第131回文學界新人賞は、応募総数2725篇の中から5篇を最終候補とし、3月3日に青山七恵氏、阿部和重氏、金原ひとみ氏、町屋良平氏、村田沙耶香氏の5選考委員による選考が行われ、村司侑さんの「ソリティアおじさんがいた頃」が受賞作に、沓乃ようさんの「ドロップ」が佳作に決定しました。今回は、佳作「ドロップ」の冒頭を公開いたします。

◆プロフィール

沓乃よう
2003年生まれ。岐阜県出身。県立岐阜農林高校、岐阜大学卒業。現在大学院在学中。


 北舎三階、三年三組の教室からは黄土色のグラウンドがよく見える。

 三階には三年生の教室全三クラス分と音楽室と準備室、生徒会室が入っていて、北舎は東西に横たわって、途中で折れ曲がっており、三年三組の教室だけが折れた廊下の突き当りに位置する。本来は集会室だったのだが、元三年三組の教室の空調が故障した都合で臨時的に移動しているのである。

 私は埃臭いカーテンの端を握りしめ、窓枠に手を掛けてグラウンドを見下ろす。まだ空は青い時間、季節は段々と夏めいてきていた。目の下では野球部が練習試合を行っており、真白のユニフォームが汚れる事を厭わずに勢いよくホームベースに飛び込んでゆく。軽々と体が滑り、砂埃が流れる。彼らと彼らのユニフォームは一体となって、共に動く。風に靡いたり、皺が寄って撓む事もなく、同時に移動して、同時に擦れて破けるだろう。ああいう服を脱ぐのも脱がすのもさぞ大変だろうと、私は謎めいた妄想を始める。今、満塁の状態から快打を放って全員をホームベースに送り、自身もきっちり塁を走り切ってきたのが須藤君。私の持っている生物の授業での態度も良く、生真面目に鍛えられた肉体はカッターシャツとの間にほとんど隙間を作らない。首も太い、咽頭の部分は鋭く、大きく笑う時にはよく筋が浮き出る。誰にも隔てのない応対をするので、彼の隣の席はいつもはぐれ者たちばかりだったらしい。須藤君は隣人が誰かに詰られる度に、私に向かって微かに笑う。誰を嘲笑しているのか、きっと全てを嘲笑しているのか、でも誰の事も嗤えていないよ、と私は胸の内で呟く。

 クーラーの風量が切り替わって短い機械音が零れ、私は教室の中をふと見渡す。そろそろ冷えた頃だろうか、身をよじるとレースブラウスの周りを密度の高い冷たい空気がまとわりつき、私の芯の部分からぐんぐん熱を奪う。粗雑に並んだ机や椅子は他の教室と比較すると色褪せ、床のワックスも劣化して黒ずんでいるので、より一層じんと冷たい雰囲気が教室全体に立ち込めている。窓越しの喧騒は滑らかな膜に覆われて私の耳にひっそりと届き、この空間は張りつめた無音で満たされ、気温の高い明るい外と、薄暗い底冷えする内側の空気に暴露され、すっかり私はこの世から隔絶された気分になる。この感覚は学生時代から変わっていない。むしろこれが好きで、誰もいない教室でクーラーをつけてじっと待つようにしているのだ。

 もうすぐここに生徒が集う。前回同様にきっと白熱した会になるだろうから、こうしてあらかじめ教室を冷やしておいた。あの年齢の子供たちは、大なり小なり物事を考えて、答えのない途方もない場所に放り出されることが重要だと私は思う。そうして眉間に皺を寄せたり、何か言語化したい事を吐き出すために思案している若者の顔を見るのが私は好きだった。思弁を聞くのは痛々しいし、そのまま突き進んでいく事に危険は付き物だけれど、そういう機会もないというのは、やはりよろしくない。

 一旦教員室に戻ろうかと逡巡し、どうせすぐに生徒がやってくるだろうと割り切ってグラウンドに目線を戻す。誰かが高くボールを打ち上げて、様々な掛け声が湧き上がってくるのを見ながら、私は窓枠に掛けた手に顎をのせて、じっと彼らに焦点を合わせていた。

 

