第130回文學界新人賞は、応募総数2404篇の中から5篇を最終候補とし、3月10日に青山七恵、阿部和重、金原ひとみ、中村文則、村田沙耶香の5選考委員による選考が行われ、浅田優真さんの「親切な殺人」、しじまむらさきさんの「さそり座の火星」が受賞作に決定しました。今回は、受賞作「親切な殺人」の冒頭を公開いたします。
◆プロフィール
浅田優真(あさだゆうま)
大阪府出身。
スポットライトが視界を真っ白に塗り潰す。光源と瞳が一直線に結ばれ、解くことができない。突っ張った首を無理やり振っても景色が単色に塗り替えられていく。タックルしてきた相手の身体を抱え込もうとしたら足をすくわれ、そのままマットに打ち付けられた。血と汗、涙と唾液が染み込んだマットに俺の体液も継ぎ足されていく。耳の中にギシギシとしなる音が這いつくばり始め、身体にめり込んでくるマットの感触が否が応でも準備を促してくる。俺の腹の上で馬乗りになった人間が、臓器を潰していくようにして前後に腰を擦り上げている。最適な着座位置を探しているのだろう、何度か繰り返すと俺にどっしり座り込んだ。マウントポジション。八年間もリングに上がっていると覚悟までの時間は短くなった。金網で囲まれた八角形のリングで、馬乗りになられた人間が逃れる手段は一つしかない。
瞬きを繰り返すと薄っすら相手の顔が降ってきた。後頭部から光が降り注ぎ、真っ白な画用紙の上にぽつんと顔が浮かび上がるようにして俺の意識を埋めていく。表情らしいものがなかった。これから起こることへの期待が感じられない。無機質な顔から逃れるように首を持ち上げ、身体を動かそうとすると、人間に乗られている自覚を強要された。こいつは、本当に俺と同じ六十五キロなんだろうか。試合前に感じた腰高い身軽な印象が懐かしい。相手の顔だけになった景色を消し去るためにまた瞬きを繰り返すと、眼前にモノクロのグローブが現れ、眼球を押し潰し、頭を突き抜け、目が飛び散るようにパウンドを打ち込まれた。その一発で目が覚めると、小さな点から逆流するように色彩が流れ込んでくる。見慣れたブルーのグローブが艷やかで美しかった。
手応えがあったのか打ち込んだ右手を見ながら笑みを浮かべていた。一発目の感触が伝わったのか、先ほどと違い、マウスピースを吐き出すぐらいに口角が上がっている。正しい表情だと思った。お前は今、上の人間だ。俺の視線に気が付いたのか、払拭するように左右のパウンドをまた打ち始め、鮮やかになった俺の視界を何度も揺らした。
観客の嬉々とした声援が、金網をすり抜けてリングの中に入り込んでくる。パウンドの強弱に合わせ声が波打つ。次第にそれを追い越し、声援が身体を動かし始める。一対一の誰も上がってこられないリングなのに、無数の観客に殴られている気がしてくる。プロデビューしたばかりの頃は、目の前にいる相手を殴る蹴る投げる絞めることを繰り返していただけで、観客のことなんか意識にのぼってこなかった。いつしか、対戦相手と同じか、それ以上に観客の反応が大きな基準になっていた。
それがプロになった証拠だろ、と穐山先輩は言った。アマチュアのレスリングとは違うプロの総合格闘技だから、観客が買ったチケットの売上から今日のファイトマネー五十万円も支払われている。だから俺は馬乗りで殴られなければならない。
左目の視界がゆっくりと塞がりだす。大抵の奴は、右手が利き腕で、いつも左の視界から蓋をされる。目から膨らむような熱が生まれ、それに眼球がついていくように剥がれていく気がする。咄嗟に相手の身体に抱きつき、熱を移し眼球を埋め戻した。上半身裸の男性同士が、金網で囲まれたリング上で抱き合っていると、声援に罵声が混ざり、俺のつまらない逃げ方を非難し始めた。汗で滑る首元に肘を入れてきて、俺を引き剥がし、マットに強く押さえつけた。
