まだ30代でスウェーデンを代表するミステリ作家となったクリストフェル・カールソン。犯罪学研究者でもある彼は、どんな思いで小説を書いているのだろう?

日本デビュー作『暗殺の冬』でミステリ・ファンに衝撃をもたらした若き天才に迫るインタビュー、第2弾。

クリストフェル・カールソン
©Thron Ullberg

──あなたは犯罪学者でもありますね。犯罪学への関心と犯罪小説を書く動機とは、何らかの形で関連しているのでしょうか?

クリストフェル・カールソン(以下CC) この二つにはかなりの重なりがあるように思います。私にとっては、両者の原点に「人間の『生』を時間と共に形成するものは何か?」という根本的な問いがあります。犯罪学における私の研究の核心にはその問いがありました。同じ問いを小説の中でも違うかたちで問うている──と、長いあいだ考えていたんですが、今は、それでは十分ではないように感じています。小説をなぜ書くのか。何が私にそうさせるのか。そこにはもっと深遠で神秘的なものがあるように思えてきたんです。でも犯罪学はそういうものではありません。私にとって犯罪学は、純粋に技術(クラフト)であると思うようになりました。

──作家デビューは23歳だったそうですね。

CC ええと、どうでしたっけね……そう、確かに23か24歳のときでした。ちょうど犯罪学の博士課程の学生になった頃でした。

──学者と作家という二つのキャリアをどのようにバランスを取ってきたのでしょうか?

CC 両立は決して簡単ではありませんでしたよ。犯罪学の研究をしている日は、もっと執筆していたいと感じ、その逆もありました。しかし、当然のことながら、両方は二つの半球のように、互いに多くのものを与え合っています。

すべての作家の任務とは

──『暗殺の冬』は父子二代の刑事を主人公としたストレートな警察小説として書くこともできました。しかし、あなたは自分の分身のような人物を語り手としてフィーチャーしましたね。なぜこの構造を選んだのですか?

CC ミステリという形式を探求することに関心があったんです。実のところ私たちは、犯罪についていかにして語ることができるか、という問題です。ある意味、作家という存在は、小説の「真実らしさ」を不安定にする存在です。なぜなら、「実際はどうだったのか」を作家は正確には知り得ないからです。だから、いろいろなものを自分でつなぎあわせて、うまく空白にはまるようにしなければならない。想像し、創作しなければならないんです。これは私たち全員が常に行っていることですね、なぜなら私たちが実際に何が起こったのか知ることはほとんどありません。だから、知っていることに基づいて、何が起こったのかを想像するわけです。この小説の語り手は、スヴェンについてあまり多くを知りません。しかし、スヴェンについて書くことで、語り手は、彼についての新たな真実に近づけたかもしれない。感情的な真実、とでもいうべきものに。フィクションは、ある種の真実を探求するのに必要な手段になるんです。

──ある日本の読者がSNSで、「この小説を書くには3回人生を繰り返さないといけない」と書いていました。あなたが3回人生を送ったとは思いませんが、ならばどんな秘訣があるんでしょう?

CC 温かい言葉をありがとうございます。その質問に答えるのに私がふさわしいのかどうかわかりませんが、物語が私のもとに下りてきたとき、それを好むと好まざるにかかわらず、どんな理由があろうがなかろうが、とにかくそれを書いてみる。というのが私のやっていることです。すべての作家の任務を果たしているわけです。たとえ気が乗らなくても毎日物語に向かい、それが醜悪なものであったとしても(いや醜悪なものであったときはなおさら)その物語の複雑な全容を追究してゆく。そしてつねにこれが自分にとって最後の執筆であるつもりで書く。中途半端は許されません。自分の登場人物が帰るべきところに帰るまで、きちんと追いかけなくてはならないのです。

『暗殺の冬』(文春文庫)


ABBAと北欧ミステリ

──90年代が「スウェーデン・ミステリの黄金時代」だったとおっしゃっていましたが、この時期にスウェーデンのミステリは発展したということでしょうか。

CC 現代のスウェーデン・ミステリは、1965年から1975年、シューヴァル&ヴァールーの作品群によって誕生しました。その松明をレイフ・G・W・ぺーション(1978年デビュー)が受け継ぎ、その後しばらく静かな時期が続きました(もちろん、多くの作家がミステリを書き続けていましたが)。しかし、ヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダー警部シリーズ第1作『殺人者の顔』(91)の登場で、スウェーデンのミステリ・ブームは勢いを増したのです。それから続々と、ホーカン・ネッセルが93年にスウェーデン推理作家アカデミー新人賞を受賞し、オーケ・エドヴァルソンが95年に、リサ・マークルンドが98年にデビュー)を果たしました。90年代半ばまでに、彼らの本は書店を埋めつくしたのです。スティーグ・ラーソン、カミラ・レックバリ、ラーシュ・ケプレルといった現在のベストセラー作家は、こうした波の結実だったわけです。同時に彼らが、ミステリというジャンルを圧倒的に盛り上げ、進化させもしたのです。

──私はスウェーデンやノルウェーの音楽もよく聴くんですが、スウェーデンのミュージシャンは「伝統」と「尖端」のバランスをとるのが巧みだという印象があります。このバランス感覚が、ミステリのようなジャンル性の強い小説を生み出すのに役立っているのではと思うのですが、どうでしょう。

