『虎口』(フェリックス・フランシス)

「おまえならスリラー作家志望の若いやつにどんなアドバイスをする?」

 犯罪小説の傑作をいくつも手がけてきたニューヨークの版権代理人に、そう訊かれたことがある。ある若いスリラー作家との改稿のやりとりで苦労している、という愚痴を聞かされていたときのことだ。

「ディック・フランシスを読め」私が言った。「そう言います」

 これに老エージェントがどう応えたかは覚えていないが、ともかくも私がそう即答したのは、イギリス人作家ディック・フランシスの一連のシリーズ、いわゆる〈競馬シリーズ〉こそ、スリラーやサスペンスと呼ばれる小説のお手本であると確信していたからである。この信念は、中学生のときに『興奮』を読んで以来、四十余年にわたって揺らいでいない。

 では、どんなふうに「お手本」なのか。

 まず第一に、無駄がまるでないことである。書き出しからそうなのだ。ディック・フランシスは余計な前置きをだらだら書かない。物語は本を開いてすぐ開始される。一行目ですでに出走していることだって稀ではない。

 例えば――


 射たれる日まではあまり気にいった仕事ではなかった。その仕事も自分の一命とともに危うく失うところであった。(『大穴』)

 アート・マシューズが、ダンスタブル競馬場の下見所の中央で、一発の銃声とともに、あたりに血を飛び散らせて自殺をとげた。(『度胸』)

 私は父の五番目の妻を心底から嫌っていたが、殺すことを考えるほどではなかった。(『黄金』)

(いずれも菊池光・訳)
 

 物語がはじまっているだけではない。世界観や主人公像までもが伝わってくる。『大穴』であれば、「私」が気の乗らぬ物騒な仕事のせいで撃たれて死にかけたことがわかるし、これを機に彼が再起してゆくことまでわかる。『度胸』では、ショッキングな事件が起きたこと、現場が競馬場であることが告げられ、ゆえにこれが競馬界に関するスリラーであることがわかる。『黄金』の第一行に至っては究極ではないかと思わせる情報の集積ぶりで、(1)主人公の父が女癖の悪い男であり(おそらくは裕福で)、(2)主人公はそのことに反抗心を抱いていて、(3)そんな中で父の現在の妻が殺され、(4)主人公が殺人の容疑者とされるかもしれない、ということが句読点込みでわずか三十八文字で表現されている。

 無駄がない。スタイリッシュだ。つまり美しい。

 プロットも同様である。

「きのう、私は騎手免許を失った」という印象的な書き出しではじまる第八作『査問』は、四十四作ある〈競馬シリーズ〉のなかでもプロットのシンプルさでは随一、いわれなき疑惑をかけられて騎手免許を取り上げられた騎手が、悪意に満ちた妨害に打ち克ちながら雪辱を果たすというだけの物語だ。スリラーや冒険小説は、「主人公が目的を果たすためにさまざまな障害を乗り越えてゆく克己の物語」と要約できるが、『査問』のプロットはその基本形だけのようなシンプルさである。

 だからといって物語が痩せているわけではない。シンプルきわまりないプロットを、切迫感に満ちたパワフルな一人称で語り切ってみせるのがディック・フランシスという作家なのである。結果として『査問』は、初期の傑作のひとつに仕上がっている。

「何を語るか」より、「どう語るか」に腐心すること。それがフランシスの流儀であり、これは小説作法の本道だと言っていいだろう。

 構成とプロットの無駄のなさ。その体脂肪率の低さゆえに物語は普遍的なものに近づいてゆく。だから〈競馬シリーズ〉は古びないのである。

 一九九〇年代以降、欧米のスリラー界では、登場人物の背景や日常を綿密に書き込むことが作品の質を文学的に高めるという信仰が支配的になった。フランシスとは逆のアプローチである。それが果たして実際に機能したのかどうかはともかく、そんな流儀が蔓延した結果、〈競馬シリーズ〉の引き算の美学は忘れられていった。だが、フランシスの『興奮』や『大穴』や『査問』が今もスリリングに読めることでわかるように、「引き算の美学」はトレンドと無縁な不変のものであり、スリラーという小説について考えるときに立ち戻る価値のある「お手本」になりうるのだ。

 そんな作家ディック・フランシスは、一九六二年のデビュー以来、五十年近くにわたって英国小説界のトップを走り続け、二〇一〇年に没した。その後、〈競馬シリーズ〉を引き継いだのが、次男のフェリックス・フランシスだ。

 ディック・フランシスの執筆活動には、文学や演劇にも造詣の深かった妻メアリが大きく貢献していたことが知られている。ところがメアリ夫人は夫より十年早く、二〇〇〇年に世を去ってしまう。これを受けてか、〈競馬シリーズ〉は同年刊の第三十九作『勝利』を最後に休止期間に入る。再開したのは六年後の二〇〇六年だった。