気持ち悪いんだよお前、という歪めた顔を浴びせてきたから、そうだよな、という顔を返した。それが気に入らなかったのか、背中を反り、身体を起こし、右手を大きく振り上げたからまた抱きついた。狭い空間で息を吸うたび、胸に張り付いた汗が、鼻から流れ込んでくる。水分に混ざった体臭が広がり、目を瞑ると黄色い脂肪の塊が浮かんだ。
「あと、三分っす!」
ダメージを負っていない耳に後輩の遊矢の声が入ってきた。一ラウンド五分中、まだ三分もあるのかと思うと、諦めが育ち始め、両手の力が自然に緩んでいった。
「うぜぇ」
頭上で低く籠もった声がした。閉じた空間が開きだす。両手で俺の肩を掴み、引き離すと身体をマットに叩き付けた。後頭部が遅れて続き視線が飛ぶ。そのままパウンドを繰り返し、殴られるたびに行き場のない衝撃が頭の中に溜っていった。揺らされて視界が歪んでいるのか、止めても歪むのか、もうよくわからなかった。ガチンとした音がして、鼻が折れたのか鼻血が止まらなくなってきた。口腔に温かい血が流れ込んでくる。呼吸のたびに、鼻も口もごぼごぼと音を立てる。マウスピースを早く吐き出したかった。
相手に背を向けたら首を絞めてくれるだろうかと思ったけど、こいつは打撃出身だし、レスリング出身の俺がキックボクシング出身の奴に絞め落とされる訳にはいかない。相手の胸が膨らむと肩で息を始めた。殴り続けるにも体力がいる。
「エスケープ! エスケープ!」
長年、聞いてきた穐山先輩の声がして、反射的に腰を跳ね上げ、ブリッジエスケープで相手の身体を浮かせる。腹の上の重みが抜け、前のめりになった相手の身体を精一杯押し上げた。腕に体重がのしかかってくる。力を込めると、マットを叩く音が両耳になだれ込んだ。俺の耳横で両手をつき馬乗りを維持した。上下は、やっぱり覆らない。俺は今、下の人間だった。もう少し早くわきまえておくべきだった。
報復するようにパウンドの回転を上げ始め、一発もらうたびに視界が閉じていく。完全に塞がる前に降参のタップをしようと思い立ち、伸びた手の先にあった相手の身体に二度触れた。
口腔の傷を粒が擦り上げた。舌でこそぐとしびれが走る。混ざりきらなかったプロテインが昨日生まれた傷に擦り込まれている。大きくむせこんで、蛇口に唇を寄せて冷やすと、黄色だった粒が赤色に染まって流れていった。
枕カバーがまたワントーン暗くなった気がする。そろそろ洗わないと試合のたびに血が足され、染みの色が素材の色を上回ってしまう。試合の翌日は、休暇を取るべきなのだろうけど、月曜日からのバイトは休むことができない。
シェーカーにダマが浮かんでいる。強く振ると頭も揺らされ目眩がした。沁みるか、揺れるか、どっちか選ばないといけないから揺れる方を選んだ。視界が半分埋まった左側にある鍵を手探りでピックアップし、アパートの鍵を閉めた。
穐山先輩の大きな黒の車を真似て買った小さな黒の軽自動車に乗り込み、バックミラーに顔を向け、左瞼の内出血した青痣をそっと撫でた。試合後に傷に触れると、いつもなんとかできなかったのかという思いと、仕方がなかったという思いが交差する。ハンドルに頭突きを打ち込むと、顔中の傷に響いて、視界を跳ね上げた先の後部座席に、後輩の遊矢が着ていたジャケットが丸めてあった。スマホでそれを写真に収めた。またすぐに会うけど、運転手をしてもらって送迎してくれたから、礼を兼ねて写真をLINEで送った。
(あっ! あった!)
(昨日、助かったわ。ありがとうな)
(いえいえ、眠り始めたときは、もう起きないかと思いましたよ!)
自分でも気が付かないうちに寝込んでいて、階段とベッドまでは歩いたらしかった。
(お前の運転は揺れないからよく眠れたわ)
(本業、運転手ですから!)
ジムに通い始めて一年ぐらいになる遊矢の仕事は訊いたことがなかった。あいつがタクシーの運転手なんかできそうにないし、多分、配達とかなんだろう。
(そうだったのか、どうりで。また、試合後に頼むかも)
(必要だったらいつでも言って下さい! あと昨日の試合、アップされてましたよ!)