「先生にこうして教室も取ってもらいました。皆さんしっかり女子会しましょう」

 私は舌の先でサクマドロップスのオレンジキャンディを転がしながら一人一人の表情を窺う。高木はいつもと変わらぬ自信と勤勉さを湛えた凜々しい面持ちであり、丁寧に切り揃えられて浮かんでいる前髪の奥に平行な眉を忍ばせ、切れ長の目の下のほくろは茶色、薄い唇には校則にぎりぎり抵触しなそうな色味のリップが照っている。高木と同じく三年の酒谷は座ってすぐに体勢を崩し、首からストラップで提げたハンディファンで首元に風を送る。他の三年の篠井と坪口は、お揃いのプリクラ写真をケースに忍ばせたスマートフォンをいじりながら、これはたまたま似通ったのであろう触角のような髪を指に巻き付けている。二年生は顔と名前が一致していない。一年生は名前も知らない。一通り見渡してから歯茎に力を籠めると、バキッと飴玉が砕けた。口内で散乱した砂糖の欠片を一つずつ舐め溶かしながら、私は高木の進行を見守る。

「今回が初めての会ですけど、特段ルールは無くて、忌憚なく言いたいことを言い合って下さい。あ、特定の誰かを貶めたり、此処にいない誰かを悪く言ったりする排他的な行為は禁止で。私達はそんな話題じゃなくても盛り上がれるはずなので」

 高木が大きく息を吐いて、もう一度吸う。酸素が一気に潤った彼女の頬は微かに紅潮し、目は良く濡れて希望に満ちている。彼女に教室の奥から向かい合っている私は、じゃりじゃりと砕いていた飴玉の残りをぐっと喉の奥に押し込んだ。まだ硬さを保った破片たちが咽頭を通過し、胃に落下していくのが皮膚感覚から伝わる。内臓の痛みが皮膚の痛みとして現れるのは、内臓から脳の方へ投射する神経が途中で皮膚由来のそれに乗り換えるかららしい。要するに勘違いであるわけで、この肉体では絡み合った神経によって適当な事が度々起こり、これは仕様である。私の中を通過する飴の存在が手に取るように分かるのも、きっと仕様。落下した飴玉を感知して胃液を分泌するようどこかに投射する神経は、知らぬ間に乗り換えて、私の身体の至る所から体液が噴き出る。ここで脳に溢れ出した液体は半透明で、それは思い出を抽出した水溶液、満ちていくほどに、水に揺蕩うように私は妄想と回顧と夢の狭間に流れ出す。

 集う彼女らと私は同じ座標にいて、違う次元にいるのかもしれない。互いに互いを観測し合う。それは大人と子供、教師と生徒、思い出と現在のような位置関係で。何を思い出すか、という所から始まる。そうやって会議に耳を傾けた。

「なにそれ、それじゃああんまり楽しくないじゃん」

 篠井が眉を顰めて坪口と片目だけで意思を疎通する。坪口がすかさず首肯する。

「なんでも言っていいと思ったから来たのにさ」

 この二人だったら言いそうだと思っていた事だ。悪い子達ではないし、あっと思うほど倫理的な事を突然言ったりするけれど、やっぱり二人揃うと質が悪い。

「この世になんでも言っていいなんて事は無いんですよ」

 高木は諭すように呟き、「そう先生が言ってました」と付け加えた。

 私は全員の視線を浴び、ロッカーにさらに深くもたれかかって頷いた。そんなカッコいい事を言った覚えはないけれど。私は高木に全幅の信頼を置いているので、彼女の言う事には可能な限り手放しで肯定する事にしているから。彼女がそう聞いたなら、私はそう言ったのだろう。篠井と坪口はまた見つめ合ってから私と高木を交互に窺い、そのままの目線でそれぞれ頭をもたげた。

 じゃあ、始め! と勢いよく発声した高木の言葉は、誰が拾うでもなく、教室の冷えた空気を滑って飛び散る。

 最初は誰も話し出さず、探り合いの様相で沈黙だけがどんどん重くなっていくばかりだったが、高木の「じゃあやっぱり議題を投入します。『性加害の当事者にパイプカットは必要か』これで話しましょう」という言葉で空気は得体の知れない加速度で渦を巻いた。まず酒谷が先陣を切り、冤罪時の処遇について問題を提起した。下級生の複数人がそれについて賛同し、女子会の流れは一瞬にして不幸な冤罪被害者への同情を孕むようになった。想像力が豊かな事は大変良い事だ。私はその時はハッカ飴を舐めていて、突き上げてくる爽快な香りが眼窩を刺激して、どうしようもなく目の前が曇っていた。この感触は、高校の時に付き合った曽合君に口移しでたばこの煙を吸わされた時のものに似ていた。

