『帝都の鬼は桜を恋う』や『京都大正身代わり花嫁の浪漫菓子』など数々の人気作で知られる作家・卯月みかさんの期待の新シリーズが始まりました!

 大正初期の帝都を舞台に繰り広げられる大正浪漫ファンタジー。その序章&第1章を全文無料公開でお届けします。

イラスト・條


『祓魔の双花は恋で薫る』卯月みか・著

 〇序章 双花は月下に舞う

 赤い月が輝いている。宇津宮椿輝(うつのみやつばき)は、明治の世から大正に入って五年が経ち女性たちの意識も変わってきた昨今とはいえ、世間ではまだ珍しい断髪を揺らし、夜空を見上げた。

「今夜の月は気味が悪いね」

「あら、怖いの?」

 椿輝の隣を歩く詠園百合香(うたぞのゆりか)がこちらを向き「ふふ」と笑う。頰の横に落ちた髪を耳にかける仕草はいかにも侯爵令嬢らしく優美で、立場は同じでも溌剌とした印象の椿輝とは対照的だ。

 こんな時刻に霞ヶ関の官庁街を歩く二人の少女に気付いたら、親切な人はきっと「早く帰りなさい。近頃は物騒だから危ないよ」と忠告するに違いない。実際、先日もこのあたりで不審死を遂げた人物の死体が見つかっている。

 椿輝は百合香のからかいの言葉に「まさか」と答えた。腰に提げた日本刀の柄に触れて油断なく周囲を見回す。

「こんな月夜は、あいつらが現れそうって思っただけ」

「確かにそうですわね。血のような色が、あの方たちの本能を刺激しそう」

「まとわりつくような湿気も、嫌な気持ちになるね」

 日中に降っていた雨のせいだろうか。もうじき神無月に入るというのに、やけに蒸し暑い。

 椿輝は制服の襟の釦を外した。女学校に通う時は銘仙に袴をはいているが、今の二人は所属している帝都警視庁退魔本部の制服を身に纏っている。動きやすさには配慮されているとはいえ、襟が詰まった上着は首元が苦しく、椿輝はあまり好きではない。

「百合香は暑くないの?」

「秋ですもの。あなたほど暑がりではありませんわ。だらしない格好をしているところを隊長に見られたら、叱られますわよ」

「百合香のお兄さんは優しいから、釦一つ外したぐらいで叱らないよ。ね、文秋さんの結婚披露宴、いよいよだよね。文秋さんは、顔立ちも素敵だし、結婚式の衣装も似合いそう。挙式って神宮でするんだっけ?」

「ええ。お兄様も瑶子さんも、今、準備でてんてこ舞いですわ。お兄様は普段洋装ばかりですけれど、挙式は和装ですの。瑶子さんがお召しになるお衣装は、おばあさまが鷹司家にお嫁入りなさる時にお召しになったものだそうで――」

 実兄と婚約者の結婚について嬉しそうに話していた百合香が、途中で言葉を止めた。兄の結婚を喜ぶ少女の顔から、帝都警視庁退魔本部の退魔士としての顔になる。

 正面を見つめる百合香の視線を追い、椿輝もそちらに目を向ける。暗闇の中で人影が動いた。

(二人? 一人は男で、一人は女……?)

 男が女性を抱き寄せているように見えるが……。

 夜風の中に血の匂いを感じ取り、椿輝と百合香はさっと目を見交わすと、手にしていた龕灯を同時に人影に向けた。

「何をしている!」

 椿輝が声を上げると、光に照らし出された男がこちらを向いた。彼の肩に頭を預けていた女性の上半身がのけぞる。女性は意識を失っているようだ。はだけた襟元からのぞいた首筋に血が流れているのを見て取って、椿輝の視線が鋭くなった。

「吸血鬼だな!」

「そのようですわね」

 男を睨みつける椿輝の横で、百合香は龕灯をそっと地面に置いた。油断なく、腰に提げているホルスターに手を伸ばす。月の光で、百合香が所持する銃が光った。

「帝都に潜む吸血鬼たちの居場所を突き止めるため、基本的には生け捕り――それが退魔本部の方針ですけれど……」

「あいつを放っておくと、さらに被害者が出るかもしれない。捕縛の機会を狙いつつ、難しければ滅する」

 退魔本部――それは、帝都に潜む人の生き血を啜る吸血鬼を捕縛もしくは滅殺することを使命とした組織だ。帝都警視庁の管轄下にあるが、公にはされていない秘密組織である。

 吸血鬼を滅することのできる特別な武器を所持している者たちは退魔士と呼ばれ、吸血鬼絡みで異変が起これば駆けつけ問題解決にあたる。通常時、退魔本部の者たちは、吸血鬼の動きが活発になる夜間を中心に帝都内を巡回しており、警戒に努めている。

 そして今夜その当番を受け持っていた椿輝と百合香は、運がいいのか悪いのか、吸血鬼に遭遇したというわけだ。

 椿輝が龕灯を地面に放る。がらんと鳴った大きな音に男が驚いた隙に、日本刀を素早く引き抜き、駆け寄る。

 男は女性を離すと、人間とは思えない跳躍力で後方に飛んだ。追おうとした椿輝だが、地面にくずおれた女性の体に躓いた。女性が呻いたので跪いて様子を見ると、首元に獣に嚙まれたような傷痕がある。

「野蛮な化け物め!」

 椿輝は憎々しげに逃げた男を睨んだ。女性の体に触れて体温を確かめる。

(まだ温かい)

 致死量まで血を吸われたわけではなさそうだ。

「吸血鬼を追わねば」という気持ちと、「彼女を早く助けないと」という気持ちのはざまで迷う椿輝の頭上に影が落ちた。

 ハッとして顔を上げると、いつの間に戻ってきたのか、先ほどの男が椿輝に向かって牙を剥いていた。

 咄嗟に鍔を嚙ませる。

「……っ!」

 椿輝を吸血しようと前のめりになる相手の体重が刀に乗り、椿輝は地面についた膝に力を入れた。

 その時、百合香が叫んだ。

「椿輝! 頭を下げて!」

 椿輝は渾身の力で男を押し退け、被害者の女性を庇いながら上半身を伏せた。

 一瞬後、乾いた銃声が夜闇に響き渡る。

「ううっ」という呻き声が聞こえ、椿輝が顔を上げると、吸血鬼の男は胸を押さえ、体をくの字に折っていた。

「俺は死なない。死ぬはずがない。あの方に不死の体をいただいたのだから……!」

 男は前のめりに倒れながらもそう叫んだが、彼の体は次第に崩れていき、ついに全てが灰に変じ、風に吹かれて霧散した。その場に残されたのは、男が身に着けていた衣服だけ。

 男の心臓を撃ち抜いた百合香が、安心したように息をつき、ホルスターに拳銃をしまった。

 椿輝は腕の中の女性に視線を戻した。

「あなた、しっかりして」

 彼女は二十代半ばほどの歳に見えた。少し離れた場所に籠が落ちていて、季節の花が散らばっている。花売りの女性なのだろうか。

「椿輝、彼女の具合はいかが?」

 百合香が駆け寄ってきて、椿輝と同じように地面に膝をつく。痛ましげな表情で、女性を見つめた。

「体も温かいし、吸血されてから、そんなに時間は経っていないと思う。吸血鬼化の兆候もない」

 椿輝は女性の瞼を開けて瞳の色を確認すると、百合香に彼女の体を預けた。腰に提げていた小型鞄から注射器とアンプルを取り出す。手際よく、中に入っていた解毒薬を吸い上げると、女性の腕に針を刺した。

「大丈夫かしら」

 解毒薬を打たれても目を覚まさない女性を見て心配する百合香に、椿輝は力強く答えた。

「きっと大丈夫! 彼女の生命力を信じよう。とりあえず、この人を警視庁別館内の退魔本部に連れていこう。医師に診せないと」

 椿輝は百合香に手伝ってもらいながら、ぐったりとしている女性を背に担いだ。気を失っている女性の全体重が、椿輝の両肩にのしかかってくる。相手が小柄なので背負えてはいるが、やはり重い。足がふらつきそうになったが、椿輝は気合いで踏ん張った。