(最近、はやいよな。また見とくわ)
LINEを閉じて、YouTubeのアプリを立ち上げ、自分の試合の映像は見ないでコメント欄を読んでいく。両手でスマホを握り締めると、汗でスマホが滑った。
タップするの早すぎでしょ。あまり盛り上がらなかったよな。レスリング出身の奴は抱き合うことしかできないのだろ。エスケープが下手過ぎる。つまらん。
右目を塞がった左目と同じ高さまで閉じた。身体が中心から火照ってくる。貧乏ゆすりを始め、エンジンをかけて何度か吹かせた。身体を張っていない奴らはいつも空疎で、好き勝手に言葉を使い込む。一言ごとに、カミソリの上で指を滑らせないといけなかったら大半の奴が書かないだろう。彼らは何も傷付かないし、何も懸けなければ、差し出しもしない。
シートベルトに手をやると肋骨の辺りから割れたような音がして、痛みが駆け巡った。マウントのせいか、エスケープのせいか、わからないけど折れていたら面倒だなと思った。
人間に馬乗りになられる決定的な立場の固定化を彼らはわかっていない。諦めること、受け入れること、委ねること、受け渡すこと。一度、下になった人間は、上になることはない。人間は本当に重い。乗られた時の圧迫感が蘇って腹を円を描くようにして摩った。
再生回数を確認すると、アップされてから一時間で百回ぐらいだった。メインのカードは一万回を超えていた。お前は華がないと言われる。アマチュアのレスリングをやっていた頃と違い、単に勝つことだけを考えればいいんじゃなくて、客を満足させないといけない。強いだけでは駄目で、華があって強くないといけない。でも、その華ってのが何なのか、いくら考えてもよくわからない。他の試合動画を見るといつもと同じような再生回数で、内容によって大きく変わっていなかった。身体を張った試合も指先で簡単に弾くことができた。
穐山先輩からスマホを手にする時間より、グローブを手にする時間を長くしろ、と言われたことがある。先輩みたいに肩書が揃っている人は競技を探求するだけでいいのかもしれないけど、俺みたいなのは周りをキョロキョロしないといけない。自分が固まっていないから、周りからかき集めて枠を作り固めないといけない。
ドライブに入れて、辺りを見回すと左の視界が随分と悪くて何度か目を擦った。駐車場の砂利を踏みしめる乾いた音が、薄いボディをすり抜け、車内に響いた。先輩の車は、音がどこかもっとしっとりとしている。突き上げてくるこの音を潰していくように、アクセルを踏み込んだ。
フロントガラスに、歩行者や自転車が飛び込み、瞬間的に映り込んでは消えていく。駅とは逆方向の山手に向かう人は少なく、みな反対側に向かっていて、追い越す相手がどこにもいなかった。川沿いの長い坂道を上っていくと、側にある中学校の桜が綺麗に整列して、同じ明度で花を咲かせていた。外から眺めていると学校は俺のバイト先に似ている感じはあったけど、こんな風に豊かに花は咲いていない。
森林の密度が高くなってきて、少し暗くなって、時間が逆戻りする。薄暗いうねった上り坂を走っていると、エンジンの唸る音が声のように聞こえ始め、車内に座り込んでくる。寂しげな道を施設まで一緒に走った。高い柵が見え、その中で真っ白な箱の建物から灰色のアーチの屋根が飛び出している。バイト先の施設が目に入ると傾斜も緩くなりだし、居座っていたエンジン音が車外へ出ていった。
人気の無いこの場所で、ウインカーなんか出すまでもないなと考えていると、銀色の対向車がスピードを上げながらこちらへ近付いてきた。施設の前で速度を落とし始めたので来訪者かと思うと、運転席の男が施設を指差し、助手席の女がスマホを構えた。咄嗟にアクセルを戻してブレーキを踏み、写り込まないよう極端に減速すると、シートベルトの下の肋骨がうずいた。
対向車もノロノロ運転で施設の前を鈍足で走っている。べったりと這うようにして施設と並走している。クラクションに手をやると銀色の車は速度を上げた。甲高いエンジン音を上げてくる車をすれ違いざまに見やると、色が違うだけの同じ車種だった。運転席の男は、顔を歪ませながら女に話しかけていて、女の方は、男がいないかのようにスマホに指を走らせていた。
錆びついた門の前で車を止め、後付けされたことがすぐにわかる綺麗なカードリーダーにIDを読み込ませると、解錠の音が年季の入った門に響いた。