 私が名前を知らない二年生が挙手をして、議論の流れを断絶させて立ち上がる。コンパスみたいな足を伸ばして努めて直立に起立しているのが、机の間から窺えた。

「私、小学生の頃にいつも遊びに行く公園があって、敷島公園っていう、ブランコとシーソーと砂場と藤棚の下にベンチと、あと銀色の大きい時計台があるだけの公園で。友達の男の子と時計台の中に入って、そこを秘密基地みたくして遊んでたんです。体の小さな子供がギリギリ通過できるくらいの隙間が基礎と時計台の間にあって、体を擦りながら体を押し込んで。頂点に向かってすぼんでゆく銀色に日光が重なるとすごく綺麗だったんです。それで

 そこまで言うと、二年生は少し黙り、その隙に私はドロップ缶を揺らし、舐め終わったハッカ飴の代わりに掌に転がった水色の飴をためらわず口に放った。この香料はサイダーか、清涼飲料メーカーが出している飴玉のバリューパックから適当に幾つか取り出した覚えがあるのでそれだろう。ハッカとは違う甘い爽快感が咽頭まで下がっていった。私は中学の頃好きだった野球部の補欠の千堂君を思い出した。千堂君はとても痩せていて、身に着けている衣服の全てがオーバーサイズになっており、私はその余白が好きだった。あばら骨がしっかり湾曲している構造だと分かる程に浮き出ており、落ちくぼんだ腹部には張り付いたように腹筋が刻まれていて、それを自慢気に撫でる千堂君は可愛かった。

「えっと、そうその銀時計の中に入ってその日も遊んでて、一緒にいた男の子がトイレに行くって出て行っちゃって。私は一人で基礎の大理石に小石で絵を描いて待ってました。しばらくして足音が近づいてきて、砂利を踏む音なんですけど、それが妙に重々しいと言うか、広い足で踏みしめていることが分かる音でした。明らかに少年の靴音ではなかった。でも様子を窺うにも銀時計の外に出るにも、狭い台と基礎の隙間を潜るしかないから、とりあえず後ずさりしました。円錐状の時計内の空間はどっちに逃げても行き止まりで循環していて、足音も一緒にぐるぐる廻って来るんです。光が眼の裏側に鋭く刺さる感覚があって立っていられなくて、座り込みました。そしたら隙間からにゅっと腕が入ってきて、私の二の腕の膨らんでいるあたりと、膝小僧を触って出て行きました。足音が遠ざかって、もう大丈夫だと直感で分かりました。男の子は時計台の周りで屈んでぐるぐる回ってるおじさんを見て逃げちゃったらしくて、でも親からは彼は悪くないから責めてはいけないと言われました。きっとしょうがない事だと思うんですけど、でも私はおじさんの顔を見ていないし、確かに浅黒くて節くれだって湿ってるあの手は老齢の男性の物だけど。あそこで私の網膜に強く残ってる男性の顔は、ちょっと照れてトイレに行ってくることを伝えてきたあの男の子の丸い顔で

 そこまで口早に、だんだんと息切れを感じさせるように声が細くなっていって、二年生は勢いよく腰を下ろした。保護キャップの外れている古びた椅子は、彼女の加速する着席に衝突されて叫びのような音を立てて後ずさった。しばらく沈黙が続いて、坪口が挙手をして立ち上がる。「結局のところ、被害者はそのフィルターでしかものを見る事ができなくなるだろうし、私達部外者は全ての立場を考慮しないとフェアじゃない気がしてくるし。普通に考えれば分かるんだよ、被害者が誰よりも気の毒なんだし、加害者になるような人間は理性の壁の前に欲があって、抑えるとかそういう次元じゃない、面の皮のすぐ後ろに欲望があるんだから」

「私達が口出す事じゃないって事?」酒谷が椅子にもたれた体勢のままに呟く。

「そんな剣呑な事を言いたいわけじゃないけど、まあそう言う事になっちゃうよね」

「じゃあ、冤罪は? 加害者ですらないのに、ちゃんと理性があるのに」

「だからぁ、被害者がいるだろって言ってんの。被害者の言葉が中心でなければならないのに、私達がこういう問題を語る度に目線があちこちに移動するでしょ。それは全く倫理的でも、理性的でもない態度だって言いたいの」