「行こう、百合香」

「ええ」

 百合香が、地面に置いていた龕灯と椿輝が放り投げた龕灯を手に取る。片方の蠟燭はまだ灯っていた。足下を照らしながら、二人は本部に向かって歩き始めた。

 

 〇第一章 紅血の夜会

「『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす』――」

 四谷にある桜花女学院の教室で、壇上の教師が朗々と古典を読み上げている。先日赴任してきた男性教師――塚崎柊哉(つかざきしゅうや)の声を聞きながら、教室の一番端で一番前という、あまり嬉しくない席に座る椿輝はあくびを嚙み殺していた。

 女学生たちから、柊哉の低い声は色っぽくてドキドキすると評判だが、昨夜遅くまで巡回に出ていた椿輝には子守歌にしか聞こえない。

 今にも瞼が落ちそうになっていると、ふいに背中をつつかれた。ハッと目を覚まし、「何?」と振り返ろうとした椿輝に、後ろの席の山口伊久が、

「そのまま、後ろに手をお出しになって」

 と囁く。言われたとおりにすると、手の中に何かを押し込まれた。

「これが回ってきましたの。皆様、椿輝さんに期待をかけていますのよ」

「期待とは?」と思いながら腕をもとに戻し、手を開けてみると、椿輝が握らされていたのは、小さく折りたたんだ紙だった。誰かが手紙を回してきたのだろう。

 椿輝は柊哉に見つからないよう気を付けながら手紙を開いた。

 中に書かれていたのは、他愛ない――椿輝にとってはなんの興味もない提案。

『椿輝さんへ 授業が終わったら、塚崎先生にお声をかけて、わたくしたちと昼食をご一緒してくださらないか、聞いてみてくださいませ』

 女性教師の多い桜花女学院の中で、若い男性である柊哉は目立つ。しかも、目鼻立ちの整った男ぶりのいい容姿をしているので、赴任以来、彼は、女学生たちの熱視線を浴びていた。

 桜花女学院に通っている女学生たちは、ほとんどが上流階級層の令嬢だ。男性に免疫がなく、異性に話しかけることすら恥じらう彼女たちの中で、侯爵令嬢らしからぬ、活発でざっくばらんな性格の椿輝は異色の存在だった。椿輝だったら柊哉を誘えるだろうという級友たちの期待に、どうしたものかと迷う。

 椿輝には、級友たちが柊哉に夢中な気持ちがよくわからない。

(どこがいいんだろう?)

 思わず柊哉の顔を見上げると、教科書を読み上げていた声が止まった。椿輝の視線に気付いたのか、柊哉がこちらを向いたので、慌てて目を逸らす。

 さりげなく手紙を机の下に隠そうとしたが、椿輝のもとまで歩み寄ってきた柊哉に、取り上げられてしまった。

「あっ」

 焦る椿輝を一瞥した後、柊哉は手紙を開き、文面に視線を走らせた。形の良い唇の端が僅かに上がる。

 教室中を見回し、柊哉は女学生たちに微笑みかけた。

「俺を昼食に誘ってくれるのは嬉しいが、君たちに親しく接すると、担任の前原女史に睨まれるんでな。悪い。……とはいえ、気にかけてくれた礼は言っておこうか。麗しき我が生徒諸君」

 皆が一斉に吐息を漏らした。椿輝だけが、胡散臭い笑顔と気障な台詞に「うげ」と顔をしかめる。

 柊哉は手紙を上着のポケットにしまうと、あらためて椿輝に目を向けた。

「それから、宇津宮。いい夢は見られたか?」

 柊哉の問いかけに、椿輝の心臓が跳ねる。どうやら柊哉は、椿輝が船を漕いでいたことに気付いていたようだ。

「眠気覚ましに廊下に立っていなさい」

「……はい、わかりました」

 椿輝は素直に返事をして立ち上がり、教室を出た。

 戸を閉める。授業を再開した柊哉の声を、背中で聞きながら、

「不条理だ……」

 とつぶやく。

 椿輝は学生であると同時に、帝都警視庁退魔本部に所属する退魔士である。日中は学校に通い、夜間は交代制で帝都内の巡回に出ているため、当番の翌日は昼間に眠たくなるのはいかんともしがたい。吸血鬼を滅した次の日ぐらい、学校を休んで家で寝ていたい。

 吸血鬼はもともと東欧に存在する化け物だったが、明治六年頃に、海を越えて日本に入ってきたといわれている。

 その頃帝都で、連夜、血を失った変死体が見つかるという事件が起こった。人々はまだ吸血鬼という存在を知らず、未知の現象を恐れるだけだったが、同時期に東欧から渡ってきたルシアというシスターが保護されてから、状況が変わった。

 シスター・ルシアは政府に、永遠の命を持ち、人の生き血を啜る、吸血鬼という化け物の存在を教えた。彼らが日本に渡ってきたのは、この国を吸血鬼の安住の地にするためなのだと――。

 そして、日本政府に味方をすると申し出た彼女もまた、吸血鬼の一人だった。

 政府は吸血鬼たちに敵対しているというシスター・ルシアを信じ、翌年、帝都警視庁を設置するのと同時に、秘密裏に退魔本部を組織した。吸血鬼に対抗するための人材として、この国の頂点に御座す皇や政府に対して忠誠心の強い者、文武に長けた者など、六家の当主が選任された。小栗家、霧生家、越前家、相楽家、詠園家、宇津宮家の退魔六家の誕生である。彼らは第一から第六部隊までの隊を組織し、吸血鬼の捕縛・滅殺の職務に就いた。

 椿輝と百合香は現在、詠園家が長を務める第五部隊に所属している。第五部隊の隊長は、百合香の兄・文秋だ。本来なら、宇津宮家唯一の退魔士である椿輝は第六部隊を指揮する立場にあるのだが、若輩のため、現在は文秋のもとで研鑽を積んでいる。

 二人が退魔本部に入った当初は「小娘のくせに」と陰口を叩く者もいたが、三年目の今となっては、彼女たちに文句を言う者は誰もいない。椿輝と百合香が努力と実績で黙らせてきたからだ。

 退魔本部設立時から退魔士として活躍していた椿輝の祖父・宇津宮武煕には、跡継ぎになる男子はおらず、子は娘の志津名のみだった。孫も志津名の生んだ椿輝だけ。そのため、武煕が歳を取り、機敏に動けなくなっても、宇津宮家に貸与された『退魔の武器』と第六部隊を継ぐ者がいなかった。

 残念がる祖父に、椿輝は申し出た。

「お祖父様、私が退魔士になり、ゆくゆくは第六部隊を率います」

 昔から活発な質だった椿輝を可愛がっていた武煕は、孫娘に賭けてみようと考え、剣術を叩き込んだ。

 二年前に武煕が亡くなり、椿輝が宇津宮家の退魔士を継いだのは、百合香が退魔士となったのと、ほぼ同時期だった。

 望んで進んだ道なので、学生と退魔士の二足のわらじを履いていることに不満はないが、学業がおろそかになりがちなのは、自分でも反省するところだ。

(塚崎先生は「眠気覚まし」って言っていたけど、立ちながら寝そう……)

 ゆらゆらと体が揺れる。意識が飛びかけた時、教室の戸が開く音がした。慌てて姿勢を直立に戻す。

 授業が終わり、廊下に出てきた柊哉が、椿輝に声をかけた。

「宇津宮、もういいぞ。今度から居眠りはしないように」

 注意しながらも、口元が笑みの形を作っているのが悔しい。

(この先生、絶対に面白がってる)

「はい。すみません」

 椿輝は、あえて真顔で一礼すると教室に入った。

(塚崎先生って摑みどころがなくて、なんとなく苦手なんだよね……)

 彼の飄々とした雰囲気や、何を考えているのかわからないところが、苦手と感じる所以なのかもしれない。

(まあいいや)

