ただときどき、「私は居場所が、どこにでもあるような、どこにもないような」妙な気持ちになることがある。この本を読んでいてわき上がってきたのは、そんな気持ちだった。さびしいというのとも少し違う。ただゆらゆらした感じ。「自分」は何者なんだろうか……。
この本を読みながら、そんな思いが迫ってきたのだった。
〈私には、日本にいてもどこか異邦人だという感覚がある。だから二〇代の頃、海外はかえって居心地の良い場所だった。それほど海外に出なくなった今も、異邦人だという感覚はいつも抱いていくのだろう。〉
背負うものがまるで違う上原さんの旅が、どうして私の気持ちを動かすのだろう。
それはきっと、上原さんが、「大きな物語」ではなく「小さな物語」から語り始めるからではないだろうか。国家とか歴史とかイデオロギー、社会構造という「大きな物語」に飲み込まれてしまうと、ひとつひとつの人生の機微がどこかへ行ってしまうことがある。上原さんは、どこへ行き、誰と会っても、のどかな村でも紛争地でも、自分というフィルターを研ぎすませて、まず「感じる」のだ。自分は何者なのかを、そこで感じようとするのだ。だから、上原さんと全く違う人生を歩んできた私でも、「感じる」ことで上原さんの旅の後を追えるような気がしてくるのだ。きっとこの本の読者もみな、いつのまにかそうしているに違いない。大きな物語なんて、一人一人が「感じた」その先に、自ずとみえてくるはずである。
自分にとって「自分」ほどわからない謎はない。これほど知りたい謎もない。だから多分、上原さんの旅はこれからも続くのだろう。それがまた本になったら、一読者の私も、自分の「ゆらゆら」を確かめるために上原さんの本をまた手に取るだろう。出来るだけ光をやわらかくして影の輪郭を曖昧にしようとするような自分の生き方を、また確かめるのだ。
とても楽しみにしている。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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