「冤罪かけられた人も被害者じゃないのかな」篠井が過熱していく坪口の隣で、誰に伝えるでもない素振りで言葉を空気に放った。ぷかぷかと浮かんだ言葉が人工的に冷えた教室を漂い、机を囲んだ生徒たちの真ん中で弾けた。

「そもそも、なんで冤罪の事なんて考えてんの」

 いよいよ秩序なく自由に主張しだした。白熱とはこういう事を言うのだ。なぜか一年生の一人が塞ぎ込んでしくしく泣き始めた頃に、高木が黒板の傍へ寄って行って黒板クリーナーの電源をいれた。混じり気の多い駆動音が鳴り響いて緑の躯体が小刻みに揺れる。その音で全員がいつの間にか静かになった。私は集団を静める方法にそのような手があった事に感心して、いつか自分の授業でも実践しようと心に決めた。私はまた缶を振って掌で受け、コーラ味のチューイングキャンディを口に投げ込んだ。中学校二年生の夏、空き教室から盗んだ谷先輩の濡れた水泳帽の事を思い出していた。背がとても高い谷先輩は、髪の毛からうなじを経由し、背中の広い場所まで太く濃い毛が覆っていて、それを掻き分けて触れてみたかった。

 妄想と回顧は地続きなので、私はチューイングキャンディを舌で柔らかくしながら、先輩の水泳帽で頭をいっぱいにして、この突沸しかねない社会派な女子会の行く末を見守る姿勢を取ったのだった。

 これが一週間前だった。

 今、私の待つ教室に生徒が集まり、皆が足を踏み入れた瞬間に目を見開いて、一息つく。私が先に教室にいたことに驚いているのか、熱気の密度が高い廊下から入ってきて教室が冷えている事に気が付いたからなのかは分からない。年季の入った横開きのドアは、プラスチックのサッシに埃や砂が詰まり、開閉の度にじりじりと死にかけの蝉が鳴くように軋んだ。一年生が揃い、三年生の大半が現れ、二年生が揃い、最後に高木がやってきて全員の顔が揃った。心なしか前回よりも斉一性を感じるのは、今週から制服が夏仕様に完全移行し、全員が半袖のブラウスシャツに薄手のプリーツスカートを身に纏っているからだろうか、それとも全員の意識が何か一点に向かっているからかもしれない。同じように見えて、実際同じ扱いを嫌うのが彼女達で、私は教師として彼女達のそういう部分に悩まされてきた。即座に応えられない問いを投げかけて、たじろぐ教師を鼻で笑う。私以上に頭の切れる生徒は沢山いる。ただ、彼女らは彼女らの見える景色の中だけでよく考えている。大人の私達は別の景色の中で考えている。だから能力に上下があったとしても、私は彼女らの教師としての立場が保てていると思っている。

「今回は前回の続きをしますか?」「いや、いい。もういい」坪口が高木を遮る。教室全体は坪口に同調し、高木へ視線をひたすらに送っている。緊張感でもなく、これからの議論への興奮や高揚などでも勿論なく、疲労感は全員の中に浮かんでおり、それでもここに足を運んでいる自分達への絶望感が漂っている。異様な空気は色づいてきたようで、どんどん視界は薄黄色になっていく。

 短い機械音が放り投げられ、気が付くと冷房が除湿に切り替わっていた。冷房から視線を降ろして窓を眺めると、外は真っ白だった。陽光のせいで光が飽和したかと目をこするが、私の視界は明滅することなく、まだ外は純白に閉ざされていた。バンッ、と短い破裂音がする。灰色の小鳥がガラス窓に衝突したようで、ゆっくりと剥がれて落下していき、その痕には血液などではない、半透明の体液が脈をうつような模様を呈してこびり付く。生徒たちは誰一人これを認識していない様子だった。私は一つ息をついて、肩掛けのポシェットからサクマドロップスの缶を取り出し、掌に飴玉を受ける。家中の飴玉やそのサイズのスナックを詰め込んでいるので、何が出てくるかは分からない。缶を幾らか振ると、掌の真ん中にべっこう飴が転がり落ちる。ちょっと外れかな、と思いつつ口内へ放る。粘着性の甘味がジワリと広がる事を確認してから再び生徒たちの方に向き直った。

