文久3年(1863)に入ると中央政局は尊王攘夷の勢力が主流を占めて、幕府はついに攘夷期日5月10日を布令した。玄瑞は京都周辺にいた勤王浪士を引きつれて下関に急行、逡巡する藩正規軍を尻目に、下関海峡を通航しようとするアメリカ商船を砲撃した。これが国際紛争馬関戦争のはじまりで、幕末動乱のきっかけとなり、明治維新という日本史の変革を加速させた。
政情は急変を重ね、ついに会津・薩摩による宮廷クーデター「8・18政変」で長州藩は京都から追放された。都落ちする七卿に随従していったん長州に帰った玄瑞は、すぐに京都へ出て、長州復権の画策に奔走する。状況は日々悪化し、元治元年(1864)の禁門の変に突入、7月19日、玄瑞は鷹司邸で討死する。長い留守居妻の果てに、久坂文は22歳で夫を失った。
以後、美和子と改名して藩世子だった毛利定廣の正室・安子の奥女中、長男の守役など務めた。男爵楫取素彦の後妻にならぬかとの勧めを文が受けたのは、20年近くにわたり寡婦の生活をすごしたころだった。
小田村伊之助を名乗っていた楫取のところに嫁していた文の姉寿子が明治14年(1881)に病死したのでどうかと強く勧めたのは母親のタキ(瀧)だという。「貞女は二夫をならベず」(史記)を守って、文は固辞していたが2年後の明治16年、41歳(数え年)で楫取家に嫁いだ。楫取素彦55歳。
楫取は美和子が保存していた玄瑞の書簡21通を発信場所・年月などを調べてまとめ、『涙袖帖(るいしゅうちょう)』と箱書きしてやっている。七卿落ちに随従するとき玄瑞が即興で詠ったとして知られる今様の一節「ふりしく雨の絶間なく、涙に袖のぬれはてて」から採ったものと思われる。
楫取は優しい男だったようだが、文を嫁に迎えてからも、亡妻のことが忘れられず「そのむかし今ごろ君とわかれしと思へばかなし朝げするとき」と歌を詠んでだりしている。今流にいえば、ややデリカシーに欠けるところもあったか。
楫取美和子夫人こと文は、『涙袖帖』を取り出して玄瑞との思い出に、ひとり沈んだのであろうか。
玄瑞からの21通の手紙は万延元年8月から死の直前元治元年6月6日までのものだから、およそ2カ月に1通を送ったことになる。文のものは遺っていないが、ほぼ同数の手紙を玄瑞あてに出したことが玄瑞の文面からうかがえる。つまり月に一度夫婦の交信があった。
玄瑞の通信は親族一同への伝言など形式ばった内容が多く愛の手紙とは言いにくいが、たまに「あつさ(暑さ)おんいとひ、申すまでもなき事にてかんもじ(肝要)にぞんじまゐらせ侯 お文どのへ」と健康を気遣うものもある。
文が特別うれしかったのは、文久2年10月9日の手紙だった。それには「まことに歌にもならぬつまらぬ事ながら」と言い訳しながら、
「あき深しみやまの峠(たお)の楓葉のすぎていゆきしこの君あはれ」
「月清くあきかぜさむし草まくらたびねもさめつあきかぜさむし」
など自作の和歌4首が書きしるしてあった。
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