3 家康については、
「なぜ駿府を隠居地として選んだのか」
である。それは隠居後は「風光明媚で、なるべく温暖の地を」などという現代の第2の人生感覚では全くない。
幸い、これは筆者の作家としての夢想ではなく、地元静岡の有識者とその研究された史料などで、ほぼ推測できたのは望外の喜びだった。
これを知って2人の夢をふくらませたのが、最終章の家康と守隆の「会見記」部分である。もっとも、これが守隆失脚の遠因にもなるのだが――。
これを読めば、これまでの読者の皆さんの「家康観」は一変するに違いない。事実、筆者自身がそうであった。
この小説で守隆と向き合った理由の第2点。それは、九鬼水軍の領地とその海域が志摩半島南端ということにある。それがなぜ興味をそそったのか。
その理由は2つ。
第1に志摩は秀吉の居城大坂と家康の岡崎城あるいは浜松城から、ほぼ百数十キロという等間隔にあることである(岡崎は大坂よりやや近い。浜松はやや遠い)。それは豊臣と徳川の対立に際し、そのどちらに与すべきかが非常に難しかったことを意味する。
この難しさは信州の真田昌幸のケースのように、息子のうち兄・信之を徳川へ、弟・信繁(幸村)を豊臣へといった安直な解決では済まなかった。
どちらかにつかねばならなかった。この結果に、九鬼親子はどう決着をつけたのか。これは、この小説のハイライトの1つである。
第2の興味は志摩半島の前面を流れる黒潮である。灘という文字が「サンズイ」に「難」と書くように、九鬼水軍は、前面を黒潮の引き起こす遠州灘という、日本で一番難しい海にふさがれていた。それだけにこの外洋の克服には日本の水軍で一番長けていた。
もし家康が、あと10年長生きし、江戸幕府が、家康の意向を尊重して、九鬼水軍の重用を続け、そして同じ駿河出身の山田長政を南方派遣軍として活用していたらどうだったろう。
明治維新を、あれほど騒々しいこととしてとらえる必要もなく、薩長の攻勢にも「デン」と構えていられたろう。
そして今日までつづく明治維新の歪みもなく近代国家にスムーズに移行できたのではあるまいか。
そう思うと悔しくてたまらない。
いや守隆はもっと悔しいに違いない。この本ができあがったら、早速に、兵庫県の三田に行き、そこに左遷されて、むなしく眠る九鬼守隆の墓前に捧げたいと思っている。
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