──新作の『悪の教典』では、晨光(しんこう)学院という東京近郊の架空の高校が舞台となりますが、この舞台設定にされたきっかけを伺えますでしょうか。
貴志 学校には昔から注目していたんです。一種独特の閉鎖空間であり、また子どもたちをトレーニングする場ですから、普通の社会以上にモラルや常識がしっかりしてないといけないのに、むしろ世間ではなかなか通用しないようなことが罷(まか)り通ったりしている危険な場所でもある。ところが、学校を舞台にした小説は数多くあるものの、どうしても最終的にはいい話になりがちなんですね。そういうものではないものを書いてみたい、と思っていました。
それから、この小説を書くにあたって最初に思いついた場面に関係しているんですが、学校というのは、結局、根っから性善説で成り立ってるシステムだと思うんです。学級名簿を作らない時代になっても、さすがに教師は生徒の個人情報を全て知っていますから、悪用する気になれば、何でも利用することができる。さらに一旦教室に入ってしまえば閉じた空間なので、蓮実聖司(はすみせいじ)のように人を操るのが巧みな人間には、とても都合のよい場でもある。
──サイコパスと言われる人たちは、そういう才能に長(た)けていることが多いといわれますね。
貴志 ええ、そういう人間が教師だった場合には、子供はひとたまりもないなと。そこから発想して、こんな長い物語になっていったというわけなんです。
──最初に思い浮かんだシーンというのは、あのある女生徒を殺そうとするところですか。
貴志 その準備段階のイメージです。遺書の練習をしてみたり、個人情報を調べたりしているところですね。それからシーンとしては前に分かれていますが、生徒の情報をパソコン内に取り込んで、教室内の相関関係や、個人的で雑多な情報を管理、分析している場面が登場します。現実でも熱心な先生は日常業務として行っていることだと思うんですが、これを悪用しようとしたら、かなり怖いことになりますから。
──性善説に基づいて教室の中は非常に無防備なまま、おかれているというわけですね。
貴志 そして絶対に破綻するシステムというのは二種類あって、まず人間が絶対に間違いを犯さないという前提のシステム。もう一つは性善説に立ったシステムです。
ほとんどの人間は善良だと思いますよ。特に日本においては。でも全員が善良なんていうことは統計的にありえないわけですね。悪意の人間を想定して備えるのは、天災を防ぐのと同じなんです。どんなに性善説の人間でも、都市に住んでいたら自宅のドアに鍵はかけますよね。「私は正しい人間だから、神が雷を落とすわけがない」というのは、その人の信念でいいんですけど、それはちょっと現実には即していないかなと思いますね。
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