『ぶるうらんど』の第一章目は夫婦の会話で終始するが、これを読んだぼくの知人のほとんど全員がわが夫婦を想定して読んだそうだ。全くわが夫婦と無関係なキャラクターなのに、どうも日本の小説は私小説が多いせいか、読者まで私小説に洗脳されてしまっている。オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』の中で「芸術を表して芸術家を隠すことが芸術の目的なのである」と言っている。だけど日本の小説の多くは、芸術家が表に「私」の顔を出したがる。ぼくは絵画に於いてもワイルドやルーベンスの考え方の影響を受けている。そこで「ポルト・リガトの館」ではそんな日本の風習を逆手にとって、主人公と著者を同一化させるために主人公の名前を「唯典(ただのり)」とあえて、私小説的に擬装してみた。きっと読者は著者のぼくを想定して読んでいくに違いない。しかし読んでいく過程で「オヤ?」、私小説としては非合理的な迷宮世界にまぎれ込んでいることに気づくに違いない。私小説なのにどうしてこんな不可思議な状況に遭遇したのだろう、これは私小説ぶっているけど、単に想像的世界ではないのか、と読者がとらえてくれれば、ぼくはそこでほくそ笑むことができるのである。
この本に関しての記述はこの程度にして、あとは読んでいただくしかない。ペラペラ余計なことをしゃべり始めたら、書いた意味が失われてしまう。ぼくの絵画と同じようにあちこちに謎を仕掛けているが、これはぼく自身の愉しみである。だからその意味するところが伝わらなくてもちっともかまわない。
小説と絵画は対極の表現にもかかわらず、ぼくは小説を絵画を描くように試みている気がする。というよりぼくにはこのような方法でしか描けないのかも知れない。絵画では心理描写は不可能である。またその必要もない。そこで小説の場合、心理描写の部分を情景などを絵画的に描くことで代行してしまう。ぼくの絵画がもし文学的だとすれば(そんなことはないが)、キャンバスに描かれた絵は一種の心象風景である。ぼくの小説が絵画的だといわれるのも、情景描写が多いからかも知れない。小説はぼくの絵画と同様、観念的、論理的にとらえるのではなく、身体的、感覚的、生理的にとらえることで、ぼくの世界観が表現できるのではないだろうかと考えている。