 再開作となったのは第四十作『再起』。その献辞には、「とりわけ息子の/フェリックスには/すべてのことに感謝する」とある。『再起』以降、シリーズは昔通りの一年一作のペースに戻るが、第四十一作『祝宴』からは名義が父ディックと次男フェリックスの連名となった。父子合作による〈競馬シリーズ〉は、『審判』『拮抗』とつづいてゆき、二〇一〇年、ディック・フランシスが逝去した年に刊行された第四十四作『矜持』をもって幕を下ろした。

 フェリックスの〈競馬シリーズ〉への貢献がどれほどのものだったかは不明だが、世界的な知名度を考えれば、『祝宴』をディック・フランシス単独名義で刊行することもできたはずである。そのほうが商業的にもプラスであったかもしれない。それなのに連名を選んだことが、フェリックスの貢献度を物語っているとはいえまいか。あるいはフェリックスがシリーズを継ぐことがすでに検討されていて、連名とすることでスムーズなシリーズの継承を図ったのかもしれない。

 いずれにせよ、ディック・フランシスの死の翌年である二〇一一年、フェリックスによる〈新・競馬シリーズ〉第一作『強襲』は刊行された。それまでの〈競馬シリーズ〉の「年に一冊」のペースを崩すことなく移行したわけである。以降フェリックスは、〈新・競馬シリーズ〉を年に一冊ペースで発表してゆく(例外はコロナ禍のさなかの二〇二〇年)。二〇二五年夏の時点で〈新・競馬シリーズ〉は十三作を数える。

 こうしてフェリックス・フランシスはスリラーのお手本〈競馬シリーズ〉を受け継いだわけだが、実際、その書きぶりはどんなものだろうか。書き出しを見てみよう。

 まずフェリックスのデビュー作である『強襲』。


 私がすぐ横に立っているときにハーブ・コヴァクが殺された。

(北野寿美枝・訳)
 

 父ディックの良作と同様、第一行で物語は出走している。傑作『度胸』を思わせるインパクトと速度感も感じさせる。これが競馬場での出来事であるという点も『度胸』を思い出させる。


 つづいて第三作『覚悟』。

「できません」私が言った。「絶対に」
「だが、シッド、やるしかない」
「どうしてです?」
「健全なレースのために」

(加賀山卓朗・訳)
 

 やはり物語はすでに出走している。ちなみに未訳の第二作Bloodlineの一行目は、競馬中継のアナウンサーによる「出走しました!」の叫びである。

 フェリックスも父ディックの流儀を身につけているのだ。とくに『覚悟』の書き出しは、同世代のスリラー作家が失ってしまっている「引き算の美学」をフェリックスが体得していることを端的に示している。なぜなら、ふつうの現代スリラー作家は、主人公が「できません」と言うまでをみっちり書いてしまうからである。

『覚悟』の主人公には妻と幼い娘がいるから、円満な家庭生活のひとこまやモーニング・ルーティンに一章を割いてみたり、夫婦のなれそめを回想させたり、ちょっとした夫婦喧嘩を書いたりして、さらに一章を費やす。依頼人からのアポとりの電話から話をはじめるかもしれず、依頼人がやってきてドアベルが鳴らされ玄関ドアを開け、挨拶を交わして客間に通し、お茶が供されて世間話がひとくだりあって、ついに依頼人が本題について述べる。すると主人公は応える。

「できません」

 これ以前の部分をフェリックスは全部ばっさり省いているのだ。「できません」の呼び水となる問いも切られてしまっているから、描写はぎりぎりまで削られているわけである。

 なぜか? 不要だからである。話をはじめるには、右に引用した四行で十分なのだ。

 単に競馬界を舞台としたスリラーを書いただけでは、あの(・・)〈競馬シリーズ〉にはならない。引き算の美学を利かせた父ディック一流の作劇法も踏襲されねばならない。そういった「引き算の美学」が暗示するストイシズムの精神も、〈競馬シリーズ〉の美点だった。まるで器が中身を規定するかのごとく、〈新・競馬シリーズ〉にもストイシズムが継承されていることは、邦訳のある『強襲』『覚悟』で見たとおりである。

 本書『虎口』は、二〇一八年の〈新・競馬シリーズ〉第八作。文春文庫で邦訳された前作『覚悟』は、父のシリーズ中でもっとも人気が高い名キャラクター、シッド・ハレーを主人公とした作品だった。ハレーの活躍は『大穴』『利腕』『敵手』『再起』と四作品書かれていたから、その語りや物語の性質のフォーマットは、すでにガッチリ固められていたと言える。

 では、まったく新たな主人公をフィーチャーした『虎口』は、どんな物語なのか。

 いつものように一人称「私」で語る主人公はハリイ・フォスター。三十代の弁護士である。勤務先は硬骨の退役軍人アンソニー・シンプソン・ホワイトが創業した〈シンプソン・ホワイト・コンサルタンシー〉、財務や法務に問題を抱えた企業へ助言を行うコンサルティングを主たる業務とするが、どうやら企業のトラブルシューティングのようなこともしているらしき謎めいた企業である。

