書評

『滴り落ちる時計たちの波紋』について

文: 平野 啓一郎 (作家)

『滴り落ちる時計たちの波紋』 (平野啓一郎 著)

〈最後の変身〉は、収録作中、最長のものであるが、分量は必ずしも重要性に比例しない。寧ろその膨張の仕方に注意を払われたい。

 この作品は、インターネットのウェブサイト上に公表された手記という体裁を取っており、着想の段階では横書きだった。雑誌掲載時には通例に従い、これを縦書きに改めたが、私は満足しなかった。それは、作品に不要な「文学性」を付加し、質的な変化を齎すからである。そのため、今回これをすべて横組みに戻した。この改変については、編集者から異論があり(取り分け、ノンブルの進行方向が通例とは逆になるため)、長らく議論を重ねたが、最終的にはこのような形となった。出版社の「良識」を疑われぬため、その不自然が十分に指摘されていた事実をここに付言しておく。

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 現在の私の関心の一つは、書物という形態が有するスペイスの中で、言葉をいかにして量的に分配し、構築するかということである。この時、小説中の或る語句、或る文章と同様に、小説そのものを、まさしく〈バベルの図書館〉のように量的に集合した言葉の総体の――しかしそれはスタティックに構造化されたものではなく、常に全的に流動している――と或る「ロケイション」に過ぎないと見做(みな)し得るのではあるまいかというのが目下の私の考えである。私の野心は、現在、離れ小島のように浮遊している「小説」という言葉の集積と、インターネットによって日々、爆発的に増殖しつつある新興の言葉の群とを、質的に判別するのではなく、そのロケイションの関係によって構成し直したいというものであり、この作品に期待したのは、言わばその橋渡しの役目である。その根底には、幾度となく試みられては失敗してきた、同時代人との問題の共有という私の切実な欲求がある。ノンブルは、縦書きの場合と同様の進行方向にした。書物に於ける進行の不可逆性は、当然に近代的時間の隠喩である。私は、現代という同じ一つの時間の流れの中の、多様な個々の時間の波紋をこの作品集の中に収めたかった。それ故に、単に慣例的な理由によって、この作品だけを逆行させることは出来なかった。主題は所謂「ひきこもり」であり、それをカフカの『変身』と併せて考察した。ここに示された「見かけ」と「本質」という問題設定は、古代ギリシア以来の古典的なものであり、主人公の煩悶は殆ど実存主義的である。私は、我々の世代に蔓延するこの種の反動的な雰囲気を見逃すことなく押さえておきたかった。それが一過性のものであるのか、永続的なものであるのかは分からない。しかし、私の見るところ、サイバースペイスの拡充は、明らかに内面と外面との分離を押し進め、強化しつつあるようである。

〈『バベルのコンピューター』〉は、ボルヘスの〈バベルの図書館〉の批評的更新である。恐らく今日、ここに登場するすべての固有名詞の実在を信じる者はいまい。嘗(かつ)ては、ボルヘス的博識は、ただ個人の頭脳の中にだけ秘匿されていた。しかし、我々の時代の読者は、その幾つかをインターネットで検索してみて、一つも関連サイトが見つからなければ、それを虚構と見做すであろう。現代では、フィクションは、そうした状況下に置かれている。テクノロジーの進歩を徒(いたずら)に表層的なものとして軽視するのは誤りである。他方、私はここで幾つかの美術作品を創造した。もし小説家が、一つの「現実」を創造する代わりに、言葉による「仮構」で事足れりとするのであるならば、芸術作品とて同様ではあるまいか。これが私の投げかける問いである。

 表題の『滴り落ちる時計たちの波紋』は、〈白昼〉の中の一節から採られた。私は、ただ何となく長いタイトルをつけてみたかったのだが、関係者からは覚えられないと不評である。

 例によって身も蓋もない自作解題を行ったが、私は最近、これを悲観しないようになった。それは、ボルヘスのあの出し惜しみのない「まえがき」や「あとがき」が、別段作品の魅力を殺(そ)ぐことなく、しばしば増しさえしていることに気がついたからである。蓋(けだ)し、作者が創作の意図を秘しておかねば魅力が保たれないような小説は、そもそもが、その程度のつまらない作品なのであろう。

滴り落ちる時計たちの波紋
平野啓一郎・著

定価:本体600円+税 発売日:2007年06月08日

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