ここより大変な施設で大きな事件があってから、この管理システムに変わったと言っていた。門に入るところから出入りを管理するようになったらしく、いちいち降車しないといけないのが面倒だと聞いていたけど、確かに手間がかかった。俺は週三だからまだいいけど、週五だと面倒だろう。解錠された門に体重をかけると、肩が歪んだ。
このバイトを始めてもうすぐ一年になる。以前やっていたバイトは、クラブのセキュリティの深夜営業で、日中の睡魔が練習に支障があって辞めて、紹介されたのがここだった。最初は、生活支援員なんてできるのかと思ったけど、資格はいらないって言われたし、自宅から車で行けて、時給も少しだけ良かった。
車を敷地内に入れ、また下車して門を閉めると、鉄製の車輪が重たげな音を響かせた。
見慣れた車列に、外車のセダンが並んでいて、今日が月曜日であることを確認した。利用者の鈴木さんのお母さんの車で、毎週月曜日は会いにくるのが習慣だった。綺麗に洗車され、パール色の車体が光っている。頻繁に来るあの人は例外中の例外よ、と職員の花井さんが言っていた。利用者の家族は、最初は頻繁に来ていても、次第に間隔が広くなっていき、最終的には来なくなる人もいるらしい。確かに他の利用者の家族たちはたまに来るだけで、鈴木さんのお母さんみたいに週一で来る人はいなかった。近寄って車の中を覗き込んだ。
ブラウンの革張りのシートの艶が、窓の外からでも質の高さを主張している。座り心地が良さそうだけど、軽自動車に革張りのシートを入れても仕方がないよな、と思っていると、後方でドアが閉まる音がした。
「おい、そこの車上荒らし」
声の方に顔をやると職員の花井さんが腰に手を当てこちらを凄んでいた。いつものワンピースのように大きくなったTシャツを今日も着ている。以前、そのおばちゃんTシャツはもう捨てたらどうですか、と言ったら追い回されたことがある。
「シートを見てただけですよ……」
視線がぐるぐるし始め、俺を舐め回した。破顔して腰に当てていた手を胸の前で組んだ。
「あんた……、昨日の試合、負けたんでしょ」
左瞼の腫れに目をやり、憐れんでいるのか笑いを堪えているのか、わからない顔をした。
「YouTube見てくれたんですか?」
「見ないわよ」
「じゃあ、なんでわかるんですか」
俺が早口でまくし立てるように指摘すると、
「顔見りゃわかるわよ」
と言って顔の前で手を払いながら、俺に背を向け、施設に足を向けた。
俺の負けをわかったのは、顔の傷からなのだろうか、それとも表情からなのだろうか。花井さんは、利用者の人たちの表情を読み取れる。俺にはよくわからない違いも彼女は言い当てる。ここの人たちは、俺たちと違っている。作りというより、使い方が違う。特に目が違っていて、見えないものが見えていたり、左右バラバラのものを見ていたり、目の前に人が立っていても相手を貫通させるように遠くを見たりする。負けを読み取った顔はどんな顔なんだろうかと思って、車の窓ガラスに映る自分の顔をしばらく見つめた。
花井さんの丸っこい背中を追うと、彼女は正面玄関の方には向かわず、通用口に回った。
俺はどうしようかなと思ったけど、鈴木さんの居室に寄って、お母さんに挨拶がてら革張りのシートのことでも訊いてみようと、正面玄関に続く灰色のアーチを潜った。
ワイヤーの入った分厚いガラス扉の先に、利用者がいるのが見えた。ソファの上で両膝を立てて座っている。扉のカードリーダーに、今日二度目のIDを読み込ませると、ガチャンという機械的な音が響き、中にいた利用者がこちらに顔をやった。扉のワイヤーがその顔に斜線を引く。顔はわからなかったけどあの人だと思う。
二階建ての施設の玄関は、吹き抜けになっていて、入るとすぐ正面に階段が備わっている。日差しがステンドグラスを通って玄関を照らしている。施設は外も内も白くて色彩に乏しいけど、正面玄関のステンドグラスだけが極端に濃い色彩を持っていた。ここを通るたび、こんなもの不要だっただろうと毎度思う。あの人と目があった。
彼女はよくそこに座っている。今日も、いつも着ている薄いピンクのトレーナーを着て、膝を掴んで一人で座っていた。朝の時間帯に階段下のソファで床に映るステンドグラスの彩りを見るのが日課のようだった。見るというより、追いかけている。首をリスのようにキビキビと動かし、赤、青、緑と追いかけている。色彩を認識しているのかわからないけど、飛び移るようにして顔を向けている。俺が足を踏み出すとズボンに色彩が移った。視線が飛び移ってくる前に、彩られた床を踏みつけ、鈴木さんの居室に向かった。
