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『海鳴り〈新装版〉』解説

『海鳴り〈新装版〉』解説

文:後藤 正治 (ノンフィクション作家)

『海鳴り〈新装版〉 上・ 下』(藤沢周平 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 紙問屋たちとの寄り合いの帰り道、悪酔いし、無体に遭いかけたおこうを救ったことをきっかけに2人は知り合う。おこうは「空洞」を満たしてくれる人だった。

 おこうにも事情があった。石女とされ、夫や姑とのいさかいは絶えない。夫は外で子をつくり、家にまで入れようとする。ここでも家庭は破綻していた。

 おこうの像は新兵衛の視線を通して描かれており、その内面は新兵衛ほどには仔細には伝わってこない。おこうは、男から見てこうあってほしいという女性像を体現している。一見、控え目ではかなげ風であるが、体内に情念の炎を宿している。

 新兵衛がおこうの介抱に宿を使ったことを邪推した紙問屋の塙屋(はなわや)彦助が恐喝してくる。新兵衛がとりあえずカネで片付け、それをおこうに報告した帰り道――。

《そこまで眼をつぶって歩けば、おこうとのことは終りだった。おみねが言ったように、万事めでたく、事もなく。あとは彦助の後始末が残るだけである。
「新兵衛さん」
 うしろで、おこうの声がした。
「もう、これっきりですか?」》

 2人の仲が深まり、宿の部屋から消え行く両国の花火を見上げている――。

《おこうは身体を寄せると、新兵衛の背にそっと手を置いた。いたわるようなしぐさだった。
「新兵衛さん、いっそ駆け落ちしませんか?」》

 執拗に脅しをかけてくる彦助に、新兵衛の堪忍袋の緒が切れる。路上、取っ組み合った勢いで彦助の首に手を回してしまう。老練な岡っ引きの追及が迫る。

 進退窮まった新兵衛は、ある決断を下し、踏み出していく。決断が良きものであったのかどうか、著者は新兵衛に「わからない」とつぶやかせている。読者もまた、わからないと思うしかない。

 たとえ2人が駆け落ちをし、逃げおおせたとしても、新たな日々が甘美なるものばかりであり続けるはずはない。「非日常」はやがては凡々たる日常と化していくのが人の世の常であるからだ。けれどもまた、人は、幻想とわかってなお夢見る生き物である。それが間違っているとだれが責められよう。人生は一度しかなく、ひとつの選択しかないものであるなら、新兵衛の決意を尊びたくも思う。

 本書を読み進めていくと、江戸の時空間に舞台を借りて、著者が主題としているのは、いま現代であり、人間の関係性であり、人の生き方を問うものに他ならないことが伝わってくる。 

『半生の記』年譜の「『海鳴り』の執筆を終えて」において、藤沢氏は当初、新兵衛とおこうを心中させることで結末をつけるつもりでいたところ、「長い間つき合っているうちに二人に情が移ったというか、殺すにはしのびなくなって、少し無理をして江戸からにがしたのである」と記している。

 そう、読者もまた情が移ってしまって、「二人が首尾よく水戸城下までのがれ、そこで、持って行った金でひっそりと帳屋(いまの文房具店)でもひらいて暮らしていると思いたい」という結びに唱和したい気分となる。

 本書は、藤沢氏らしい、精緻なつくりの時代小説である。市井ものの長篇としては代表作になるのだろう。全篇を通し、昏い色調が漂う大人の物語であるが、その文品が、ほろ苦くも艶なる光沢を与えている。

海鳴り〈新装版〉 上

藤沢周平・著

定価:620円(税込) 発売日:2013年07月10日

詳しい内容はこちら

海鳴り〈新装版〉 下

藤沢周平・著

定価:588円(税込) 発売日:2013年07月10日

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