 これから昼休みだ。一学年上の百合香が「お昼をご一緒しましょう」と誘いにくるだろう。

 出しっぱなしの教科書をしまわねばと、自分の机に戻ろうとした椿輝だが、駆け寄ってきた級友たちに取り囲まれてしまった。

「椿輝さん、廊下で塚崎先生と何をお話しになったの?」

「お声をかけていただけるなんて羨ましいわぁ」

 両手を組んでキラキラした瞳を向けてくる級友たちに、椿輝は肩を竦めてみせる。

「羨ましいも何も、私、廊下に立たされてたんだけど……。今度から居眠りはしないようにって注意されただけだよ」

「私も、あのお声で直々に注意されたい……。椿輝さん、塚崎先生と親しくなって、独り占めしないでくださいませね」

 頰を膨らませて念押ししてくる伊久を見て「重症だな」と溜め息が漏れる。

(無理もないか。桜花女学院は女の園だし、箱入り娘の令嬢たちは男性に免疫がない。卒業を待たずに結婚する子も多いし、恋に憧れられるのなんて、今だけだしね)

 恋に恋する級友たちは微笑ましいが、柊哉を独り占めする気など全くない。むしろ興味がない。それだけは言っておかねばと、椿輝が口を開きかけた時、落ち着いた声が聞こえた。

「違いますことよ、皆様」

 皆が振り返る。声をかけたのは、椅子に座ったままの時任沙奈江だった。

 沙奈江は体が弱く、学校を休みがちだ。そのため、組に馴染めておらず、教室でもあまり口を開かない。椿輝も、彼女と話をしたのは数えるほどしかない。

 そんな沙奈江が、今、皆の会話に入ってきていることを意外に思っていると、彼女は椿輝を見つめ、口元に微笑を浮かべた。

「『紅の姫君』宇津宮椿輝様には、『白の姫君』詠園百合香様がいらっしゃるではありませんか」

 沙奈江の言葉に、級友たちがハッとする。「そうでしたわね」とお互いの顔を見て、頷き合った。

「椿輝さんには、エスのご関係であられる百合香様がいらしたわ」

「上級生の百合香様とは、幼少期から契りを交わされているのですもの。男の方に懸想などなさいませんわよね」

「昨日も仲睦まじく、ご一緒にお弁当を食べていらしたわ」

 級友の一人がそう言うと、皆「キャア」と黄色い声を上げた。

「………」

 椿輝はうんざりとした気持ちで額を押さえた。

 この学園で、椿輝は『紅の姫君』、百合香は『白の姫君』と呼ばれている。

 日頃一緒にいることの多い二人はエスの関係――互いを恋い慕う「おねえさま」と「いもうと」――だと噂されているのだ。

(確かに、私と百合香は姉妹のように育って、友情よりも深い絆で結ばれてはいるけれど、それは共に戦う相棒って意味で……)

 恋愛的な意味合いはないのだと内心で否定する椿輝だが、吸血鬼の存在を民間人にはできるだけ秘しておきたいという上層部の意向により、二人が退魔士として働いていることは公言できない。この場は、曖昧に笑って誤魔化すしかない。

「椿輝」

 涼やかな声に名を呼ばれて振り向くと、今まさに噂になっていた百合香が、教室を覗いていた。

「お昼にしましょう。今日はお天気がいいから、いつもの空き教室ではなくて、校庭でいただきませんこと?」

「うん、今行く」

 椿輝は弁当箱を取ってくると、級友が温かい目で自分たちを見守っているのを居心地悪く感じながら、教室を後にした。 

 校舎から外に出て、校庭の長椅子に腰かける。昨夜の蒸し暑さはどこへいったのか、今日は爽やかな秋晴れで気持ちが良い。

 二人は持っていた風呂敷包みを膝に載せると、結び目をほどいた。自分の弁当を開けた後、百合香の弁当を見て、椿輝は感心した。

「百合香のお弁当は、いつも彩りが綺麗だよね」

「料理人が工夫をしながら作ってくれていますの」

 詠園邸で働いている料理人は洋行帰りで腕がいいと評判だ。西洋料理も洋菓子も上手に作る。百合香の家を訪れると美味しいお菓子を出してもらえるので、椿輝は密かに楽しみにしていた。

 詠園邸は瀟洒な洋館で、生活も西洋風だ。自宅での百合香は着物よりも洋服を着ていることが多い。根は活発な彼女だが、使用人たちからは主家のお嬢様として大切に扱われているため、自宅では身の回りの用事は使用人に任せ、おとなしく過ごしているらしい。

 一方、宇津宮邸は、多少改装されているものの、武家屋敷の様式を残している。質実剛健を旨とした家風で、椿輝も贅沢はせず、祖父の武煕から「自分のことは自分でできるようになりなさい」と言われて育った。それに加え、剣術の腕も良いので、椿輝は全くもって侯爵令嬢らしくない。父の泰造はそれが気に入らず、なんとかして退魔士を辞めさせて、椿輝に婿を取りたいと考えているようだ。

 幼少期に母の志津名を亡くした椿輝を育ててくれたのは、乳母の松与だった。彼女が手ずから作ってくれる弁当は、地味な見た目ながら、愛情がたっぷり詰まっている。

 好物の卵焼きを味わっていると、百合香が話しかけてきた。

「昨夜、吸血鬼に襲われた女性ですけれど、無事に目を覚まされたそうですわ。対処が早かったので、麻痺毒も解毒できたみたいですの」

「本当? よかった」

 椿輝はほっと胸をなで下ろした。

 吸血鬼は吸血時、相手の体に麻痺毒を注入する。彼らの毒牙にかかった者は、麻痺毒の影響で抗えなくなり、死ぬまで血を吸われてしまう。運よく命が助かったとしても、麻痺毒が体に広がっていると、そのまま死んでしまう場合もある。

 万が一、自分が襲われた際に対処できるよう、退魔士たちは解毒薬と、吸血鬼捕縛用の麻酔薬を携帯している。

「睦月さんが知らせてくれたの?」

「ええ。お弁当を届けてくれるついでに」

 百合香の専属運転手であり、お世話係でもある池端睦月は百合香より五つ年上の二十二歳。百合香を毎日学校まで送り、昼には弁当を届け、下校時に迎えにくる。穏やかで物腰の柔らかい青年だが、睦月も退魔本部に所属しており、百合香の指示で諜報活動を行ったり、本部との連絡係を務めたりしている。

 お喋りをしながら弁当を食べ終えると、二人は校舎に戻った。

 それぞれの教室へ向かうため、階段の下で「じゃあね」「ごきげんよう」と手を振り、別れた。

(ちょっとゆっくりしすぎたかも)

 外が気持ちよくて、つい長居をしてしまった。早く教室に帰らないと、午後の授業が始まってしまう。

 歩く速度を速めた時、通りかかった教室の中から呻き声と物音が聞こえた。

(あれ? ここは空き教室のはずだけど……)

 戸が薄く開いていたので気になって中を覗くと、椿輝たちの組の担任で外国語教師の前原利枝が、女学生を抱きしめている様子が見えた。

(えっ、前原先生?)

 柊哉が言っていたとおり、前原は、男性教師の柊哉と女学生たちの接触を良く思っていない。そんな堅物な彼女なのに、まさか生徒に手を出していたのだろうかと一瞬驚いた椿輝だが、ふわりと漂ってきた血の匂いを嗅ぎ取り、表情を強ばらせた。

(もしかして……!)

 椿輝はがらりと戸を開けた。

「前原先生、何をなさっているんですか?」

 椿輝の声に、前原が振り向いた。彼女の瞳が赤くなっているのを見て取って、椿輝の視線が鋭くなる。

(吸血鬼になった人間は、吸血衝動を起こすと瞳が赤く染まる)

 前原が生徒から手を離す。生徒が物のようにその場に倒れた。血色のない白い顔を見て、椿輝は唇を嚙んだ。

「前原先生、どうして」

 前原の唇に付いている血は、倒れた生徒のものなのだろう。朝礼の時、前原は普段どおりの様子だった。いつ吸血鬼化したというのか。

(午前中? それとも昼休み? 吸血鬼が学内に入ってきているというの?)