 前回のあの白熱から、どう今回のテーマを決めたのだろうか。「次回はどうするの?」と私が聞いた時、高木は「しばらくは任せて下さい」と意思の強い眼差しで言った。言われなくとも、と私はあっさり引き下がった。

「今日のテーマは、佐藤蓮君、彼の彼女には誰がふさわしいか、です」

 

 誰も何も言わなかった。私を含めて全員が立ち上がっている高木を見つめているのだが、私以外はこの主題を疑っている風ではなかった。生徒たちは立ち向かうべき物の本質を見据えていると言わんばかりに背筋をただし、その背中で、真っすぐ高木を見つめる視線を語った。坪口と篠井ですら、高木を瑞々しい態度で見つめている。私だけが胡乱な目つきをしながら、舌でべっこう飴の糖類の残渣を味わっている。高木は手のかからない子だと同僚の中でも評判で、実際私の所に空き教室の利用申請の署名を頼みに来た時も破綻のない生徒なのだと理解できた。私たち教師の言う「手のかからない子」というのは、実際不憫な扱いを受ける事も多く、何もしない事を一番望まれている、そんな存在である。高木を一見して、この子に伸び伸びとやらせてあげたいと直感し、意図の分からないこの女子会の監督も引き受けた。きっと何か建設的な考えがあってのことだろうと。

 高木は生真面目で、少し厄介な面も持ち合わせていた。真面目が故に全ての事由を自分の理解の及ぶ所に置いておきたいと思う節があって、授業態度もほとんど良好だが、稀に火が付いたように詰問してくることがあった。私の受け持っている生物ではクローンや受精卵移植の単元が火種で、倫理や世界史、日本史、現代文でも同じような事があり、そのような瑕疵を包み隠すように、または大人としての深い許容を示すように「手のかからない子なんだけどね」と同僚たちは言うのだった。私も高木のこのような性質を欠点だとは思わなかったけれど、全方位の知識を摂取し、それを噛み砕くには勉強がまだ足りないように感じていた。何かに絞ればいいのに、と口を尖らせつつ、私も学生の頃はそうだったかもしれないとも思うのだった。教師としての期待と、個人的な同情と親近感も手伝って、高木のする事を肯定し、激しく踏み外すことは無いだろうと信頼している。

 その上でこのテーマの意図を測りかねた。口を挟もうとも考えたが、私はこの混然一体になろうとしている生徒らの総体に、異を唱える言葉を持ち合わせていない。勿論説き伏せて教え導く言葉もない。そもそも、私達が言葉を以て、教育として何かを伝えられるのは一対一の場面でなければとても難しい事で、多対一の教室での授業は教師に圧倒的不利な場面なのだ、と日頃からぼやいている仕事の愚痴を思い浮かべる。この女子会でも、いつもの教室でも、彼らや彼女らはミクロネシア群島みたいに、海を隔てながら、一つみたいに浮かんでいる。考えていたら口寂しくなったので、また缶を振り、落下した外国産のキツイ着色のグミを口に含む。味はおざなりで、ゴムのようにしなっていつまでも嚙み切れないから、飴のように舌の上で転がした。中学に入学する前の春休みに、お父さんがお母さんを殺して、そのままいなくなった武藤君の、柔らかくて赤らんだ頬の事を思い出した。武藤君の家の事で近所が騒がしくなった日、公園の藤棚の下で座り込んでいる武藤君に私は話しかけた。初めまして、からだった。武藤君は乾いた眼をしていて、何も言わずに走り去った。

「蓮君は彼女が居ません。あそこまでカッコいい蓮君にいないのは世の不条理でしょう。見つけるべきです。我々の中から」

 高木の第一声に皆はまばらに頷く。自分たちの中から、カッコいい佐藤蓮君のパートナーが選出できる事は理解の一致らしい。私はその佐藤蓮君の顔が分からない。きっと「蓮」という名にふさわしい蓮の花のように可憐で苛烈な今どきの男の子なのだろう。野球部に似た名前の子がいなかっただろうかと窓に顔を向けると、白んでいて何も見えなかった。陽の光が強いとこうなるのだろうか、外だけが異様な光に満たされているのか、教室内はなぜか薄暗いままで冷淡な空気が漂っている。奇怪な状況であるのは分かっている。しかし、話し合う彼女たちはまるで意に介していないようだし、私自身いままで学生として、また教師として学校という空間にいて、このような不可思議に包まれることはままあった。沢山の人が着飾った感情を見せ合うけれど、一枚剥がせば裸なのだから、無理もない。

