『マチネの終わりに』『ある男』に続く、平野啓一郎さんの最新作『本心』が21年5月に刊行されました。舞台は、個人が自分の死の時期を選ぶことのできる“自由死”が合法化された2040年代の日本。最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた主人公・朔也は、自由死を望んだ母の本心を探ろうとします。
平野啓一郎さんをナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル『文学の森』では、『本心』の刊行を記念し、読者による平野啓一郎さんへのオンライン質問会を開催。この記事では、そのダイジェストをお届けします。(全2回の1回目。後編を読む)
(ライティング/井手桂司)
人生の最後を好きな分人で迎えられるか?
── 今日は時間が許す限り、読者のみなさんからの質問に答えていただこうと思います。はじめに、どうやって『本心』の着想が生まれたのかを聞かせていただけますか?
平野啓一郎(以下、平野):実は、『ある男』を執筆している頃から、次の作品では何を書こうか考えていました。
様々な関心がありましたが、分人主義の延長上として、死ぬ時について考えたいと思いました。心地のいい分人で生きれる時間が長くなるように人生をデザインすることが大切と言ってきましたが、「では、死を迎える時はどうなんだろう?」と思ったんです。
西行の「願わくば花の下にて春死なん」のように、愛する人といる時の分人で死にたいとか、静かで心地のいい場所で亡くなりたいとか、人生の最後を穏やかに迎えたいという願望は昔からあったと思います。
でも、自分がいつ死ぬかをコントロールすることはできませんよね。急な事故で病院に運ばれ、家族と会えずに孤独に亡くなってしまうことだってありえます。では、自分の好きな分人で死ぬために、死のタイミングを自分で決めることは許されるのか。この問いについて、考えを深めたいと思いました。
加えて、テクノロジーが非常に速いテンポで進歩し、AI(人工知能)やバーチャルリアリティー(仮想現実)が日常生活に深く関わってくることが予想されるなかで、人間そっくりだけど人間ではない存在と共生していくとは、どういうことなのか。また、母親という存在についても書いてみたいと思いました。常に頭のなかには複数のアイデアがあるんです。
僕は「雪だるま」によく例えるんですが、つまらないアイデアは頭の中で転がしているうちに、摩耗して粒が小さくなっていく感じがします。逆に、おもしろいアイデアは、転がしていくうちに、膨らんでいく。そういう作業を、連載がはじまる前に行います。そうやって雪だるま式に膨らんできたアイデアを採用していくので、僕の小説は色々と詰め込まれている感じになってしまうのだと思います(笑)。
『本心』が一人称体で書かれた理由
── 『本心』は、平野さんの長編小説では、デビュー作の『日蝕』以来の一人称体で書かれた小説です。その意図は、何なのでしょうか?
平野:これまで短編では一人称体の作品をいくつか書いていますが、どちらかというと僕は三人称体が好きな作家です。
一人称体を選んだ理由は幾つかありますが、ひとつは技術的なことです。今回の舞台は近未来の日本。テクノロジー、政治、環境など、様々なことが現在の社会と変わっているはずです。そういう世界を三人称体で描こうとすると、作中に書くべき情報量が膨れあがります。
僕は『ドーン』で近未来を舞台に選びましたが、アメリカ大統領選と有人火星探査とを組み合わせた壮大な世界観を三人称多元視点で描いてみて、その大変さが骨身に沁みました。伝えないといけない細かな設定が多々あるうえで、登場人物それぞれの魅力を際立たせるのは、かなりの困難を要するものだったんですね。
一方、一人称体は本人の主観的な世界の中で情報量をコントロールができます。『ドーン』の時の経験も踏まえ、今回は技術的な意味で一人称体がふさわしいのではと考えました。
また、僕の作品をずっと読んでくださっている方はお気づきかもしれませんが、作品を追うごとに主人公の年齢が上がってます(笑)。『決壊』など第3期の頃の主人公は30代でしたが、『マチネの終わりに』や『ある男』では主人公はアラフォーになっています。この調子だと、僕が歳を重ねるとともに、主人公の年齢もあがっていく一方だと思いました。それが悪いことだとは思いませんが、どこかで主人公を若返らせたい想いがありました。
『本心』の主人公の朔也は20代ですが、作品の舞台である2040年代には僕は還暦を超えています。そんな僕の視点から、ナイーヴな若者である朔也を客観描写しようとすると、シニカルになってしまったりとうまくいかないんじゃないかと思いました。それよりも、朔也の主観的な視点で、ナイーヴさをそのまま自分で受け止めていったほうがいいと考えたんです。
それと、『本心』では母親のVF(ヴァーチャル・フィギュア)が重要な存在となります。心を模造しているかのように喋る<母>との対比で、一人称体で内面の声を書いていった方がいいんじゃないかと考えたのも、一人称体を選んだひとつの動機です。