 吸血鬼たちは、基本的に人間を食料だと認識しているが、時折、仲間に引き入れることがある。

 その方法は、吸血鬼の生態に詳しいシスター・ルシアから退魔本部へ伝えられている。

 吸血鬼は人間を仲間にする時、相手の血を吸い瀕死の状態にした後、自分の血液を相手の体の中に入れる。そうすると、人間も吸血鬼たちと同じ不死の体を得られるのだという。ただし、中には吸血鬼の血がうまく適合しない者もいて、不幸にもそうであった場合は理性をなくし、血を吸うだけの化け物に堕ちてしまう。

 前原は――彼女が望んだことなのか、それとも無理やりだったのかはわからないが――吸血鬼から血を分け与えられたものの、自我を失ってしまったのだろう。

 獣のような低いうなり声を上げている前原を見て、痛ましい気持ちになる。教壇で流暢に英語を読み上げていた時の理知的な面影はなく、椿輝を見つめる瞳には血への渇望しか浮かんでいない。

(捕縛したいところだけど、相手は錯乱状態。ここは学内だし、万が一、取り逃がしたら、犠牲者が増えてしまう)

 椿輝は袴の下に隠し持っていたナイフの存在を確認した。いつ何時、吸血鬼に遭遇しても対処できるよう、腿に装着したホルスターに入れて持ち歩いている、もう一つの『退魔の武器』だ。巡回時に携えている日本刀や、解毒薬と麻酔薬は、携帯が難しいため学校には持ってきていない。

(ごめんなさい、先生……!)

 椿輝はナイフを手に取ると、前原のもとへ走り、素早く彼女の足を払った。

 すかさず、倒れた前原を床に押さえつけようとしたものの、前原はバネのような動きで起き上がり、椿輝に摑みかかった。大きく開けた彼女の口の中に、異様に鋭い犬歯が見える。

 前原に嚙みつかれまいと、椿輝は咄嗟に彼女の手首を取った。持っていたナイフが落ちる。前原は細い体に似合わぬ怪力で押し返してくる。吸血鬼となった人間は、身体能力が上がるのだ。

(このままでは吸血されてしまう。だけど……!)

 防御のため、両手が塞がっている。これではナイフを拾えない。

 生暖かい吐息が首筋にかかる。あわや首元に嚙みつかれそうになった時、

「頭を動かすなよ、宇津宮」

 と言う声が聞こえ、耳元を何かが掠めた。

 椿輝の髪を数本散らし、前原の額に突き刺さったのは、投擲に適した細身のナイフだ。

 前原は椿輝から手を離すと、自分の額に刺さったナイフを抜いて床に放った。ナイフで付いた傷がみるみる治っていく。視線が椿輝から、新たに教室に入ってきた人物へと向いた。

「変わり果てた姿になっちまったもんだな、前原女史」

 聞き覚えのある低い声。振り返った椿輝は息を呑んだ。

「塚崎先生……?」

 柊哉が、視線は前原に向けたまま、椿輝に声をかけた。

「午後の授業はとっくに始まってるぞ。早く行け」

 柊哉が椿輝に、今の状況に不似合いな言葉を投げてくる。

「何をやっているんですか、塚崎先生!」

 わけがわからず椿輝は叫んだが、柊哉は前原から目を離さない。

 前原が柊哉のそばへ跳躍した。首筋に嚙みつこうとしたが、それよりも早く、柊哉が彼女の心臓に懐刀を突き立てた。

「ギャッ」と悲鳴を上げた前原の胸から、血が滴り落ちる。

 一歩、二歩と、後退した前原の足が、つま先から灰へと変わっていく。立てなくなり、倒れた前原の体は、あっという間に灰となり、床の上に白く積もった。

 柊哉がぼそりとつぶやく。

「悪いな、前原女史」

(どういうこと……?)

 シャツの裾で懐刀に付いた血を拭っている柊哉を、椿輝は呆然と見つめた。

 不死の吸血鬼を滅する方法は、特別な力を持つ『退魔の武器』で心臓を貫くこと。

『退魔の武器』を作るためには、シスター・ルシアの血が必要だ。

 ルシアは突然変異の吸血鬼で、彼女以外の吸血鬼にとって毒となる血を持っている。『退魔の武器』はルシアの血と清められた銀を合わせて作られているため、大量生産はできない。

 全ての武器は警視庁退魔本部が管理しており、貸与という形で退魔士たちに預けられている。退魔士は皆、誰がどの武器を使用しているのか把握していた。

(あんな懐刀、知らない)

 椿輝は柊哉が持つ懐刀を見つめた。

 懐刀は一般的には飾り気のないものだが、柊哉が持つものは、柄に菖蒲色の組み紐が巻かれている。特徴的なので、知っていたら忘れないはずだ。

 懐刀を鞘に戻し、柊哉は椿輝のそばへ歩み寄ってくると、前原の額を刺したナイフを拾い上げた。ナイフでは前原に打撃を与えられなかったところを見ると、こちらは対吸血鬼用の武器ではなく、普通の刃物のようだ。

「あなた、何者?」

(退魔士ではないはず)

 退魔本部の名簿に、塚崎柊哉の名はない。

 怪しみのまなざしを向ける椿輝に、柊哉は肩を竦めてみせる。

「ただの国語教師だ」

「ただの国語教師は吸血鬼の存在なんて知らないし、滅することもできない」

 柊哉は警戒する椿輝に歩み寄ると、いきなり顎を摑み、上向かせた。

「何をするの!」

 抗議の声を上げ、柊哉の腕を払いのけた椿輝を見て、柊哉はほっとした表情を浮かべた。

「嚙み痕はない。大丈夫そうだな」

(私が吸血鬼に嚙まれていないか、心配してくれたってこと?)

 椿輝は自分の首筋を撫でた。危機一髪のところで彼が椿輝を助けてくれたのは事実だ。

「……ありがとうございます」

 椿輝が無事だとわかり、前原の犠牲となった女学生のそばに跪いた柊哉に、ぼそっとお礼を言う。

 柊哉が振り向き、椿輝を見上げる。西洋の騎士のように、恭しく胸に片手を当てた。

「『紅の姫君』からのお言葉、恐悦至極に存じます」

(なんでその呼び名を知ってるの。あんたにまで、そう呼ばれたくない!)

 椿輝は、目を弓なりに細めている柊哉を睨みつけた。

 からかいの表情を浮かべていた柊哉は、表情を教師のものへと変えると、

「宇津宮。教室へ行け。授業が始まっている」

 と命じた。

「授業なんていい。それよりも、早くその子を本部に預けないと。前原先生のことも報告しないといけない」

「急いだところで意味はない。この娘はもう死んでいる」

 柊哉の落ち着いた声音の中に、前原の犠牲になった生徒を悼む響きを感じ、椿輝も胸が苦しくなった。

(助けられなくてごめん。私がもっと早く前原先生のことに気付いていれば……)

「彼女が死んだのは、君のせいじゃない」

 生徒の体に上着をかぶせ、立ち上がると、柊哉は淡々とした口調で椿輝に声をかけた。

「この娘の亡骸は俺に預けろ。前原のことも、本部に伝えておく」

「あなた、本部と関係が――」

「あるの?」と言いかけた椿輝に、柊哉が本音の見えない笑みを向ける。

「俺のことは詮索するな」

 鳶色の瞳がまっすぐに椿輝を見つめている。

 彼は何も話す気がないのだと察し、椿輝は再び柊哉を睨んだ。

 しばらくの間、二人は黙ったまま向かい合っていたが、先に口を開いたのは椿輝だった。

「その子のこと、よろしくお願いします。先生」

 歩き出した椿輝の足下で、前原の残した着物から灰が舞う。

 扉の前で振り返り、お辞儀をする。教師である柊哉に最低限の礼を示し、椿輝は教室を後にした。

   

