書評

文(ふみ) 一人静の生涯
松陰の妹・久坂玄瑞の妻の生き方

文: 古川 薫

『花冠の志士 小説久坂玄瑞』 (古川薫 著)

 松陰は安政4年11月、杉家の物置小屋を改修、藩の許可を得て正式に松下村塾を開き、城下の若者を集め約1年間、独自の教育活動を開始する。在塾の者およそ300人というが、熱心に通いつづけたのは30人、さらに中心的な塾生として名を遺したのは、久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋・品川弥二郎・前原一誠ほか十数人、いずれも明治維新に重要な役割を果した俊才たちである。

 松下村塾は月謝を取らなかった。講義の時間は不規則で、夜におよぶこともある。杉家が炊き出しをするなど、松陰の母タキが献身的に協力し、松陰の妹3人のうち2人はすでに嫁しており、文が甲斐々々しく母親を助けて村塾運営の影の人として働いた。

 松陰は塾生のうち久坂玄瑞のすぐれた資質に惚れこみ、自分の妹文との結婚を考えるようになった。玄瑞は早くに親兄弟と死別していたので、杉家に迎えようとしたのである。

 松陰の強い誘いにも拘わらず、玄瑞は応じようとしない。松陰門下の先輩中谷正亮がなぜかと問うと、玄瑞は答えた。「窈窕(ようちょう:美しくたおやか)の人を妻に迎えることは、むかしから男子の本懐としてきたではありませんか」

「馬鹿たれ! 美人の妻を持ちたいなど、太平の世の文弱の徒がほざく寝言だ。今の世に大丈夫たらんとし米夷を斬ると叫ぶおぬしが、妻をめとるに容色を選ぶとはなにごとだ。松陰先生がぜひ久坂をと熱望され、文さんもおぬしに好意を寄せちょるのを知った上で逃げるか」

 正亮に一喝されて玄瑞は、返す言葉もない……。おそらくはそんな次第で、松下村塾の一同からも羨まれ祝福され、文と玄瑞はめでたく夫婦のちぎりを交わすことになる。このとき松陰は文に大要次のような祝いと励ましの書を贈っている。

「久坂玄瑞は、防長における年少第一流の人物であり、天下の英才である。お前には過ぎたる人物だ。酒食のことを工夫し、父母に心配をかけぬように、家事を間違いなくやっていけ。『女誡』(じょかい:女子に対するいましめ)にある貞節・専心のごときは嫁ぐ初めの覚悟が大切なのだ。稚劣な汝が天下の英才に妻たるの道もこのほかにない」(原文漢文)

 安政4年(1857)12月5日、玄瑞は杉家に身を寄せて、文との新婚家庭を持ったが、翌5年2月、藩命により上京、江戸にも出て活動し、帰郷したのは翌6年2月だった。さらに翌万延元年(1860)2月、江戸に出て帰ってきたのは1年後の文久元年3月だった。以後は江戸・京都・大坂・下関と駆け歩き、たまに山口に帰ってきても、萩には入らずそのまま京都へ向かうという忙しさである。

 結局、文と夫婦らしく落ちついた生活――それも1年間だが――をしたのは、安政6年2月から翌万延元年2月までがすべてで、結婚から彼が京都で死ぬまでの7年間のうち家にいたのは通算2年にも満たない期間だった。

 これはしかし玄瑞だけではない。志士として活躍した男たちの行動半径は、北部九州――京都――江戸であり、移動に要する時間もふくめて、ほとんどは旅の生活だったから、それぞれの家庭ではせめて「留守居妻」との手紙のやりとりで空白を埋めていた。

 たとえば彼の盟友高杉晋作にしてもそうだった。彼の死後、雅子未亡人は雑誌「日本及び日本人」の記者に「わたくしは高杉のことは何も知らないんでございますよ」と言い、またこんな歌を詠み遺している。

「文見ても読めぬ文字こそ多けれどなほなつかしき君の面影」

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花冠の志士 小説久坂玄瑞
古川薫・著

定価:本体660円+税 発売日:2014年09月02日

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