2014.11.04 書評

『おろしや国酔夢譚』解説

文: 江藤 淳

『おろしや国酔夢譚』 (井上靖 著)

《「いいか、みんな性根を据えて、俺の言うことを聞けよ。こんどは、人に葬式を出して貰うなどと、あまいことは考えるな。死んだ奴は、雪の上か凍土の上に棄てて行く以外仕方ねえ。むごいようだが、他にすべはねえ。人のことなど構っててみろ、自分の方が死んでしまう。いいか、お互いに葬式は出しっこなしにする。病気になろうが、凍傷になろうが、みとりっこもなしにする」

「えらいことになったもんだな」

 九右衛門が憮然とした面持で言った。光太夫は更に続けた。

「たとえ、生命が救(たす)かっても、鼻が欠けたり、足が一本なくなっていたりしては、伊勢へは帰れめえ。――いいか、みんな、自分のものは、自分で守れ。自分の鼻も、自分の耳も、自分の手も、自分の足も、みんな自分で守れ。自分の生命も、自分で守るんだ。十三日の出発までに、まだ幸い十日許りある。その間に自分の生命を守る準備をするんだ。きょうからみんな手分けして、長くこの土地に住んで居るロシア人や、土着のヤクート人たちから、寒さからどう身を守るか、万一凍傷になったらどうすればいいか、吹雪の中におっぽり出されたら、自分の橇が迷子になったら、馬が倒れたら、そんな時、どうしたらいいか、そうしたことをみんな聞いてくるんだ。それから、みんな揃って、皮衣や手袋や帽子を買いに出掛ける。ひとりで出掛けて、いい加減なものを買って来るんじゃねえぞ。買物にはみんな揃って出掛けるんだ。いいな」

 光太夫の言い方が烈しかったので、機先を制せられた形で、誰も文句を言うものはなかった》(二章一二三―一二四頁)

 この一節が、おそらく『おろしや国酔夢譚』の核をなす部分である。それまでに、大黒屋光太夫の一行は、すでにさまざまな体験を重ねて来た。彼らは八ケ月にのぼる不安な漂流生活を送り、見知らぬ北方の島に漂着すると間もなく船を喪った。異人や土民のあいだで暮すうちに、仲間を葬りもした。アムチトカ島、ニジネカムチャツク、ヤクーツクと、帰国の見通しも立たぬまま、シベリアの奥深く連れて来られもした。しかし、この瞬間まで、他の仲間はもちろん光太夫といえども、いまだに真の“経験”の名に価する経験をしてはいなかったのである。

「むごいようだが、他にすべはねえ。人のことなど構っててみろ、自分の方が死んでしまう。……いいか、みんな、自分のものは、自分で守れ」

 これが、光太夫の“経験”の内容である。すべての基本的な経験と同じように、この経験もまたきわめて明快な構造を持っている。つまり、それはあまりに明快であるが故に直視しにくいという種類の自己認識であり、多くの人々は単に直視しにくいという理由から、この認識に到達することがない。だからこそ、九右衛門は、この「むごい」言葉を聴いて「憮然」とせざるを得ない。しかし、それを経験した光太夫には、もはや「憮然」としているいとますらない。彼はいま、眼から“うろこ”が落ちるような思いで、自分のまわりに黒々とひろがっている冷たい空間を見わたし、その重味が存在の奥底に浸透して来るのを感じているからである。

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おろしや国酔夢譚
井上靖・著

定価:本体720円+税 発売日:2014年10月10日

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