「百合香、どう思う? 塚崎先生について」

 今日の柊哉と前原の一件を話し終えると、椿輝は百合香に意見を求めた。

 赤い天鵞絨が貼られた座席に座る百合香が、顎に指を添え考え込む。

 普段は徒歩で下校している椿輝だが、今日は「話がある」と言って、百合香を迎えに来た睦月の車に同乗させてもらった。

「塚崎先生が、退魔本部の記録にない『退魔の武器』を持っていて、吸血鬼を滅したですって? わたくしは知らなかったけれど、塚崎先生は退魔士なのかしら。睦月は彼のことを知っている?」

「いいえ。塚崎柊哉という退魔士は、私は存じ上げません」

 運転席から、睦月が答える。

「本部に所属していない退魔士っているのかな」

 椿輝の疑問に、百合香が軽く首を傾ける。

「退魔士の役目を担っているのは、退魔六家の者と、六家の退魔士が認めた者のみ。仮に塚崎先生がどこかの家に仕えている退魔士だったとしても、警視庁退魔本部の所属となるわ。『退魔の武器』を所持しているのなら、名簿にも記載があるはず」

「だよね……」

 だとしたら、『退魔の武器』で吸血鬼を滅してみせた柊哉は何者なのだろうか。本部のことも知っているようだったので、全くの無関係というわけでもなさそうだ。

「念のため、私のほうから本部に確認しておきます」

 睦月の言葉に、百合香が頷いた。

「そうしてちょうだい」

 柊哉の話が落ち着くと、椿輝は話題を変えた。

「文秋さんの結婚披露宴、明後日だね」

「ええ。今からとても楽しみですわ」

「私もだよ!」

 椿輝は百合香に笑いかけた。

 今週の日曜日。百合香の兄で、退魔本部第五部隊隊長である詠園文秋の結婚披露の夜会が開かれることになっている。会場は、文秋の婚約者、鷹司侯爵家の令嬢・瑶子の父、鷹司周が所有する迎賓館となっていた。

「文秋さんと瑶子さんが結婚かぁ」

 文秋と瑶子は、二人が少年少女の頃から婚約関係にあった。互いの両親が決めた婚約だったが、二人の関係は良好で、穏やかに愛情を育んできた。

 同じ退魔士の家の者として、顔を合わせる機会が多かった椿輝と百合香は、歳の近さもあり、すぐに仲良くなった。詠園家にもよく遊びに行っていて、椿輝にとって、九歳年上の文秋は兄のような存在だ。

 優しい瑶子のことも、椿輝は好いている。椿輝と百合香にとって、瑶子は良き相談相手であり、姉のような女性だった。

「そろそろ宇津宮邸に着きますわ、椿輝」

 百合香が、感慨に浸っていた椿輝に声をかけた。

 立派な武家屋敷門の前で、睦月が車を停める。睦月はすかさず運転席から降り、後部座席の扉を開けた。

「どうぞ、椿輝様」

 差し出された睦月の手を取り、車を降りる。

「ありがとう、睦月さん」

 椿輝のお礼に対し、睦月は「いえ」と微笑んだ。

「それから……その……百合香との大切な時間を奪ってしまってごめんなさい」

 口に出していいものか少し迷ったが、椿輝は睦月に謝罪した。

 髪色は薄く、琥珀色の瞳をした睦月は日本人とは少し雰囲気の違う容姿をしている。整った顔に一瞬驚きの表情を浮かべた睦月だが、申し訳なさそうにしている椿輝を見て柔らかく微笑んだ。

「お気遣い、痛み入ります」

 睦月は胸に片手を当てると、椿輝に向かって丁寧にお辞儀をした。

「では、失礼致します」

 睦月が運転席に戻ると、百合香が車内から手を振った。椿輝が手を振り返すのを待って、車はゆっくりと発進した。

 小さくなっていく車を見送りながら、椿輝の口からぽつりとつぶやきがこぼれる。

「秘密の恋か……」

 百合香と睦月が恋仲であることを知っているのは、椿輝だけだ。

 主家のお嬢様と従者という身分的な壁だけでも二人の恋は困難だというのに、二人の関係にはそれよりも深刻な問題がある。

 ――それは、睦月が吸血鬼と人間の間に生まれた存在、半吸血鬼だからだ。詠園家はそれを知りつつも、睦月を雇い入れている。

 半吸血鬼である睦月は夜目と鼻が利き、聴力や身体能力も人より高い。その一方で、いつ吸血鬼としての本能が目覚め、人を襲うかわからない危険性も孕んでいる。詠園家は睦月をそばに置くことで、彼の能力を利用しながら監視しているのだ。

 今のところ、睦月が吸血鬼化する気配はない。このまま彼が理性を保ち続け、人として生きていけたなら、百合香との婚姻を望む時が来るかもしれない。けれど、退魔士の一族である詠園家は吸血鬼の血を引く者を身内に入れはしないだろう。

「百合香、あなた、退魔士なんだよ。半吸血鬼と恋に落ちてどうするの……」

 椿輝は、恋人たちが乗る車が見えなくなると、軽く溜め息をついて、武家屋敷門の脇戸をくぐった。

       §

 鷹司家の迎賓館に、続々と政府関係者や華族たちの車が入ってくる。

 主を降ろした運転手たちは指定の位置に車を停めに行き、その後は用意された控え室で宴が終わるのを待つことになる。

 宇津宮家の車から降りた椿輝は、思わず「わぁ!」と声を上げた。立派な洋館の玄関を入っていく招待客の中には、朝倉正道内務大臣や、遊佐誠外務大臣の姿もある。さすが二大侯爵家の結婚披露宴。招待客も豪華だ。

 文秋は退魔本部に所属している退魔士であると同時に、朝倉内務大臣の秘書官としても働いている。瑶子の父・周は外務省政務局の局長なので、遊佐外務大臣が出席しているのは、周の上司という縁からだろう。

「椿輝、今夜はおとなしくしておくんだぞ」

 玄関前の階段を上がりながら、父の宇津宮泰造が厳しい声音で椿輝に注意した。

「親友のお兄さんの結婚披露宴で暴れないです、お父様」

 泰造は退魔士ではない。泰造の実家は男爵家だが、次男のため、宇津宮家の婿として家を出された。婿入りしてから海運の会社を興し、業績も好調だ。退魔士の一族に入ったものの、退魔という仕事に対して理解はなく、椿輝が退魔士として働いていることもよく思っていない。

「女は結婚して子供を産み、家を守るもの。退魔士などという利を生まない仕事に価値はなく、時流に乗って儲け、家を栄えさせることこそが、これからの時代を生き抜く道」――それが泰造の思想だった。

 一方、武煕は「人の上に立つ者は質素かつ謙虚であれ。退魔六家の一家として選ばれたことに誇りを持ち、この国の頂である皇を支え、その民を守ることが宇津宮家の役割である」と考えていた。

「椿輝。誇り高く生きなさい。主君のため、人のために尽くし、弱いものには手を差し伸べなさい」

 椿輝は、武煕にそう言い聞かせられて育った。吸血鬼から人々を守るために、我が身を犠牲にすることも厭わない祖父を尊敬していた。

 父に、退魔士としての誇りや仕事を否定されると反発心が湧くのだが、娘を心配する親心なのだろうとも思っている。

 椿輝はドレスの上から、太腿に装着しているナイフに触れた。念のために持って来たが、今夜は出番がないだろう。

(結婚披露宴には、私たちの上司の小栗巌本部長や、霧生隊長もいらしているはず)

 退魔本部の頂点に立っているのは、本部長、兼、第一部隊隊長の小栗巌だ。おそらく、第二部隊隊長の霧生恭一や、他の部隊長も来ているだろう。万が一、吸血鬼絡みで何か起こったとしても、彼らが瞬殺するに違いない。

(心強い)

 館内に入ると、英国様式の装飾が美しい玄関ホールを囲うように、大食堂、舞踏室、婦人客室、談話室、撞球室があった。婦人客室や談話室で会話を楽しんでいる客もいたが、ほとんどの者は舞踏室に集まっているようだ。

 泰造と共に舞踏室に足を踏み入れた椿輝は、周囲を見回した。室内楽団が明るい楽曲を奏でていたが、主役二人が現れていないので、踊っている者はいない。招待客は、其処此処に集まり、知人と談笑している。

 椿輝の予想どおり、舞踏室には小栗巌と霧生恭一の姿があった。相手は政府の者だろうか、髭を生やした紳士と会話を交わしている。

 恭一が椿輝の姿に気付き、こちらを見た。慌ててお辞儀をする。厳格な性格そのままの風貌をした恭一と目が合うと、椿輝はいつも緊張する。

 しばらく泰造の隣でおとなしくしていた椿輝だが、舞踏室の隅に目を向け「あれ?」とつぶやいた。

 桜色のドレスで着飾った級友の時任沙奈江が、見目麗しい男性と話をしていた。時折笑顔をのぞかせているので、親しい間柄のようだ。

「沙奈江さんも来ていたんだ。詠園家と鷹司家、どちらの招待なのかな」

 同じ女学校だが学年が違うので、百合香絡みではない気がする。おそらく隣の男性に詠園家か鷹司家との繫がりがあるのだろう。

(あの人のパートナーとして来たのだったら、相手は婚約者?)

