世代の近い文才ある漫画家として私の閻魔帳に名前が記されてきたのは、天久聖一、タナカカツキ、町田ひらくだった。今は福満しげゆき、古泉智浩、河井克夫も追加されている。ほかにも文章のうまい漫画家は大勢いる。少なくとも絵のうまい小説家の何倍かはいる。
だから、あの天久聖一が小説を書いた、という情報はニュースのように私に届いた。タイトルは『少し不思議。』だと知って一瞬、言葉の並びがやや平凡なのではないかと思い、すぐに藤子・F・不二雄がSFのことを「サイエンスフィクション」というより「すこし・ふしぎ」の略であると定義していたことを思いだした。実際、本作には藤子・F・不二雄の代表作『ドラえもん』を彷彿とさせるような男が登場する。が、本作は「少し」ではなく「凄く」不思議なのだ。と、だれもが同様の指摘をするようにタイトルが選ばれているのかもしれない。
記憶は嘘をつく、というような考え方が最近はよく知られるようになってきた。脳の中で思い出は思いだすたびにつくりかえられ、変化してしまっているのだという。本作は記憶の描き方に特徴がある。その特徴は、ドラえもんワールドの者たちが、未来から来た猫型ロボットのドラえもんを難なく受け入れているのとはちがって、主人公の独特の処世術のようなものから編み出された何かである。主人公は知らない女性が自分の部屋に当たり前のようにいることに驚くが、彼女がおかしいのではなく、自分の記憶がまちがっているのではないかと疑う。薬物に溺れた経験があるから、自分の脳に懐疑的なのである。
《幻覚に対する対処法は、現実側に乗せた片足を死んでも動かさないことだ。》《だから辰彦は幻覚を信じないように、現実も信じ切ってはいない。》(単行本p.87~88)
震災が出てくる小説らしい、との噂を耳にして身構えて読み始めたのだが、けっこう読み進むまで震災の話はまったく出てこない。そのしかけは、すこぶる面白い。なにしろ、小説の前半で丹念に語られてきた「不思議」な日々がむしろ「普通」に思えてきたころ、現実の私たちの身に起きたはずの震災やその後の様子が語られ、後者のほうがむしろフィクションではないかと錯覚したくなるからだ。