廊下に人の姿はなくて格子の付いた窓から光が差し込んでいた。その光が廊下に細長い道を五本ほど作っている。彩りはなく、包帯を干しているかのように並んでいた。
一階は、男性利用者の居室で、鈴木さんの居室は職員待機室のすぐ向かいにあった。アイボリーの引き戸が等間隔に並び、外からは全て同じにしか見えないけど、中は全く違っていて、一年も通っているとそれぞれの居室には個別のイメージがあった。
鈴木星哉。ネームプレートは随分と退色していて、キャラクターのシールは、ヤスリがかかったようで認識はできない。ここの入居年数は十年を超えていると言っていた。ノブに手をかけると、室内のお母さんが話しかけている声が響いて、俺の手に伝わった。
「おはよう、ございます」
俺はちょっと詰まった感じで挨拶をしながら開けると、また肋骨が痛んだ。
「あっ、龍介君、おはよう……」
鈴木さんのお母さんは、俺の名前を呼ぶと口元を抑え、目元に手をやった。
「昨日、試合だったんで」
「……、そう。大変ね」
鈴木さんのお母さんは、俺だけ下の名前で呼ぶ。多分、鈴木さんと俺が二十九歳の同い年なことが関係しているのだろうと思う。あと、顔は違うけど、背の高さとか大柄な体格とかも似ていないことはない。ただ、脂肪と筋肉の違いはある。
「星哉、龍介君よ」
お母さんが声をかけ、ベッドで横になって背を向けていた鈴木さんがごろんとこちらを向いたので「おはようございます、鈴木さん」と言うと、また背を向けた。
鈴木さんは、あまり言葉を発しない。声はあるけど、それに言葉が乗ることがない。ベッドサイドにいくつも並べてある戦隊モノのフィギュアを握ると宙でそれを合わせた。
この居室にあるベッドやソファといった家具は施設の物らしいけど、それ以外は利用者の人が持ち込んだもので、廊下が各家庭の子ども部屋に繋がっているように思うことがある。使い古された玩具や食べかけの菓子やジュースがあって、枕元に飾ってあるキーホルダーは修学旅行のおみやげだそうで、壁面に貼られているカレンダーはなぜか八年前のものだ。生活支援員と呼ばれるぐらいだから、他人の生活に立ち入らないと始まらない。
お母さんの側に寄って鈴木さんを覗き込むと、顔はやっぱり俺たちとは違っていた。
「じゃあ、また、昼食のときに」
車のシートのことを訊くことはやめ、職員待機室へ足を向けた。
職員待機室の入口には、利用者の人が描いた絵が貼ってある。緑色の画用紙に赤色のペンで描いていて、見辛いけど、施設長の顔を描いたのだと思う。絵と目を合わせないように戸を開け「おはようございます」と小さな声で言った。
「おはようございます、水島さん」
施設長がよく通る声で俺の名前を呼んだので、下を向いたまま会釈をした。
「負けたからっていつまで落ち込んでんのよ。顔を上げなさいよ!」
花井さんが、俺の頭頂部辺りに声を投げかけてくる。
「いや……、別に落ち込んでいないですよ」
顔を上げて応えると、中にいた四人の職員たちが、こちらに一斉に目をやった。
「勲章ですね」「いや、負傷でしょ」「故障じゃない」「むしろ、優勝だね」とリレーのように言葉を渡し合って、声を漏らしながら笑った。
カバンを投げるように机に置くと、机上のマウスが滑っていった。服を着替えに待機室を出ようとすると、施設長と花井さんが顔を曇らせていた。
この施設は、もうすぐ二十年になる。開設当初からいるのは施設長と花井さんだけで、あとの人たちは俺も含め勤続年数が短かった。資格があってすぐに移れるからなのかは知らないけど、みな短期間でいなくなると言っていた。でも、看護師の資格がある花井さんはずっとここにいるらしい。最初、施設長と夫婦なのかと思ったけど、そういう関係ではないようだった。
空調のない更衣室は蒸れていた。制服のポロシャツに着替えて、ロッカーを強く閉めると、施設長のロッカーにまで響いた。俺のロッカーのすぐ隣にあって、以前、間違えて開けたことがあった。そこにぶら下がっていたものは、その時は、本人が使うためのものだと思っていた。
(続きは、「文學界」2025年5月号でお楽しみください)