 気になって見ていたら、沙奈江がこちらを向いた。目が合ったので知らぬふりをするのもどうかと思い、椿輝は「お父様、学友がいるので挨拶をしてきます」と言って、泰造のそばから離れた。

 沙奈江のもとへ歩み寄り、「こんばんは」と声をかける。

「こんばんは、椿輝様」

 沙奈江がドレスをつまみ、膝を曲げて優雅にお辞儀をした。

「ここで会うとは思わなかった。奇遇だね」

 椿輝がそう言うと、沙奈江は隣に立つ男性に目を向けた。

 年の頃は三十といったところだろうか。整った美しい顔立ちは、どことなく沙奈江と似ている。

「お兄様が鷹司様にご招待を受けたのです。お兄様、椿輝様も桜花女学院に通っていらっしゃって、私と同じ組なのです」

 沙奈江に椿輝を紹介され、男性は椿輝に向き直ると、胸に片手を当てて名乗った。

「沙奈江の兄で時任桜雅と申します。外務省に勤めております」

(婚約者ではなくお兄さんだったのか。外務省にお勤めということは、鷹司侯爵の部下という立場なのかな)

 心の中で考えながら、椿輝も軽く屈んでお辞儀をした。

「宇津宮椿輝です」

「椿輝様と詠園百合香様は幼なじみでいらっしゃるの」

 沙奈江が補足すると、桜雅は「そうだったのですね」と微笑んだ。

「それで今夜はこちらにいらっしゃるのですね。沙奈江は学校ではどのような様子ですか? 体が弱いので休みがちですが、皆に馴染めていますか?」

 心配そうに桜雅が椿輝に尋ねる。妹思いの兄なのだろう。

 沙奈江は兄の横で俯いている。彼女が、組で浮いていることを兄に話していないのだと察し、椿輝は明るい声で「大丈夫ですよ」と答えた。

「私、沙奈江さんに、とても親しくしていただいています」

「そうですか」

 桜雅はほっとしたように微笑んだ。

「これからも、妹と仲良くしてやっていただけますか」

「はい、もちろん」

 椿輝は沙奈江に向き直った。沙奈江は椿輝の言葉に驚いたのか、目を丸くしている。

「沙奈江さん、また学校で話をしよう」

 戸惑っている沙奈江に、椿輝は笑いかけた。

 今まで彼女と親しく接してはこなかったが、これからは積極的に話しかけて、級友たちの輪に入れるように取り計らおう。桜雅の隣で俯いた彼女は、とても寂しそうな顔をしていたから……。

 椿輝の微笑みを見た沙奈江の頰が、ほんのりと赤くなる。

「はい、ぜひ」

「よかったら百合香にも挨拶する? あれっ、沙奈江さん、ドレスの胸元に何か付いてる」

 百合香を探そうとした椿輝だが、それよりも先に沙奈江の胸元にぽつりと黒い染みができているのを見付けて指を差した。自分の胸元を見た沙奈江の表情が曇る。

「まあ、いつの間に……せっかく今日のために誂えていただいたドレスなのに」

「布で拭いたら取れないかな? すみません、そこの――」

 何か拭くものを持って来てもらおうと、飲み物を運んでいた給仕の男性に声をかけようとした椿輝だが、桜雅に「おかまいなく」と止められた。

「布なら、私のチーフがあります。沙奈江、あちらで拭いてあげよう」

 桜雅が沙奈江の背に手を添え、椿輝に会釈をする。沙奈江は名残惜しそうに椿輝を見たが、椿輝が「また学校で」と言うと、兄に促されて舞踏室の外へと出ていった。

 二人を見送った後、泰造のもとへ戻ろうと姿を探すと、初老の男性と話しているのを見付けた。

(あの人、確か津田谷侯爵だったっけ)

 もともとは武煕の知り合いだったはずだ。椿輝も何度か顔を合わせたことがある。

 津田谷に挨拶をしようと歩み寄ろうとした椿輝だが、二人の会話が聞こえてきて足を止めた。

「しばらくお会いしていませんが、椿輝さんはおいくつになられたのですか?」

「十六になります。器量は悪くないのですが、とにかくお転婆でして」

「はは。お元気なのはよいことです。十六というと、そろそろ縁談もお考えになる時期ですね」

「いいご縁があればありがたいのですがね」

「先代の宇津宮侯爵にはお世話になりました。そのお孫さんです。宇津宮殿がお嫌でなければ、私がお節介を致しましょうか?」

「なんと、津田谷殿にお力添えいただけるなら、心強い!」

 椿輝にとって全く嬉しくない内容の話を聞いて、回れ右をする。

(縁談なんてお断り)

 父と津田谷に見つからないようできるだけ距離を取ろうと歩いていると、

「椿輝」

 と声をかけられた。振り向くと、華やかな吉祥文様の振り袖を身に纏った百合香が立っていた。

「どうしたんですの。難しい顔をして」

 百合香が自分の眉間を指さして問いかける。椿輝は無意識に皺を寄せていたことに気付き、眉間を指で広げた後、

「なんでもない」

 と答えた。

「百合香。今日はおめでとう」

「ありがとう。椿輝が来てくれて、お兄様も喜びますわ」

 百合香が満面の笑みを浮かべる。

「あとで、お兄様と瑶子さんに声をかけて差し上げて」

「もちろん。お祝いを伝えたい」

「二人の挨拶が終わったら、隣の大食堂でお食事がふるまわれますの。椿輝もたくさん食べていってくださいな。料理人が腕によりをかけましたのよ」

「それは楽しみ!」

 百合香と話していると、楽団の演奏する音楽が変わった。

 舞踏室の入り口から、本日の主役たちが入ってくる。

 文秋は凜々しいタキシード姿で、瑶子は清楚な白のドレス姿だ。存在感を放つ二人が現れ、思い思いに喋っていた招待客たちが静かになった。磨き上げられた床に、文秋の持つ杖の音が鳴る。彼は左足が不自由なのだ。

 かつて文秋は、吸血鬼退治の最前線に立っていた。吸血鬼との戦いの最中、左足を負傷し、思うような動きができなくなってからは、後方に退がり、現場で戦う隊員たちを指揮する立場となった。

 百合香が退魔士となったのは、文秋が十分に戦えなくなったためでもある。

 文秋と瑶子は、招待客の視線を集めながら舞踏室の中ほどまで来ると一礼した。

「皆様。本日は私たちの結婚披露の宴にお越しくださり、誠にありがとうございます」

 文秋がよく通る声で礼を述べる。一斉に拍手が起こり、「おめでとう」の声も上がった。

 皆の祝福の拍手が収まるのを待って、文秋が挨拶を続けた。

「今日、この日を迎えられましたのは、ひとえに、皆様のお引き立てによるところでございます。瑶子という素晴らしい伴侶を得て、公私ともに、さらに精進して参る所存です。今後とも、夫婦共々、何卒よろしくお願い申し上げます」