「蓮って、今まで彼女いたことないんでしょ? そんなの大丈夫かなって思わなくもないけどね」

「呼び捨てじゃん。馴れ馴れしい」

「は」

「そういうのでマウント取ろうとしてるの見ててしんどいわ」

「細けぇな嫉妬かよ」

「は?」

 坪口の発言に間髪入れずに酒谷が突っ込む。普段いくらでも言葉を接続して、文法を置き去りにした情報過多の会話をするのに、こういう時には言葉よりも別の場所から意識を発して相手を威圧する。一触即発の様相に私はもたれていたロッカーから身を浮かせる。すぐに高木が目線で動き出している三人を制した。「蓮君の呼称は統一しません。蓮君って呼ぶ彼女も、蓮って呼ぶ彼女も、れんれんって呼ぶ彼女もいるだろうし。重要なのはそれが彼であるかどうかですから」静かに、張りのある声で教室を鎮める。私はこの空気感が可笑しくて、口の中に笑いを溜めて堪えている。

「はいはいはい、蓮の好きな部位は?」

「唇」「指先」「首」「ふくらはぎ」「目元のほくろ」「背中の、まんなか辺りの痣」「耳の裏かな」

「誰だ今背中の痣って言った奴。なんでそんなの知ってんの」

「それくらい知ってますよ」

「唇はね、冬のカサカサした時のが好き」「ハンドクリームがラベンダーの香りなんですよ」「笑うと隠れてた血管が一気に浮き出す」「サッカー部だから足がしっかりしてる」「色素が薄いから茶色のほくろなの」「火傷みたいな、少し赤色に染まった痣」「耳の裏の肌が一番きめ細かいんです」

 学年関係なく矢継ぎ早に情報が飛び出していく。私の中で佐藤蓮君の造形が不定形に蠢き、幾何学的に廻りながら構築と解体を繰り返していく。私の心の中に居た沢山の男の子や男の人の顔と混ざりながら溶け合って、最終的に何もない。

「細かければいいってもんじゃないでしょ、皆」

「細かいに越したことはないんだよ」

「妹がいるでしょ、あと弟もいる。弟は蓮とよく似てる」

「でも蓮さんのほうがカッコいい」

「弟は可愛い系ですよね」

「そりゃ、弟君まだ中二だからね」

「家族構成は、妹、弟、お父さん、お母さん」

「あとセントバーナードとアロワナ」

「セントバーナードの名前は分かんないです。アロワナの名前はノリ君だって聞きました」

「妹ちゃんが名前つけたんだよねえ」

「インスタのさ、アイコンがノリ君の尻尾だよね。ren_ren.noriってアカウント」

「Xは見る専のやつしかなくて、whooはサッカー部の子としか交換してないの残念ですよね」

「大体学校と家とクラブチームの練習場と塾。これで生活動線が完結してるからwhooで位置情報見なくてもどこにいるか分からんでもない」

「そういえば、蓮さん最近右腕の内側に傷があったの知ってますか?」

「あー、サッカーゴール運んでる時に金具が飛び出してて切っちゃったんだよね。いつも半袖のユニフォーム捲ってるし、変な持ち方するんだから」

「かさぶたももう取れてきて、治りかけだからそんな心配する事でもない」

「それはそう」

「もうちょっと安全に配慮してほしいですよね。サッカーゴールって重いんだし。変な所怪我したら大変ですし」

「まあ、率先してそういう仕事やるタイプだし」

「部長だしね」

 詳細なエピソードが出てくる度に私の中の佐藤蓮君は揺れて崩れてしまう。中身は簡単に追加と消失ができそうな情報だけで、外骨格は薄く細いから、私はこれを現実の人間だと思えない。

 だんだんと生徒達が塊のように見えてくる。全員が同じ人間の事について語らい、地に足の付いていない情報ばかりが飛来して、発信源の彼女達までもが不定形で、いびつな存在の様になってゆく。塊はさらに思い思いに騒がしくなる。私は掌に飴を受けてまた放り込む。濃厚なミルクキャンディが口内を滑る。飴玉は完全な球ではなく、赤道部分に帯状の凹凸が付いていて、それが前歯の裏側の薄い部分にぶつかってささやかな痛みが走った。


(続きは、「文學界」2026年5月号でお楽しみください)