- 2016.09.05
- 特集
東映の歴史とは、すなわち、成功と蹉跌とが糾う、生き残りの歴史である。――水道橋博士(第5回[最終回])
文:水道橋博士 (漫才師)
『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』 (春日太一 著)
ジャンル :
#ノンフィクション
もともと、春日太一氏の活動は、「時代劇映画を復興すること」が最大のポリシーであり、本人が「裏方」への強い共鳴は今も隠していないが、書き手の本人が「無名」であっては、その声も所詮は、弱く、か細く、マニアックに過ぎないことに自覚的で、意図的に「表」に向けて活動範囲を広げている。
本人自身が、ラジオやWOWOW放送、トークイベントにも頻繁に登場し、時代劇、映画史だけでなく、時として鬱屈とした思春期や自分語りを繰り返し、まるで、自らが劇中人物であり「表」のひとりになろうとしているかのようだ。
そういう意味では『俺たちのBL論』(サンキュータツオとの共著・河出書房新社)などは、今後、時代劇研究家が著した奇書として謎めいて語られていくだろう。
学生時代内向的だった人物が、大人になって本当の居場所を得ると、もはや喋り出したら止まらない、溜め込んだ濃い知識と怨嗟を綯い交ぜにして、誰も反論も制止もできなくなる魔力を帯びる…文筆活動の内でも外でも、そんなゾーンに今、春日太一氏は入っているかのようだ。
時には舌鋒鋭く、チャンバラの如き論戦にも及び、ひと目を引く。
いわば、時代劇の時代に乗り遅れた筆者は、そのバトンを受け継ぐ選ばれた使者として、自らスポットライトを浴びることで、また次代へ「劇」を手渡そうとしているかのようでもある。
まるで全盛期の東映京都のような、活字の量産体制を強いる、若き「時代劇研究家」は己の裾野を広げ、今や「同時代」からも研究されるべき立派な「文士」と言えるのではなかろうか。
その姿に、ボクは旗幟鮮明に応援を誓い、今後の著作に期待しないではいられない。
昔日を振り返り、春日氏は「東京から京都へ、足を運んでいくら取材しても、その成果を発表させてくれる媒体がない時代が長く、毎晩トイレで便器に顔を突っ込んで泣いていた」と云う。
どころか、取材だけでは飽きたらず、思い余って、自ら映画の世界へ跳び込み、怒涛の物語に巻き込まれようと、東映の「芸術職採用」の入社試験まで受けたが、最終面接で落とされる無念と喪失の時間を過ごしている。
京都太秦の撮影所は、ひとりの青年に対し、過去と未来を見据える座標を授けつつも、峻烈な試練をも与えた。しかし、それは若き時代劇研究家を生む羊水ともなった。
撮影所とは、この本に描かれる全ての映画人の通過儀礼の地となっている。
本書が、これほどまでに我々ボンクラの胸を打つのは背景に、著者が青年から大人へと成長を辿る物語でもあり、著者にとって未完では終われない物語であったからだ。
春日太一氏は10年の歳月を経て、この“紙のフィルム”の編集作業を完遂した。
「この世で始まったことはこの世で終わるやろ!」――。
この本のなかで放たれた、東映京都撮影所が誇る名物製作進行・並河正夫の言葉が、我々読者の間にも木霊するのだ。
波打つ物語を一気に読み終え、本を閉じると「完」の文字が虚空に浮かぶ。
秀逸なる映画本の読後感は、一編の映画を見終えた感慨に一致すると言われる。
確かに、この豊饒なる読書体験は、在りし日の東映作品の興趣を彷彿させる。
だからこそ、ボクは夢想する――。
この本が何時か東映三角マークの下に実写化され、京都撮影所の「あかんやつら」が、白い牙を立てて巌を噛む荒波の如く暴れまくる、あの「熱き日」が蘇る日を!
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