上原さんは、いつも旅をしているひとなのだ。日本の路地を。世界の路地を。構えたところもなく、ありのままの心で。
なぜ旅をするのか、第一章にこうある。
〈この世の中で、父と母との喧嘩ほど醜いものはない。まだ幼かった私にとって、それは修羅場であった。〉
〈両親の修羅場は、まさに幼かった私にとって「小さな戦争」であった。私は何もできずに戸惑う、無知で力のない民衆のようなものであった。〉
〈私に刻みこまれた修羅の跡は、世界の修羅によって贖(あがな)えるのだろうか。幼かった私に、圧倒的な破壊力を誇った父。その父でさえ、体験することのなかった戦争は、私に何かを越えさせてくれるのではないだろうか。〉
〈そう思うと、いてもたってもいられなくなった。〉
何かを越えようとするならば、刻み込まれた修羅の跡は、風に晒さなくてはならないだろう。納戸の奥に放り込んでおくこともできるだろうけれど、そうはせずに、「いてもたってもいられず」晒しに行く。風に晒せば無防備な傷はどこかにぶつけてまた、血を流すかもしれない。そのときは、それをそのまま感じる。この本を読む私の目に映る上原さんはそんなひとだ。構えていない。両腕をさらりと下ろして、辺境の町に立っている、そんな姿を想像するのだ。
〈路地の出身者が、外国の被差別民や迫害の現場をルポすることなど、所詮は異邦人による威丈高な自慰行為にすぎないのではないか。そう何度か自問したことがある。
しかし私はそれでも外国に通った。そのときはこの衝動をどう説明して良いかわからなかったのだが、今になれば路地(同和地区)のような極めて土俗的で日本独特の問題を俯瞰し、比較するために外国の取材が必要だったと思うのだ。〉
強い光があれば影はその色を濃くする。影の縁取りはよりくっきりとする。形が見える。もっと強いコントラストをたまらなく欲してしまうような感じ、なのだろうか。一読者の私は、上原さんの後ろを追いかけるようにページをめくる。上原さんが様々な出会いのなかで、自分が何者かを「感じて」「考えて」いるのを追いかけながら、いつのまにか私も自分のことを考え始めていた。上原さんの旅の世界にひたりながら私の胸に浮かんできたこと……。少しおつき合いいただきたい。