 ここにハリイが勤めるようになったのは、法律雑誌に掲載されていた「もっとワクワクする存在になりたいですか?」とラテン語で書かれただけの広告に、興味をひかれたからだった。凡庸な法律相談ばかりの日々にハリイは退屈していたのだ。

 ハリイの名乗りを受けて、〈シンプソン・ホワイト〉がどんな「入社試験」を課したのかは読んでのお楽しみ。それにパスしたハリイは、「危機管理コンサルタント」という肩書で同社の業務をこなすことになった。それから七年。すっかり中堅スタッフとなったハリイに与えられたのは、イギリス競馬の聖地ニューマーケットで起きた厩舎火災事件の調査だった。火災のために、現役最高ともいわれる名馬〈プリンス・オブ・トロイ〉が、ほかの六頭の馬とともに焼死していた。

 調査の依頼主はプリンス・オブ・トロイの馬主であるシーク・カリム。アラブの王族のひとりである。焼けた馬房は同地で名調教師と名を轟かせるオリヴァー・チャドウィックが創業した厩舎のもので、引退を考えているオリヴァーに代わって、実質的には長男のライアンが馬の調教をおこなっていた。ライアンには別の厩舎の調教師として活動する弟デクラン、騎手となった末弟トニイ、末っ子の妹ゾーイがおり、きょうだい間には複雑怪奇な愛憎関係があるようだった。

 ハリイが競馬界の名家チャドウィック一族に近づき、調査を開始してほどなく、焼け跡から人間の死体が発見された。それは一家のひとり娘ゾーイのものだった。少女時代から問題行動で知られた彼女が火を放って自殺を遂げたのか? ハリイはチャドウィック家の人間関係と過去にわけ入ってゆく……。

 限定された人間関係のなかで事件の真相を追う本書は、〈競馬シリーズ〉でいえば、富裕な一家の屋敷で起きた殺人をめぐって展開する『黄金』に近い、「犯人探し」テーマの作品である。調教師や厩舎といった競馬界に材をとりながら、複雑な人間関係や過去の因縁を紡いでゆくフェリックス・フランシスの筆は巧みで、主人公ハリイを競馬のことなどまったくわからない男に設定したおかげで、トリビアが自然に読者に説明される仕掛けになっている。犯人候補が二転三転するさまや、最後に意外な真相が明かされる呼吸には、英国流のミステリーならではの妙味もある。フェリックス、巧い作家なのだ。

 そしてもうひとつ、主人公の若々しさも魅力となっている。ディック・フランシスの作品には、十七歳の騎手が登場する『騎乗』があったが、本書の雰囲気は二十代の投資銀行役員が主人公の『名門』に近い。

 実際のところハリイ・フォスターは三十七歳なのだけれど、軽妙な物腰や、ニューマーケットで見る競馬界のさまざまな光景に新鮮なおどろきを示すようす、そして中盤以降のある女性との出会いなど、若々しく快活なのである。ユーモアを随所で利かせた健やかな感覚は、父の作品ではほとんど見られなかったものだ。そういう意味で、『虎口』は、「フェリックス・フランシスによる〈新・競馬シリーズ〉」と呼ぶにふさわしい独自性を、清新に発揮してみせた快作と言っていいだろう。

 そしてもうひとつ、ハリイの眼を通じて描かれるニューマーケットの魅力がある。ハリイによれば「普通の道路と同じくらい乗馬路がある」というイギリス競馬の聖地のあちこちを、ハリイは動き回る。町中を馬が悠然と歩んでいるさまを眺め、平日のレースを観戦し、町の中心部をそぞろ歩く。最終章で描かれるのは、みながドレスアップして臨むダービイだ。ハリイもモーニングスーツとシルクハットでキメている。

 本書で描かれる事件はどちらかといえば暗く、重いものだ。けれどもその重たい味わいを、ハリイ・フォスターの陽性の空気が重すぎないものにしてくれている。そうしたフェリックス独自の魅力を横溢させつつ、競馬界の素敵さも大きくフィーチャーすることで、新旧〈競馬シリーズ〉の魅力を併せ持たせた作品が、『虎口』なのである。ラストシーンの微笑ましさも忘れがたい。

 文春文庫の〈新・競馬シリーズ〉では、第十一作Hands Downの刊行が決定している。こちらは『覚悟』の続編であり、つまり隻腕の調査員シッド・ハレーが登場する六作目。『覚悟』をお読みの方ならば、ラストシーンでシッドに大きな転機が訪れたことをご存知だろう。その後の彼はどうなったのか。長年の読者にとって気になるシッド自身の物語もさることながら、スリラーとしての出来も出色である同書、あまりお待たせせずに刊行できるよう、翻訳者の加賀山卓朗氏ともども努めてゆきます。

 ご愛読をお願いする次第である。

(編集部N)