 文秋がもう一度深くお辞儀をすると、再び大きな拍手の音が鳴った。

 温かな祝福に包まれ、文秋と瑶子は顔を見合わせて、微笑みを浮かべた。

「瑶子さん、すごく綺麗」

 幸せそうな瑶子を見て、椿輝は感嘆の溜め息をついた。

 瑶子の瞳は潤んで輝き、白い頰はほんのりと染まっている。

 挨拶の後、招待客一人一人にお礼を言って回る間、瑶子はさりげなく、文秋の歩行の補助をしていた。

「椿輝、百合香」

 談笑していた二人のもとに、文秋と瑶子が歩み寄ってきた。

「文秋さん、瑶子さん。本日はおめでとうございます」

 椿輝が祝いの言葉を述べると、文秋は「ありがとう」と微笑んだ。

「ありがとう、椿輝さん」

 瑶子も花が咲いたように笑う。

「妹のように思っている椿輝さんにお祝いしてもらえて嬉しいわ」

「私も、お姉様が結婚したような気持ちです」

 瑶子から「妹のように思っている」と言われて、椿輝の胸の中が温かくなる。

「わたくしとは本当の姉妹になりますわね」

 百合香の言葉を聞いた文秋が、瑶子に向かって面白そうに目を細めた。

「君の妹たちは、大層お転婆だよ。大丈夫かい?」

「あら、私もお転婆よ。文秋さんはご存じだと思っていたわ」

「そういえばそうだった。初めて鷹司邸で君と会った時、君は木の上にいたのだったね」

 文秋が思い出し笑いをする。

「どういうことですか?」

 その話は初耳だったので、椿輝が興味津々で尋ねると、瑶子は頰を赤らめた。

「文秋さんとの初顔合わせの日、私、お父様が勝手に決めた方となんて結婚したくないと思って、お庭に逃げて木に登って隠れていたの。そうしたら、文秋さんが捜しに来て、私を見付けてくださって……。私を見上げて『僕の許嫁は天使だったのですね』っておっしゃって微笑まれたお顔が素敵で、見惚れていたら枝から足を滑らせてしまったのよ」

「頭上から落ちてきた君を抱き留めたはいいが、勢いに負けて尻餅をついてしまったのは格好悪かったな」

 苦笑いをした文秋に、瑶子が必死に「そんなことなかったわ」と否定する。

「あの時に、私、あなたに一目惚れしたんだもの」

 二人の出会いの経緯が甘く可愛らしくて、椿輝と百合香は微笑んだ。

 四人でわいわいと喋っていると、「文秋君!」と招待客が呼ぶ声が聞こえた。文秋が「それじゃ」と言って椿輝と百合香に手を振り、瑶子を伴って離れていく。

「相変わらず、仲がいいね」

「わたくしはお兄様と瑶子さんのやり取りを聞いていると、チョコレイトを食べているような気持ちになりますの」

「わかる」

 やや呆れ気味の百合香の言い様に、椿輝は声を出して笑った。

「そろそろ宴が始まりますわ。食堂に移動しましょうか」

「そうだね」

 百合香と連れだって舞踏室を出ようとした椿輝は、何気なく、テラスへ続く窓辺に目を向けた。

「……あれっ? 塚崎先生?」

 柊哉によく似た背格好の男性を見付け、首を傾げる。柊哉らしき人影は、窓の向こうへと姿を消した。

「椿輝?」

 足を止めた椿輝に気付き、百合香が振り返った。椿輝は早口で「先に行っておいて」と言うと、舞踏室を横切り、テラスに向かった。

「どうしたの?」

 椿輝を追おうとした百合香だが、招待客の一人に話しかけられ、無視もできずに立ち止まる。

「こんばんは、百合香さん」

 百合香を呼び止めたのは、若い男性だった。

「ごきげんよう、上野様」

 百合香に興味がある様子の上野家の次男に、百合香が愛想良く挨拶をする。その声を背中で聞きながら、椿輝はカーテンをくぐり外へ出た。

 テラスに立つ椿輝のもとへ、甘い香りが風に乗って流れてくる。鷹司家迎賓館の英国式庭園は、薔薇が美しいことで有名だ。暗くてよく見えないが、今の時期、秋薔薇が開花している木もあるのだろう。

 周囲を見回してみたが、柊哉らしき男性の姿はない。気のせいかとも思ったが、なぜだか胸騒ぎがして、椿輝は庭へと続く数段の階段を下りた。

(少しだけ庭を回ってみよう)

 花壇の間を歩き出す。

 人々の賑やかな話し声が満ちていた舞踏室とは対照的に、庭園内はしんと静まり返っている。

「誰もいない。勘違いだったのかな」

 侯爵家の結婚披露宴に、一介の教師が招待されるはずもないだろう。百合香からも、柊哉を招いているという話は聞いていない。

(この間、あんな出来事があったからかな)

 椿輝は、柊哉が吸血鬼となった前原を滅した時のことを思い返した。

 絶対にいない場所で姿を見た気がしたなんて、自分はよほど柊哉の素性が気になっているようだ。

「あの人、本当に何者なんだろう……わっ!」

 柊哉について考えていたら、何かに足を引っかけて転びそうになった。持ち前の運動神経の良さで体勢を立て直し、自分が躓いたものがなんなのか確認しようと足下を見てぎょっとする。

 花壇の中にドレス姿の女性が倒れている。

「どうされたんですか? ご気分でも悪いのですか?」

 慌てて跪き、女性を助け起こした椿輝は息を呑んだ。

 目を見開いたまま、女性は事切れていた。喉元には二つの傷痕。吸血鬼に嚙まれてついたものに違いない。

 椿輝は女性の瞼を閉じさせると、険しい顔で立ち上がった。

(吸血鬼が敷地内に入り込んでいる?)

 まだこのあたりに潜んでいるのだろうか。それとも、邸内にいるのだろうか。

 油断なく周囲を見回していると、土を踏む足音が聞こえた。

 腿に装着しているナイフを、いつでも取り出せるようにドレスをたくし上げながら、音の方向に目を向けた椿輝は、薔薇のアーチをくぐってきた相手を見て「あっ」と声を上げた。

「塚崎先生!」

 柊哉は椿輝の姿に唖然としている。

「宇津宮。なんて格好をしてるんだ」

 視線のやり場に困るというように、柊哉が目を泳がせる。椿輝は慌ててドレスの裾を直し、見えていた足を隠した。 

「なぜ、ここにいらっしゃるんですか? 塚崎先生」

 怪訝なまなざしで尋ねると、柊哉は言う理由もないというように口を噤んだが、

「教師が不法侵入ですか」

 と、詰め寄ると、観念したように両手を挙げた。

「前原女史の件も含め、昨今、吸血鬼事件が増えている。今夜の夜会には、調査のために潜り込んだ」

「調査? なんであなたがそんなことを?」

「それよりも、それは死体か? 吸血鬼の仕業だな?」

 椿輝の足下の女性に目を向け、柊哉が低い声で尋ねる。その声音に僅かに怒りが滲んでいるのを感じ、椿輝は再度問おうとした。

「あなた、本当に何者――」

 柊哉が「シッ」と言って、自分の唇に指を当てた。静かにするようにと指示をされ、言葉を呑み込む。柊哉が耳を澄ませている様子だったので、椿輝も同様にすると、こちらに近付いてくる足音と、ぼそぼそと話す男性の声が聞こえてきた。

「……では、内務省のほうでは……」

「……ええ、徐々に……」

(塚崎先生の姿を見られるとまずいかもしれない)

 ここには吸血鬼に殺された女性の死体も転がっているのだ。夜会に招待されていない柊哉がいると、話がややこしくなる。

 椿輝は柊哉の腕を摑むと、薔薇のアーチの陰に引っ張り込んだ。

「遊佐外務大臣のほうはまだ……」

「もう少し様子を見たいと……」

 誰が来たのだろうと、椿輝はアーチの陰からそっと覗いた。

 こちらに向かって歩いてくるのは、二人の青年だ。二人とも、歳の頃は二十代半ばといったところだろうか。一人はすらりと背が高く、優しげな面立ちをした青年で、一人は鼻の横に大きな黒子があるのが印象的な青年だった。

