――「剣客船頭」「八州廻り浪人奉行」など、切れ味鋭い硬派の時代小説を数多く書かれていますが、6月から文春文庫で始まるシリーズの主人公・徳右衛門(とくえもん)は、今まで登場してこなかったタイプですね。32歳の与力で妻と2人の子を持つ彼の人生の信条はズバリ、「仕事よりも家族」。勤めはまずまず無難に果たし、家庭の平和と子供達の成長を何よりも大切に、穏やかな日々を送りたいと願う「マイホーム」主義の武士です。
稲葉 徳右衛門は御先手弓組(江戸城各門の警備)与力なんですが、現代でいえば大企業の係長くらいの感じでしょうか。与力とか同心って人数は多いけど、戦国時代とは違って幕藩体制が固まった後の彼らは頑張ったところで旗本になれるわけじゃないし、ほとんどの人は自分の職分だけこなして日々を送っていたんじゃないかと思うんです。江戸時代にいっぱいいたこういう人って、実際にはどんな愉しみがあって、生きがいはどこに見出していたんだろう? そんな思いから、「家族が大事」というこだわりを持つ徳右衛門が出てきました。植木等のサラリーマンシリーズってありますね。「気楽な稼業と来たもんだ」っていう(笑)。とにかく勤めに出さえすればいい、贅沢は望まないから気楽に過ごしたい、俺1人くらいサボったって大丈夫だし……今の時代はだいぶ厳しくなっている面もあるでしょうが、安定企業のサラリーマンやお役所勤めのそんなイメージ、それは徳右衛門にも投影しています。
――徳右衛門さんは、仕事から帰ってくるといつも妻の顔色を気にしているし、休みがとれない埋め合わせを考えたりしてます(笑)。舅・姑が遊びにきてなかなか帰らないことに困っていたり、同僚の妻のお見舞いにどんな土産を持っていくか悩んだり、下級武士の生活そのものが興味深くて楽しいですね。
稲葉 「主婦目線」を心がけて書いています(笑)。与力たちは大縄地とも呼ばれる組屋敷に住んでいて、そこは同じ役職の人たちのコミュニティーなので、今の社宅みたいな状況だったんじゃないかと。だったら主婦同士の見栄の張り合い、やっかみやひがみもあったはず。こういうテーマは男には「くだらない」と映るものですが、働く男は仕事以外のことに接する時間が短いから、重要なこととは思えないんですね。
――現代では、残業を“悪”とみなして社員を早く帰宅させる企業も多くなりました。とくに若い人は、仕事と私生活の両立、「ワークライフバランス」を重視して考え、それに添った仕事を選ぶようです。
稲葉 そういうのを聞くと「へーっ」と思いますね。僕なんかは会社勤めの経験がないし、もともと「まずは仕事ありき」の人間なんですが、ワークライフバランスなんて意識は僕らが働き始めた頃はなかったんじゃないかなあ。その場合、仕事の「志」みたいなものはどうなるのか、と感じてしまいますね。
――徳右衛門もある意味、今の若い人に近いと言えそうですが、とはいえ上司や同僚との関係でかなり気も遣っていますし、上司の息子に自分の息子がいじめられるという問題が起きた時には、子どもの為にどう行動すべきか、かなり悩んでいます。他の人の“生きがい”を聞いて真似してみたり、名誉が欲しい気持ちもチラチラとあり、スッキリと「出世しなくて良い」とはいかないようですね。
稲葉 とりわけ妻の志乃さんは、たぶん心の奥でずっと、夫の出世を願い、ひきずっていくでしょうからね(笑)。
書き下ろし時代小説というとこれまで、主人公は奉行所の人間とか浪人で、職務上いろんな事件に出会って展開していくというものが自分の作品を含めて多かった。ですが今回は、武士が家族や生活の事情ゆえに事件に巻き込まれ、その解決が自分の人生の意味とも直結しているという、新しいものを描きたかったんです。徳右衛門がこのまま「マイホーム侍」として生きていくのか、結局出世してしまうのか、僕にもわかりませんが、時代小説の人情、武士の誇りや、剣のシーンの爽快な読み筋は大事にしつつ、ホームドラマを見ているような味わいをベースに、満足感たっぷりのシリーズにしていきたいですね。
――文庫カバーは、徳右衛門の家族四人が並んでこちらを見ている絵。これも、時代小説のカバーの中では新鮮ですね。
稲葉 まるで記念写真みたいでしょう。もちろん、この時代の下級武士には有り得ないことですが、ちょっと映画のポスター風なものがいいなと。かつて僕は放送作家として映画やテレビに関わってきましたが、今度は時代小説で「下級武士のホームドラマ」を描いていきたいですね。