CC それは面白い意見ですね。かもしれません。特にスウェーデンには、ポピュラーな形式を真剣に受け止める文化的傾向があります。その明らかな例がABBAです。彼らの音楽は純然たるポップスではありますが、非常にテクニカルで、メロディは洗練され、楽曲の構造を深く意識していました。同じことが、時代をくだるとマックス・マーティンのような音楽プロデューサーの仕事にも見られます。彼は現代のポップ・ミュージックの本質を体系化して、時代を超越したものとして聴かせました。

 一方、ヘニング・マンケル、ジョー・ネスボ、スティーグ・ラーソンといった北欧の作家たちが行なったことは、暴力というものを道徳の観点から測ること、警察というレンズを通して社会を見ること、といったことに代表されるミステリの決まり事を、真剣に受け止めることでした。その上で、福祉国家の抱える不安や、同調を強いる社会に隠された抑圧と闇、この風土それ自体といったものを、対立の中心軸として採り上げたのです。また、私の見るところでは、ルーテル派が美とする価値観の文化には、無駄や過剰への不信感のようなものがあるように思います。造りが精巧な必需品を好む傾向と言い換えてもいいでしょう。スカンジナビアの文化従事者を形式の明晰化に向かわせる原動力はそれかもしれません。結果として作品は、現代的でありながら時代を超越したものになるのだと言えそうです。

──「ジャンルの形式を真剣に捉える」というのは興味深い指摘で、日本と通じます。ただし、日本のミステリでは「謎の論理的解決」「反リアリズムの美学」が伝統的に重視される一方、スウェーデン・ミステリの伝統はより社会的なものであるように見えます。

CC 確かに、さきほどの私の答えからは、社会的な次元が中心的なものとして浮かび上がってきますね。これについては異論もある一方、「当たり前でしょう! 今でも!」と言う人も相当数います。ただ私はどちらとも決めかねているという立場です。スウェーデン・ミステリは社会を描き出すこと──「フォルクヘム」(福祉国家としてのスウェーデン)の亀裂や欠陥を描くこと──から始まりました。警察の活動はプリズムとなったんです、それを通じて、この国を観察し、描写するプリズムですね。シューヴァル&ヴァールーの作品がまさにその例です。そうした立場をとる作家は今も存在しますが、私の見方では、今日では主流ではなくなっているように感じます。人々は社会変革や啓蒙の源として文学やミステリを頼りにはしておらず、娯楽と見なしているせいかもしれません。

 私個人は、今も昔も、社会の問いに答えたり、不正を暴いたり、問題の解決策を提案したりするのが文学の役目だとは思いません。文学に何かしらの務めがあるとしたら、それは人間にとって切迫した問いをじっくり精査することではないかと思います。他の手段では到達することのできない私たち自身についての真実。果たして私たちには、たとえ一目でも、それを目にすることができるのか。そうした問いの追求を通じて、私たち自身の真実を見極めようとすること。あるいはもっと簡単に、私たちが人間として日々経験することについて、たとえその一部でも、それを形容するにふさわしい言葉を見つけようとすること。そんなふうに言えるかもしれません。

クリストフェル・カールソン
©Thron Ullberg

──『暗殺の冬』はあなたの故郷のハッランドを舞台とした四部作の2作目ですね。この四部作には共通のテーマなどはあるのでしょうか。

CC ハッランドを舞台にした小説を書きはじめたとき、不思議なことが起きたんです。それまでは手が届かなかった物語へのアクセスを手に入れたような感じでした。意図したことではありませんでしたが、小さなコミュニティの(語弊を承知でいえば)比較的重要でない人々の人生の物語を語ることを通じて、自分はもっと大きな何かに迫ることができるのだと気づいたんです。「『暗殺の冬』はスウェーデンやスウェーデンの人々の物語である!」みたいに大上段に振りかざして語るような小説ではありませんが、スウェーデンやスウェーデンの人々についてのひとつの物語ではあります。

『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ 東江一紀訳 作品社

──「比較的重要でない人々の人生の物語」とおっしゃいました。そうした人間を掘り下げ、そこに普遍性を発見しようとすることこそ、小説の役割ですよね。

CC もちろん、「重要でない」というのは表面的なことにすぎません。たとえばジョン・ウィリアムズの『ストーナー』という小説がありますね。主人公ストーナーの人生は、一見すると平凡で、ドラマチックでなく、ありきたりなものです。アメリカ史の激動も、彼には触れることもできないまま過ぎ去ります。しかしそれでも、彼の人生は素晴らしく、マジカルで、驚異的で、恐ろしいものになりうる。彼の人生は語るに値するものなのです。なぜなら彼は、つまるところ、人間であるからです。

──それが小説であるということですね。そしてあなたはそれを犯罪と小さな人間を通じて描く。

CC 私にとってハッランド四部作はそういうものなのです──スウェーデンという経験に迫るための四つの異なる手段なんです。そしてそれはおそらく、私たちみんなをつなぐものでもあるのでしょう。スウェーデン人と日本人をつなぎ、そしてその間にある者たちもつなぎ、その先にいる者たちもつなぐもの。人間とは素晴らしいものなんですよ。