──『悪の教典』では、被害者の命が無残に奪われる箇所が何度も出てきます。彼らは、存在がゼロであるかのような扱いを受ける。そうした非情な描写を読むことによって、読者は、二通りの感情を覚えると思うんです。一つは被害者の側に立って、自分の敵となる理不尽なものに対する恐怖を感じる。もう一つは、逆に彼らを追い詰める犯人、蓮実に共感して「やっちゃえ」という高揚も覚える。その両方が自分の中にあるということを、絶対に気づかされると思うんですよ。
貴志 そうであれば本当に嬉しいと思います。お断りしておきたいのは、そうしたことに気づいたからといって、その人が特別邪悪だということはまったくない、それは人間の本質だということです。蓮実が犯罪計画を完全に遂行するところを見てみたい、そういう視点で見るのはある意味当たり前だと思うんですよね。建築中のビルが完成するところを見たい、というのと同じような気持ちですから。ただ、彼の標的となっている側にも人間としての感情があるんだということも同時に感じてもらえれば幸いです。
──そこを対比させるのが主題といってもいいですね?
仕事のように淡々と……
貴志 殺す側と殺される側のあまりの意識の乖離(かいり)ですよね。殺される側は恐怖と絶望と闘いながら逃げていくのですが、では殺す側がそれに見合った強い感情を抱きながらやっているかというと、全然そうではない。仕事のように淡々とやっているということもあるわけですよね。たとえば、働いたからお腹がすいたなあ、とか思っているかもしれない(笑)。
──いじめの被害者が自殺したときに気の毒に思うのは、自分を追い詰めた人間が死によって社会的な制裁を受けることを期待して遺書を書いているにも拘(かか)わらず、事実はそうならないことです。死なれた側は「迷惑だな」と思いこそすれ、実はそんなに反省しない。死に損だよ、と思うのです。
貴志 そのとおりですね。自殺を考えている子供たちに心から言いたいのは、自殺がなぜ悪いかといえば、自分を愛している人ほど傷つけて、自分を憎んでいる人とか、どうでもいいと思っている人に対しては何の影響もないということなんです。しかも学校の人間関係なんて、人生の中でほんの一部分なんです。学生時代の知人と成人してから付き合うことなんて本当に少ないですよ。そんなもののために二度とない人生を捨ててしまうのは馬鹿げています。