かになった食堂で私はさっき冷却した呟きが世の中に流して((さつ)を起こさず常温を保つかどうか、考えてみる。こんな小さな食堂でも、私にとっては公共の場であり、社会だった。社会性のない呟きは、社会の空気のリズムを乱す。私の無様な((こう)みたいに人々の((もく)をぎょっとさせる。胎児殺しを欲望することは、56歳脊損男性の底明るい下ネタとは次元が違う。

 せむし(ハンチバツク)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。

 皮を()いた巨峰を首から上しか動かないおじさんの口に()し込む若者の真っ直ぐな背中を(()りながら、私はきれいに食べ終えた味噌煮の鯖の中骨を(はし(さき)でぼっきり折った。


市川沙央(いちかわ・さおう)
1979年生まれ。早稲田大学人間科学部eスクール人間環境科学科卒業。筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症および人工呼吸器使用・電動車椅子当事者。2023年、『ハンチバック』で第128回文學界新人賞を受賞しデビュー、第169回芥川賞受賞。2作目となる単行本『女の子の背骨』(文藝春秋)が今秋発売。