(あれ? あの人って……)

 背の高い青年の顔を見て目を瞬かせる。文秋の帝都大学時代の友人・綾部春臣だ。以前、文秋が友人を集めて開いた食事会に招待された時に顔を合わせたことがある。

(文秋さんは内務大臣の秘書官だけど、綾部様は確か外務大臣の秘書官をされていたような)

 帝都大学時代、二人は上位の成績を競い合っていたのだと、食事会に出席していた文秋の他の友人が話していた。その話題が出た時、二人が顔を見合わせ、謙遜の微苦笑を浮かべていたのが印象に残っている。きっと学生時代から、良き好敵手であり親しい友人だったのだろう。

「……あれは?」

 黒子の青年と会話を交わしていた春臣が、女性の遺体を見付けて足を止めた。黒子の青年も倒れている彼女に気付き、怪訝な顔をする。

 春臣が足早に女性のそばへ歩み寄った。落ち着いた様子で女性の体を抱え起こす。事切れている女性の体がのけぞり、露わになった首筋を見て、春臣は眉を寄せた。

「息がない。死んでいるようです。……ここに嚙み痕がありますね」

「嚙み痕? まさか、吸血鬼……」

 そう言いかけた黒子の青年は、禁句を口にしたとでもいうように途中で言葉を呑み込んだ。

(綾部様もあの方も、吸血鬼の存在を知っているみたいだ)

 椿輝は内心でつぶやく。

 民衆には吸血鬼の存在は隠されているが、政府内では公然の秘密となっている。信じがたいことだが、政府関係者の中には永遠の命に憧れ、吸血鬼になりたいと望む者までいるという。美化されたイメージがなぜ広まったのか理解に苦しむが、そんな状況であれば、省庁で働いている二人が吸血鬼の存在を知っていてもおかしくはない。

 死体を前にしても春臣が動揺していないのは、もしかすると、親しい友である文秋から、退魔本部について聞いているのかもしれない。

「人を呼んできます」

「待ってください、私も行きます」

 死体のそばに一人取り残されるのはごめんだとばかりに、歩き出した春臣の後に黒子の青年が続く。

 二人の姿が見えなくなると、椿輝は早口で柊哉に勧めた。

「今のうちに、ここから出て」

「君はどうする」

「館内に戻って、小栗本部長の指示を仰ぐ」

 分別のある春臣のことだ。むやみに騒がず、まずは招待主である文秋に、内々に報告するはずだ。吸血鬼の仕業であるとわかれば、文秋は小栗や上席の恭一に判断を求めるに違いない。椿輝たちにもなんらかの指示が出るだろう。

「霧生家が率いる第二部隊の退魔士たちと連携することになるかもしれない……」

 ぶつぶつと椿輝がひとりごちていると、柊哉が小さな声で「霧生?」と口にした。

「来ているのか」

「霧生隊長のことを知っているの? あなた、やっぱり退魔本部と関係が?」

 柊哉は質問には答えず、椿輝の腕を摑んだ。

 突然、腕を取られて驚き、椿輝は柊哉の手を振り払おうとしたが、彼は椿輝を離さずに、そのまま歩き出した。 

「ちょ、ちょっと、どこへ行くつもり?」

「館まで送る」

「え?」

「吸血鬼がまだそのあたりにいるかもしれない。一人で行動するのは危ない」

「私は吸血鬼を滅することを使命とした退魔士。一人でも大丈夫。だから離して」

 椿輝がきっぱりと言うと、柊哉は真面目な口調で返した。

「あいつらは、どこに潜んでいるかわからない。油断していたら、後ろから嚙みつかれるぞ。俺のそばにいろ」

 椿輝を見つめる柊哉の眼光は鋭い。

 彼に「君は弱い」と決めつけられたような気がして、椿輝は柊哉を睨んだ。

 七つの頃から武煕に師事し、剣術を習ってきた。退魔士となってからも、「女は退魔士に向いていない」「力の上で不利だ」と言われないよう、技術を磨いてきた。実際に実績も積んでいる。

(前原先生の時は不覚を取ったけど、いつもそういうわけじゃない)

 反抗的な椿輝の様子に、柊哉が軽く溜め息をつく。

「俺は君の先生だ。言うことを聞け。今はおとなしく俺に守られていろ」

「それはいささか横暴な言い様だと思います。教師ならば、生徒の力を信じるべきでは?」

 強いまなざしで言い返すと、柊哉は目を見開いた後、諦めたように小さく嘆息し、椿輝の腕を離した。

「――降参だ」

 胸の前で軽く両手を上げ、苦笑いを浮かべる。

「悪い。宇津宮を侮ったわけじゃない」

 謝罪した後、柊哉はすぐに真面目な表情に戻り、これだけは譲らないとばかりに続けた。

「だが、君がなんと言おうと、テラスまでは付き添わせてくれ」

(意地になってる?)

 最初は、椿輝が突っぱねたので引くに引けないのかと思ったが、柊哉の真剣な様子を見て、彼が心から椿輝を心配しているのだと気が付いた。

(過保護? ……それとも、何か理由が?)

 問うような椿輝のまなざしから柊哉が顔を背ける。歩き出した彼の後に、椿輝はおとなしく付いて行った。

(相変わらず、話す気はないみたい)

 柊哉は秘密だらけだ。

 迎賓館のテラスの下に着くと、柊哉は明かりの灯る館を見上げ、つぶやいた。

「ここまで来ればとりあえずは大丈夫か。館の中は人も多いしな。吸血鬼も、そんな場所で人を襲いはしないだろう……」

 そう言いながらも、まだ周囲を見回し警戒している。けれど、いつまでもそうしているわけにもいかないと思ったのか、椿輝を振り向き言い聞かせた。

「招待客に吸血鬼が紛れ込んでいる可能性もある。一人で人気のないところに行くな。絶対に」

 彼の強い口調に気圧されながらも、椿輝は頷いた。ようやく、柊哉がほっとした顔になる。

「じゃあな」

 踵を返した柊哉の背に、椿輝は問いかけた。

「あなたはこの後どうするの?」

「人に見つからないうちに、ここから去る」

 やはり彼は今夜の招待客ではなかったのだ。

(塚崎先生は、吸血鬼事件について調べていると言っていた。この夜会に、なんらかの手がかりがあるということ?)

 柊哉の言っていたとおり、最近、帝都のあちこちで、吸血鬼に失血死させられたとおぼしき死体が見つかっている。被害者の数は年々増加傾向にあったが、今夏からは特に増えている。

 椿輝が考え込んでいると、柊哉はひらりと手を振った。暗闇の中に消えていく。

 柊哉の後ろ姿を見送っていた椿輝は、テラスから呼びかけられて振り返った。

「椿輝! どこに行っていましたの?」

「百合香」

「早くこちらにいらして。大変なことになりましたの」

 周囲を気にするそぶりを見せながら、百合香が急かす。彼女の耳にも、庭で見つかった死体の話が届いたのだろう。

 椿輝は階段に歩み寄り、テラスに上った。

「宇津宮、百合香」

 威厳のある声が聞こえ、そちらに目を向けると、霧生恭一が文秋と共に立っていた。

「第二部隊の退魔士は既に動かした。君たちも文秋の指示に従い招待客の警護にあたれ。犯人らしき吸血鬼を見付けたら確保せよ。抵抗された場合のみ、滅することを許可する」

 招待客を警護しつつ、吸血鬼を探し出せという恭一の命令に、椿輝は「承知しました」と敬礼した。

 舞踏室からは楽団の奏でる軽やかな音楽が漏れ聞こえている。華やかな夜会の裏で起こった惨劇に、招待客たちはまだ気付いていない。

「行きますわよ、椿輝」

「うん」

 椿輝は、百合香と文秋と共に、舞踏室へと足を踏み入れた。

[第一章・了]