「安楽死」ではなく、「自由死」にした意味
── 『本心』の新聞連載版では「安楽死」という言葉が用いられていましたが、単行本版では「自由死」に言葉が変更されていました。この意図を教えてください。
平野:自分の好きな分人で死ぬために、死のタイミングを自分で決めることは許されるのか。この問いについて考えていくと、どうしても安楽死の議論と接点がでてきます。『本心』の執筆にあたり、安楽死や尊厳死について、かなり詳しく調べました。
安楽死とひとえに言っても、「積極的な安楽死」と「消極的な安楽死」に分かれます。積極的な安楽死は、本人の命を終わらせる目的で医者が薬物を投与します。消極的な安楽死は日本で言われている「尊厳死」のことで、延命治療を中止することです。オランダやスイスなどの一部の国で安楽死の合法化・制度化が進んでいくなかで、安楽死の議論は日本でもより活発になってくると思います。
合法化されている国の制度を調べると、安楽死を認める条件は、かなり厳密に規定されていることがわかります。不治の病であるとか、苦痛が甚だしいとか、特定の条件を満たしていないと認められません。また、担当医師が一定期間の診断を行い、一時的なうつ状態で死を望んでいるわけでなく、他者から強制されているわけでもなく、本人の強い意志であることを確認してから最終的な判断をします。
新聞連載中は、そういう条件を取っ払った「無条件の安楽死」という表現を使っていました。ただ、単行本化にあたり、概念的に区別した方がいいと思って、「自由死」として概念を書き換えました。ニーチェの『ツァラトゥストラ』の中にある「自由な死」という章にも影響を受けました。
死の自己決定については、哲学的な問いとして長年の積み重ねがありますが、今の社会を見ていると、安楽死の議論の先に差別的な優生思想が控えているように感じます。国の負債が積み重なり、国家予算が乏しくなるなかで、国家に救われる人をセレクトしようとする圧力が強くなってきていて、実際に優生思想に基づいた凶悪犯罪も発生しています。
僕は人の命が役に立つかどうかでジャッジする考えを強く否定しますし、弱者に押しつける形で死の自己決定権の問題を議論するのは間違っていると思います。それは「自己決定」を擬装しながら、他者が圧力をかけるような擬似的な「自由死」となってしまいます。死の自己決定権について考えることを、僕はこの小説では、逆説的ですが、生きることを肯定的に考える思想へと繋ぎたいと思っていました。
「自由死」という概念を用いることで、日本で本格的に安楽死の議論が始まる前に、自分で自分の命の時期を決めることの意味について考えておきたいと思いました。
相手の本心を知りたいと思う時は、どんな時?
── 『本心』の帯コピーは「愛する人の本当の心を、あなたは知っていますか?」ですが、平野さんが相手の本心を知りたいと思う時は、どんな時ですか?
平野:相手を怒らせてしまった時とか、傷つけてしまった時。また、朔也の母親のように、およそ自分では同意しがたい決断を相手がした時に、相手の本心を知りたいと思います。
ただ、本心とは言葉で語られるものですから、どうしてもそこには一定のズレが生じます。うまく言葉で表現できないとか、「その時はそう言ってしまったけど、よくよく考えてみたら実は違った」みたいな。
語られた本心が、どこまで本当かなんて、語っている本人もわからないですよね。そもそも、構造主義などの議論を通じて、人間はどこまで自分の主体的な意志で決断できているのかについて散々疑問を投げかけてきたわけですし。
ただ、僕が唯一知りたいと思うのは、相手に無理強いさせていないかどうかです。
何かをお願いした時に、表面的には喜んでいたり、同意してくれているように見えているけれど、本当は嫌だと思っている状態。それは、相手に本当に申し訳ないと思います。僕は無理強いが本当に嫌で、無理強いを強要させる社会ほど、ひどい社会はありません。
こちらは無理強いをしていないつもりでも、強いているように受け取られている可能性もあると思います。そこは気を配らなければと思いますし、そういう意味で、相手の本心が知りたいと思う時は結構ありますね。
(後編に続く)
ひらのけいいちろう / 1975年愛知県出身、北九州市で育つ。大学在学中に発表した『日蝕』で芥川賞を受賞し、注目を集める。以来、小説、エッセイ、対談集など多くの作品を発表。美術や音楽にも造詣が深く、各ジャンルのアーティストとコラボレーションを行っている。近作に、映画化もされた『マチネの終わりに』ほか、『ある男』『「カッコいい」とは何か』など。2020年から芥川龍之介賞の選考委員を務めている。古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル、平野啓一郎の「文学の森」はhttps://bungakunomori.k-hirano.com/about
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